第398話 令和2年6月7日(日)「上達」日野可恋

「もう一生食いっぱぐれることはないわね」


 母が絶讃すると、その向かいに座った華菜さんが顔を赤らめた。

 母は饒舌に「お店を出せるレベルだもの。いっそ、お抱えシェフにしたいくらいよ」と褒めちぎるが、それは決してお世辞ではない。

 華菜さんが作ったのが母の大好物のハンバーグだったことを差し引いても、その腕の上達振りは目を見張るものがあった。


「1年前に私が教えたレシピがベースなのに、ここまで差が付くなんてね」


 私が苦笑すると、華菜さんは「可恋ちゃんのお蔭だよ」と謙遜した。

 週に数回華菜さんはうちに夕食を作りに来てくれる。

 今日は私の母が一緒に食べるということでいつもより気合が入っていた。

 手間暇を惜しまないという点は私には真似できないことだ。

 今日の料理だって母や私の分はスパイシーなソースを使っているが、ひぃなの分は生クリームを入れて味を調整している。


「わたしは美味しさばかり目が行っちゃうけど、プロだと効率も重要だもの。可恋ちゃんから学ぶことは多いよ」


 華菜さんの言葉に私の前に座ったひぃなが小首を傾げた。

 それに気づいた私が説明する。


「私の場合は味よりもいかに手を抜いて簡単に作れるかを考えちゃうのよ。もちろん味も大事けど、手間を掛けるくらいなら素材にお金を掛けて済ませた方が簡単じゃない」


 私は自炊にさほどこだわってはいない。

 栄養管理をする上で自炊の方がやりやすいからやってるだけだ。


「身も蓋もない意見だけど経営という観点からは間違っていないのよ」と母が補足し、「でも、美味しいものを作りたいという向上心が華菜ちゃんの力になっているのでしょう」と称えた。


 華菜さんははにかんだ表情で「頑張ります」と答えた。

 一方、ひぃなは「お姉ちゃんも可恋もどんどん料理の腕が上がるから全然追いつかないよ」としょげ返る。

 華菜さんが「ヒナも上達したよ。びっくりするくらいに」と慰めるが、「まだひとりでキッチンを任せてもらえないもの……。お姉ちゃんや可恋のようにパパッと料理を作れるようになれると思っていたのに」とひぃなは口を尖らせた。


「ひぃなは料理をしている途中でも、良いアイディアが浮かぶと軌道修正しちゃうから」と私が指摘すると、「ヒナは芸術家だからね」と華菜さんが微笑む。


「自分の能力に見合わないことをしているって分かってはいるのよ。だけど、思いついちゃったものは仕方ないじゃない」


「思いついたものは仕方ないわね」と肯定した私は、「この前も手伝ってくれている途中で、これを入れたら絶対に美味しくなるからって言い出して……」と最近あったエピソードを語り始めた。


「可恋!」と慌てるひぃなに、「失敗は成長の糧だから、共有しないと」とウインクを飛ばす。


 実際に華菜さんから、そういう時はこうすればというアドバイスをもらい料理談義に発展した。

 むくれていたひぃなも会話に加わり、次はもっとうまくやるぞという顔をしている。


 母がいたためにいつもより賑やかになった夕食は、その分いつもより遅い時間に終了した。

 日が長くなったとはいえ、外はすっかり暗くなった。

 私が華菜さんを送ると申し出ると、ひぃなもついて行くと言い出した。


「帰りは可恋ひとりになるじゃない。不用心だよ」


「じゃあ、ひぃなに守ってもらおうか」と私は笑ってそれを承諾した。


 マンション内は空調が効いているので季節の移ろいを感じにくい。

 華菜さんによれば昼間は暑かったという話だが、日が落ち風もあるのでとても快適な気候になっている。

 こうして歩いていると、すっかり日常が回復したかのようだ。

 しかし、華菜さんが通う高校はまだ日常とはほど遠いらしい。


「明日からは午前と午後に別れての分散登校なの。コロナに過敏になっているせいか学校は物々しい感じがするし、クラスの雰囲気がどうこうという状況じゃないよね」


「オンラインホームルームをやっていたって、クラスのまとまりなんてまだゼロって感じだもの。不安そうな顔の子もいれば早く元通りに戻って欲しいって子もいて、温度差が激しいよね」


 華菜さんに続いてひぃなが校内の空気を教えてくれる。

 様々な声に耳を傾けないと、学校に行けない私は現場の様子は把握できない。


「世間は気の緩みが出て来ている感じもしますが、学校、特に先生方はいかがですか?」


 私の質問に華菜さんは「休校が開けたばかりだから緩みは感じないかな」と答えてくれた。

 まだ授業は始まっていないので、始まったらまた教えてもらえるようお願いした。


「ゆえからも聞いているんでしょ?」


「学生の生の声ってインターネットでも意外と集めにくいんですよ。高校生の本音を探るには、ゆえさんの力を借りるのが最適ですね」


「ゆえは可恋ちゃんの人脈を羨んでいるから、そう言うと喜ぶんじゃない」と華菜さんが微笑む。


 ひぃなは「高校生の情報も必要なの?」と不思議がったが、「来年、私たちが高校生になっても完全に終息しているとは限らないのだから、学校の対応には関心を持っておかないとね」と私は説明した。

 彼女が顔を曇らせたのは、この感染症に長くつき合わなければならないと改めて思い知らされたからだろう。

 私たちが進学する予定のお嬢様学校の情報が手に入れば理想だが、ホームページに公表されている以上の対策は分からなかった。


 華菜さんの自宅に到着する。

 ひぃながいなければ玄関先で別れるところだが、一度家に上がって姉妹の両親にご挨拶をする。


「ひぃなも今日は自宅で寝たら」と勧めたが、「可恋ひとりで帰せないよ」と主張した。


 もう学校が再開したのだから自宅に戻っていいよと何度か彼女に伝えたが、「可恋が登校できるようになるまでは非常時なの」と言われた。

 私にとって学校に行けないのはよくあることという認識だ。

 だが、ひぃなが心配してくれているのだから彼女の気が済むまでやってもらおうというのがいまの私のスタンスだった。


「まだ全員から聞いた訳じゃないけど、みんなの意見は『嫌だけど仕方ない』って」


 帰り道でひぃなが口にしたのは君塚先生の授業についてだった。

 この週末、クラスメイトたちの考えを知ることから始めたようだ。


「どうするつもり?」と尋ねると、「要望も聞いてみたの。君塚先生をどうにかして欲しいじゃなくて勉強を教えて欲しいんだって」とひぃなは溜息を吐く。


「それで?」


「いまは勉強会ができないから、オンラインを使ってみんなで予習しようかって話になっているの」


 私は興味が湧いたので誰が言い出したのか聞いてみた。

 ひぃなは高月さんだと教えてくれた。


「男子数人や岡山さんたちが協力してくれるって言うし、都古ちゃんが飛び上がって喜んでいたから……」


 ひぃなはコミュニケーション能力が高く誰とでもすぐに仲良くなれる。

 ただし、彼女の交友関係は浅く広くが基本だ。

 今回のように自分の目的に協力してもらおうとするならもっと深い関係を構築する必要が出て来るだろう。


「急がば回れって言うしね。焦っても仕方がないよ。恩を売りつけるくらいの気持ちでいいんじゃない」


 ひぃなは顔を上げてこちらを見た。

 その表情は複雑そうで、私の言葉を無条件に受け入れる気はなさそうだった。


「……考えてみる」


 彼女なら私の想定以上の解決策を見つけるかもしれない。

 それを楽しみにしつつ、フォローの準備は怠らないようにしないとと私は自分の頭に刻み込んだ。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。免疫系の障害があり登校自粛中。今日はハンバーグのできる時間に合わせて焼き野菜を作った。


日々木陽稲・・・中学3年生。将来の夢はファッションデザイナー。今日は焼き野菜の味噌ディップを担当。


日々木華菜・・・高校2年生。陽稲の姉。将来の夢は調理師か栄養士。休校中は料理に没頭し更に腕を上げた。


日野陽子・・・可恋の母。某超有名私立大学教授。本人曰く野菜炒めならできるわよ、とのこと。

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