第146話 令和元年9月29日(日)「ボクシング」日野可恋
ゴングが鳴った。
勢いをつけて、麓さんがキャシーの懐に飛び込む。
キャシーの顔に左のジャブを入れ、意識を上に向けたところで渾身の右がキャシーのボディにヒットした。
その直後、振り下ろされたキャシーの左手が麓さんの顔面に直撃し、その小柄な身体はマットの上に崩れ落ちた。
私だけでなくジムの人たちが急いでリングに駆け上がる。
さすがにこういう時の対応はみな慣れている。
脳しんとうを心配し、慌てて動かさずに意識の有無を確認する。
どうやら意識はあるようだ。
麓さんはジムの人たちに任せ、私はキャシーに話し掛ける。
『ダメージはないの?』
『痛かったぞ』
私はTシャツの上から彼女の腹筋に触れる。
鋼のような筋肉だ。
キャシーに打撃系の怖さを教え込もうとしたが、麓さんでは力不足だったということだろう。
『やる気があるなら、私が相手をするよ』
そう言うと、キャシーは飛び上がって喜んだ。
ボディのダメージはまったくないようだ。
私もボクシングは初体験なので勝てるかどうかは分からない。
麓さんほどでないとはいえ、体重差や身長差はかなりある。
ボクシングだと足や肘が使えない。
特に足が使えないことで攻撃の威力が落ちるだけでなく、リーチの差が大きく影響することになる。
麓さんはベンチに寝かされ、私とキャシーのふたりがリング上に残った。
『カレンは目をつぶってくれないの?』とキャシーが笑う。
麓さんへのハンディキャップとして、キャシーには開始3秒間目をつぶってもらっていた。
目を開けた瞬間に正確にパンチを振り下ろしたことは褒めざるをえない。
やはり彼女は格闘技に関しては才能の塊だ。
『今度、組み手の時にやってあげるわ』
本気で目をつぶる気はさらさらないけどね。
ゴングが鳴った。
さて、どう戦うか。
キャシーは意外なほど普通にボクシングのスタイルを取っている。
以前、一度見た組み手をすぐに真似できたほどだ。
見て覚える能力も高い。
キャシーは右前のサウスポースタイルだ。
ほぼ両利きのような彼女だが、作戦なのか、そちらの方が動きやすいのかは分からない。
私も見よう見まねでボクサーの構えをする。
左前で、左のジャブを数発撃つ構えをしてみせた。
キャシーも右のジャブで距離を測りつつ、近付いてきた。
キャシーは大柄だが、スピードも驚異的だ。
スタミナとパワーは当然彼女の方が上。
空手であれば、わずかな動きで相手の次の動作の予測が可能だが、ボクシングだとどこまで通用するか分からない。
彼女のジャブを腕でブロックするがそれだけでも結構痛い。
私は作戦を決め、実行する。
キャシーの右のジャブに合わせて私も左のジャブを放つ。
狙いは彼女の右腕だ。
ジャブだけで彼女のバランスを崩したりはできないが、構わない。
キャシーはジャブに続けて左のストレートを撃とうとするが、右手のジャブがわずかに内向きに私のパンチで振られるため、ストレートの初動が遅れている。
これまでのキャシーなら撃ったあとの腕を振り回したりすることがあったが、今日は忠実にボクシングをしている。
格闘技の基本を身に付けたと言えるが、トリッキーな動きがなくなることは私が予測しやすくなるということでもある。
キャシーはあまりにも右手のジャブに合わされるので撃つのを止めた。
ジャブがなくなれば、私はより近付き、彼女のガードの上にジャブを打ち続ける。
キャシーはステップで距離を取ろうとするが、私は回り込むことを許さない。
彼女が苦し紛れに左のストレートを放った。
それに合わせて私はキャシーの懐に入り込む。
その動きはキャシーも予測していた。
左のストレートを囮にして、近付いた私を右で仕留めようとしていた。
私はキャシーに体当たりする。
ここで肘打ちができれば一撃なのにと思いながら、私はボディを連打する。
キャシーの長い腕はこの距離だとうまく活かせない。
ボクシング経験があれば、クリンチするなりなんなり手はあったのだろうが、そこは素人の弱点が出た。
キャシーが後ろに下がるが、そこはもうコーナーポストだ。
私は身体を寄せ、容赦なく彼女のボディに連打を叩き込む。
上から覆い被さるように私の身体を抱きかかえようとするが、伸び上がった体勢からでは力が伝わらない。
ゴングが打ち鳴らされ、「そこまでよ」という大きな声が掛かった。
私が離れると、キャシーはズルズルと身体が崩れ、コーナーポストに座り込んだ。
両手のグローブで自分のお腹を押さえている。
『平気?』と聞くと、『死にそう』と苦しげに答えた。
答えられるくらいだから、平気っぽい。
リングを降りると、麓さんから「殺す気かよ」と言われた。
「戦う以上、それくらいの気持ちでなきゃ」と平然と答えると、若干引いていた。
不良のくせに軟弱だなと思っていたら、麓さんは「なんであんなのに勝てるんだよ」と怒るように言った。
リングの上を見ると、キャシーはもう立ち上がって、『もう1戦しないか?』と言い出していた。
確かにあんな化け物に勝っても恐れられてしまうだけだろう。
「今回はたまたまね。おそらく次は通用しないから」と私は麓さんに答え、キャシーには『もうやらないわよ』と大声で告げた。
その後、キャシーはトレーナーの方にパンチをミットで受けてもらいとても喜んでいた。
彼女が男性ならボクシングのヘビー級で富と名声を思うがままにできたかもしれないが、女性だとそこまでの富も名声も得られない。
私はジムの方々とキャシーの将来についての妄想を語り合い、いつか彼女が世界的なスーパースターになった暁には今日の出来事が良い思い出になるといいねと笑った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。キャシーは本能のままではなく、よく考えて戦っているところに好感が持てる。ただ、ずる賢さで上回る分、自分が有利だったりする。
麓たか良・・・中学2年生。ワタシが勝てるんじゃなかったのかよ、と言いたかったが、この戦いを見て可恋に逆らうのは危険だと改めて思い知らされた。
キャシー・フランクリン・・・14歳。G8。今回は負けたけど、次は勝てる!
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