第396話 令和2年6月5日(金)「政治力」日々木陽稲
「わたしは君塚先生の英語の授業が好きじゃありません。苦痛です」と、つい本人の前で漏らしてしまった。
昨日のことだ。
面談の場で、わたしのお母さんや藤原先生がやり込められているのを見て我慢できなかった。
何か考えがあった訳じゃない。
思いが口から飛び出てしまっただけだ。
「わたしは負けません」なんて大見得を切ったものの、何の勝算もなかった。
その後、お母さんと可恋のマンションに行き、面談の内容を報告した。
可恋が準備してくれたデータを活かせなかったとお母さんは謝っていたが、可恋は興味深そうに話を聞いていた。
わたしの発言に対しては特にコメントはせず、わたしの考えがまとまるのを待ってくれているようだった。
それから一夜が明けた。
今日から午前と午後に分けられて登校する。
ここ数日で一気に夏の暑さになった。
わたしは紫外線対策をしっかりして学校に向かった。
あんなことを言ってしまったのだから、君塚先生と顔を合わせづらい気持ちはある。
それでも下を向くことなく、堂々と過ごそうとわたしは心に決めた。
ホームルームの時に先生が教室に入ってきた瞬間は緊張したが、言葉を交わすことなく終了した。
クラスメイトが半数しかいないせいか、教室の雰囲気もまだ普段通りとはいかないようだ。
暑いねなんて声を掛けることはあっても集まってお喋りする様子は見られない。
君塚先生の授業について突っ込んだ話を聞ける状況ではなかった。
可恋のマンションに帰ったわたしは、午後に時間を取ってもらい話をすることにした。
すでに空調がフル稼働しているこの部屋は外の暑さとは無関係だ。
可恋が淹れてくれた熱い紅茶が置かれた小さなテーブルを挟んで、わたしはリビングのソファーに腰掛けた。
向かいの床に敷いたクッションの上に可恋が片膝を立てて座っている。
「君塚先生の授業のやり方を変えることはできると思う?」
わたしの直球の質問に、可恋は「無理」と即答した。
わたしは呼吸を整え、「可恋でも?」と問う。
「私なら方法がない訳じゃない。でも、そこまでする必要を感じないかな」
可恋は君塚先生の授業をある程度評価している。
ベストではないがワーストでもない。
どんな教師の授業スタイルでも合う生徒と合わない生徒がいるという考え方だ。
「わたしが変えて欲しいと望むことは間違っているの?」
「そんなことはないよ。希望を述べることは大切なことだね。授業の改善に繋がるかもしれないし、希望を酌んでくれるかもしれない」
しかし、昨日の君塚先生の態度を思い返すとそれは望み薄だと感じてしまう。
可恋だって自分の言葉が実現するとは思っていないだろう。
「わたしが変えて欲しいと望んで、何らかの行動を起こすことは正しいのかな?」
「それは正当な権利だよ」と可恋は微笑む。
「でも、それを迷惑に感じる生徒だっているかもしれないじゃない」
わたしが気掛かりなのはそこだった。
これはわたしと君塚先生だけの問題では収まらない。
クラスメイトたちが巻き添えになるかもしれない。
そんなわたしの懸念を他所に、可恋は楽しそうに「そこで鍵を握るのが政治の力だよね」と語った。
「政治の力?」と胡散臭い思いで尋ねると、「私がよくやっているでしょ。裏でコソコソ動いて実際に始まる前に決着をつけておく根回し」と可恋は目を細めた。
確かに可恋の十八番というイメージがある。
もちろんあまり良い印象ではないから魔王なんて呼ばれるのだ。
「例えば、クラスで何かを決めるとする。ホームルームで議論して最後に多数決を取って決めるのが普通のやり方よね」
可恋の言葉にわたしは素直に頷く。
可恋はそれを見て言葉を続けた。
「果たしてそれはベストな決め方なの?」
可恋はわたしを試すようにニヤニヤと笑っている。
わたしは冷めかけた紅茶を飲み干してから「それが普通なんじゃないの?」と答えた。
「仮に男子21人女子20人のクラスで男子が一方的に有利なルールを多数決で決めたとしたら、それは民主的なのかしら」
「……それは良くないと思う」とわたしが答えると、「じゃあどうするのが良いと思うの?」と可恋は畳みかけてくる。
わたしがすぐに答えられずにいると、「何かを変えたいと行動を起こすのならまず支持者を集める必要がある。説得したり、意見をすり合わたりしてね」と可恋が指を立てて話し始めた。
可恋に言わせると、議論の場で意見を述べていきなり全面的に支持してくれと言っても賛同は得られないそうだ。
十分なデータを示し合理的に説明したとしても誰もがすぐに納得してくれる訳ではない。
そのための事前準備こそが政治の力なのだと言う。
時間を掛けて合意を形成し、最初の要望が100%は通らなくても確実に賛成多数に持ち込む。
「それってもの凄く面倒よね」とわたしが口にすると、「だから政治家というプロに任せているんだよ」とさも当然と言った顔で可恋が説明した。
「批評家評論家が優れた知見を示してもなかなか世の中を変えられない。それはこの手間を惜しんでいるから。喋るだけなら楽だけど、意見を調整するなんてもの凄くめんどくさいよね」
「……可恋はそれをいつもしているの?」
「いまの時代、家にいながらできるんだから楽だよ」と可恋は苦笑する。
「多数決は一見民主的だけど、楽をすればするほどそこからこぼれ落ちる意見が出て来る。全会一致の強要は逆に多数意見をないがしろにすることに繋がりかねない。どこに落としどころを見つけるかが政治の力を試される場面でしょうね」
わたしは腕を組んで可恋の言葉を咀嚼する。
これはわたしの得意とする対人コミュニケーションとは別種のものだ。
もちろん応用は利くだろうが、わたしにできるだろうか……。
「実は、君塚先生の政治力を警戒していたの。いまは体罰なんて一発でアウトだから教師ができることなんて限られているのよ。内申や保護者呼び出しで脅すのは誰にでも有効って訳じゃないしね」
自分の考えに沈んでいたわたしは顔を上げて可恋を見た。
頬に手を当てた彼女は、「それこそ裏で生徒を扇動して敵対する子を攻撃するような人だったら危険でしょ」と言って、昨年懲戒免職となった谷先生の名前を出した。
「あの先生は小遣い稼ぎの感覚でやっていたけど、もっと悪意と計画性があればピンチだったわ」
それに比べると君塚先生は職員室の中で派閥を作ろうとしないから対応しやすいそうだ。
「教師は管理職以外対等という建前があるから、君塚先生が暴走しても止めるのは難しいのよ。管理職である校長先生と繋がっているからね。桑名先生には対処するために包囲網となるグループを作って欲しいってけしかけているんだけど、派閥が嫌いみたいで困ったものよ」
桑名先生は3年生の学年主任で、昨年度まで前任の校長先生派と田村先生派が対立する中で中立を保っていたそうだ。
休校への対応に追われていた新任の校長先生は派閥争いどころではないらしいが、時間が経てば校長派ができ、君塚先生が中核になると可恋は予想している。
生徒から先生たちの派閥を作れと迫られる桑名先生には同情するが、校長派が増えると過ごしやすいいまの学校の雰囲気が変わってしまいそうで不安になる。
「わたしも桑名先生のようにクラスの中に派閥を作った方が良いのね?」
「ひぃなの場合は学級委員としてクラスの意見を集約し、何か行動を起こす時に反対者が出ないようにまとめておくってところだね」
結局、可恋に頼ってしまったが、今回は方向性を示してもらっただけだ。
可恋は君塚先生の件はわたしが好きにすれば良いと言った。
「臨玲行くのに英語の内申が少し落ちたって問題にならないし、保護者はひぃなの味方だし、目の敵にされたとしてもたいしたことはないよ。いろいろと経験を積めると思えば良い相手なんじゃない」
可恋ほど割り切った考えはわたしにはできない。
それでも気持ちが軽くなった。
わたしに何ができるかは分からない。
でも、面倒なことをひとつひとつやっていけば見えてくるものはあるはずだ。
いまは可恋の手を借りても、自分の足で立つために一歩前へ踏み出そう。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・3年1組。自分のコミュ力には絶大の自信を持っているが、相手の感情を読み解いたり共感したりするために使っているため少し勝手が違う印象。
日野可恋・・・3年1組。陽稲は観察力や洞察力に秀でているので経験さえ積めばできるようになると考えている。
君塚紅葉・・・3年1組副担任。英語教師。周囲からは校長の腹心と見られている。
桑名加代子・・・3年の学年主任。本来なら転任のタイミングだったが、田村・小野田両ベテラン教師が去ったことからもう1年この学校に残ることになった。
望月寿子・・・校長。この4月に着任し、長期休業や学校再開の業務に追われている。
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