第397話 令和2年6月6日(土)「やっとスタート」晴海若葉

 昨日のことだ。

 暑かったのでマスクを外していたら、クラスメイトから「近づかないで!」とバイ菌のような扱いを受けた。


 中学校に入学して2ヶ月が経つのに、まだクラスメイトの顔を覚えていない。

 みんなマスク姿だから区別がつかない。

 そんな状況で仲良くなれる訳がない。


 学校へ行くのが嫌になりかけていたあたしを救ったのは、帰り際に教室に飛び込んできたふたりの女子生徒だった。

 ふたりは早口で、翌日の午前中に近くの公園でダンス部の自主練があるから見学に来てとまくし立てて出て行った。


 今日、あたしは喜び勇んでその公園に出掛けた。

 わくわくしすぎて30分ほど早く到着したが、すでにダンス部の部員と思われる生徒が何人か来ていた。

 その集団から少し離れた場所で立って見ていると、中のひとりがあたしに気づいて近づいてくる。


「おはよう! 久しぶりだね、元気?」


 半年近く前にあたしがこの公園で練習を見学していた時に声を掛けてくれた先輩だ。

 あたしは覚えていてくれたんだと感動しながら、「おはようございます」と小声で言って頭を下げた。

 あの頃は中学生になることへの不安を感じていた。

 それをこの物腰の柔らかい先輩が拭い去ってくれた。

 しかし、ダンス部入部を望んでいるあたしにとってこれからは部の先輩となる相手だ。

 失礼なことがあってはいけないと緊張してしまった。


 先輩はにっこりと微笑み、あたしの態度を問題にしなかった。

 そして右手を挙げて、「見学に来た子はここに集まってね」と大きな声を出した。

 すると、あたしよりも更に遠くにいた女の子たちが集まってきた。


「最初は少し見学して、それからみんなにも身体を動かしてもらうね」と先輩が説明し、あたしたちが頷く。


 今日は曇り空ながら朝から蒸し暑い。

 マスクを着けずに家を出たが、ダンス部の部員は全員マスク姿で、見学者もあたし以外の5人のうち4人がマスクをしていた。

 うちの親はもうマスクを着けようとしないし、生活も完全に元に戻った。

 それなのに周りがこうだと、あたしだけ別の世界にいるような気分になってしまう。


 先輩から手を伸ばしても互いに当たらない距離に離れてと言われ実行する。

 先輩部員たちも同じように距離を開け、マスクを外して身体を動かし始めた。

 ウォームアップが済むと号令に合わせてダンスの練習を始める。

 十数人がピッタリ息を合わせ、動く様は壮観だ。


 思わず見とれていると、「そこ、何をしているんですか!」とジャージ姿の大人の女性ふたりが駆け寄ってきた。

 先輩が「あ、ヤバ」と口にし、「みんなにはいまからジョギングをしてもらうから。ついて来て!」と先頭を切って走り出した。

 練習中の先輩部員たちの様子も気になったが、あたしは慌てて走って行く先輩を追い掛けた。

 ほかの見学者たちも一緒に走り始めて、集団となって先輩のあとに続く。


 到着したのは学校から離れた位置にある別の公園だった。

 あたしの家からは遠いのであまり来たことがない。

 先輩が「水分補給をしてね。持ってない人はそこに自販機があるから」と教えてくれる。

 あたしは手ぶらだったので買いに向かった。

 もうひとり、マスクをしていなかった子もついてくる。


「アタシ、恵藤奏颯そよぎ。よろしくね」


 あたしより少し背が高い少女がそう名乗った。

 あたしより少し日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべている。


「よろしく。あたしは晴海若葉」と答えると、すぐさま「わかばか……。あ、若葉って呼んでいいよね? アタシはそよぎでいいから」と彼女は言い出した。


 ちょっと強引な印象だが、悪い気はしない。

 あたしにとっては入学して初めての友だちだ。


「分かった」と頷き、あたしもニッコリと笑った。


 自動販売機でスポーツドリンクのペットボトルを購入し、肩を並べて歩く。

 そよぎは「須賀先輩のこと知ってるの?」と聞いてきた。

 冬にあったことを話すと、興味深そうに「へえ、そうなんだ」と納得した。

 先輩の名前を知っていたことを疑問に思い、「そよぎは?」と尋ねると、「わかねえ――アタシの姉が3年生の部員なのよ」と教えてくれた。


 羨ましい気持ちで仰ぎ見ると、「でも、わかねえって鈍臭いのよ。早也佳さんみたいなお姉さんが欲しかったな」とそよぎが嘆いた。

 早也佳さんというのはわかばのお姉さんの親友で、ダンス部の中心メンバーのひとりなんだそうだ。


 そんな話をしていたら、つい歩みが止まってしまう。

 そこへ、「今日は見学だから厳しく言わないけど、他の子を待たせているんだから急いでね」と須賀先輩から声を掛けられてしまった。

 あたしはそよぎと顔を見合わせ、急いで駆け戻る。

 こんな些細なことがとっても久しぶりに感じて、とても嬉しかった。


 距離を取って準備運動をしていると、他の先輩部員たちもこの公園にやって来た。

 興味津々といった目でこちらを見ている。


「今日は初めてだから、簡単な動きをやってみましょう」と須賀先輩が笑顔で言った。


 そして、カウントを取りながら短いダンスを踊った。

 簡単そうに手足を動かし、最後にターンして決めポーズという単純なものだ。

 それなのに1年生がやっても様にならない。

 ただひとり、そよぎだけはちゃんとダンスをしているように見えた。


「スマホを持っている子は動画を撮るから、自分で確認してみて」と先輩が言うものの、あたしはスマホを持っていない。


「アタシが撮ってあげるよ」とそよぎが言ってくれて、あたしは手を合わせて彼女に感謝した。


 その映像を見れば、ほかの1年生を笑えないほど無様な動きだった。

 冬に須賀先輩から教えてもらったのに、ひとりだと練習を続けられなかった。

 スマホを持っていればダンスの動画を見て勉強できたのかもしれないけど……。


 ダンスの練習後にほかの子たちが部のLINEグループに登録するのを横目で見ながらあたしは溜息を吐く。

 中学生にはまだ早いと言われていて、うちでは買ってもらえそうにない。

 そんなあたしにそよぎが「ね、今度放課後に練習しない?」と誘ってくれた。


「いいの?」と目を輝かせると、「わかねえは受験勉強があるし、ひとりだとなかなか続かなくて困ってたから」とそよぎが笑った。


 いい奴だと感激しながら、いつどこで練習するか打ち合わせをしていると、「わたしも入れてくれないかな?」と割り込む声があった。

 見ると、見学者の中でいちばん小柄な女の子がこちらを顔を向けている。

 かなり髪が長く、少し高めの位置でポニーテールに結んでいる可愛い子だ。


「恵藤さんとは同じクラスだよね」と言った少女はあたしに向き直り、「初めまして。紺野若葉です」と挨拶した。


「あ……」と名乗り返せずにあたしは呆然とする。


 若葉という名前はそれほど珍しいものではないが、周囲に同名の子はいままでいなかった。

 なんだか不思議な気分になる。


 相手の訝しげな視線に気付き「えーっと、あたしは晴海若葉」と言うと、向こうも驚いた顔になった。

 ふたりの間の気まずい空気を打ち破ったのはそよぎだった。


「若葉と若葉。どう呼び分けようか。アタシの姉も3年生部員でワカナって言うから紛らわしくて困るな」と個性的な名前の持ち主であるそよぎが苦笑する。


 紺野さんは「ハルミって名前の子がいたらもっと大変なことになりそうね」と口にした。

 あたしは「小学生の時にいたよ、ハルミちゃん」と顔をしかめた。

 即座に「中学は?」と紺野さんが尋ね、あたしは首を横に振って「男の子だったの。小さい頃は女の子みたいでそう呼ばれてからかわれていたけど、高学年になってからは男の子っぽくなって姓の方で呼ばれるようになった」と説明した。

 ちなみに風の噂で私立中学に行ったと聞いている。


「ハルワカとかコンワカとかも呼びづらいよね。いっそ、1号2号なんてどう?」とそよぎがお手上げのポーズをした。


「どっちが1号なのよ」とツッコんだ紺野さんは「わたしはコンノで良いわよ。でも、若葉と呼ばれて反応しちゃっても許してね」とあたしに向かって可愛く首を傾げてみせた。


 あたしはゴチャゴチャ考えるのが苦手なので、「ありがとう」とニッコリ笑う。

 きっと今日からが本当の中学生活の始まりだ。


「そよぎ、コンノ……コンちゃん、改めてよろしく!」




††††† 登場人物紹介 †††††


晴海若葉・・・中学1年生。


恵藤奏颯そよぎ・・・中学1年生。三人姉妹の三女。


紺野若葉・・・中学1年生。……コンちゃんは、…………。


須賀彩花・・・中学3年生。ダンス部副部長。自主練が教師に見つかったら別の公園で落ち合おうという打ち合わせは事前に優奈と交わしていた。


恵藤和奏わかな・・・中学3年生。ダンス部。そよぎの姉で三人姉妹の次女。同じダンス部の山本早也佳と仲が良い。

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