第695話 令和3年3月31日(水)「目指すもの」日々木陽稲
「今日はわたしがいるから外出してきてもいいのに」
「うーん、……あとで買い物には行くから」
お姉ちゃんは居間にある椅子に座って手元のスマートフォンを見つめたままわたしの提案を断った。
わたしは向かいの椅子に腰を下ろす。
春の陽気が続き喉が渇いたのでキッチンに来た。
そのついでで声を掛けただけだったが、急に話をしたいと思ったのだ。
「お母さんが心配なのは分かるけど……」
先日お母さんが3ヶ月にわたる入院生活を終えて自宅に帰ってきた。
まだ体調は万全ではないが、少しずつ回復しているように見える。
「分かっているんだけどね。もうしばらくは好きにさせて」
お姉ちゃんが顔を上げて答えた。
その瞳には複雑な感情が宿っている。
お姉ちゃんはお母さんが倒れた時に外出していて、それを気に病んでいた。
退院の時にお母さんと直接話して吹っ切れたと言っていたが、それでもお母さんを残して外に出ることに躊躇いがあるようだ。
「わたしの分まで負担を掛けてごめん」
以前から伝えようと思っていた言葉をわたしは口にする。
家族のピンチなのだから家族が助け合うべき時だろう。
それなのにわたしは可恋の家にいて、なんの手伝いもできていない。
その皺寄せは当然お父さんやお姉ちゃんに行くことになる。
「負担だなんて思っていないよ」とお姉ちゃんは優しい目をした。
「ヒナが可恋ちゃんを心配するのは当然だもの」
健康に不安を抱えているのは可恋も同様だ。
その可恋は、今日は大学病院での定期検査に行っている。
今年の春は暖かいこともあって元気な姿を見せているが、いつ何時病に倒れるか分からないのが彼女だ。
母親の陽子先生と離れて暮らすことに不安がないか尋ねたことがある。
可恋は、お互いを尊重した結果だし緩やかに繋がっているくらいがちょうど良いと答えた。
彼女の祖母も大阪で独り暮らしだ。
そのことについても「意思に反して施設に入れるのもどうかと思うしね。私は強制入院なんてさせられたくないもの。認知症になればまた考えると思うけど」と話していた。
うちも学校が始まればお母さんがひとり家に残る機会が増える。
お父さんが在宅での仕事を増やすと言っているが、ずっと見ていられる訳ではない。
在宅看護といったサービスを利用することも検討中だ。
お母さん本人は無理をしないから大丈夫だとわたしたちの心配を笑って吹き飛ばしている。
「お母さん、わたしが会社を作ったら協力してくれるって」
空気を変えようとわたしは明るい声でお姉ちゃんに話し掛けた。
可恋から高校生のうちに起業して年商1億を目指せなんて言われた時にはまったく現実感のないお話のように思っていたが、高校の制服改革と結びついたことで俄然やる気が出て来た。
こういう話をまだ完全に復調していないお母さんに話していいものか迷ったが、「やりたいことがたくさんあると思うと、いつまでも寝ていられないって頑張れるものよ」とポジティブに捉えてくれた。
思わず「まだ先のことだから、いまは元気になることに専念してね」とブレーキを踏むようなことを言ったほどだ。
「ヒナは凄いね」と呟くお姉ちゃんの言葉には自嘲の響きがあった。
「お姉ちゃんだって自分の夢に向かって突き進んでいるじゃない」
「……そうだけど。でも、ほかにもっとできることがあるんじゃないかって、ふっと思ったりするんだよ」
「十分に凄いことだよ。人を幸せにする仕事だと思うもの」
お姉ちゃんは調理師や栄養士といった趣味の料理の腕を生かした仕事に就くことを目標にしている。
その腕はすでにかなりのものだし、栄養の勉強も熱心に続けている。
食事制限が求められるお母さんのことを安心して任せられた。
「1億円なんて聞くと世界が違うというか、比べるのもおこがましいってちょっと思っちゃったんだよ」
「そういうことをサラッと言えるのは可恋だけだからね。わたしだってお姉ちゃんと同じだよ!」
お姉ちゃんは笑って「いまどきの中学生はそれくらい稼いで当然なんだと思ったよ」と冗談を飛ばす。
わたしも笑って「いまどきの高校生は和食洋食デザートなんでも作れて当たり前なんて言われたら困るもの」と冗談を返した。
ふたりで笑い合っていると、「仲が良いわね」とお母さんが車椅子を自分で操作しながらリビングにやって来た。
わたしたちは即座に立ち上がろうとしたが、「大丈夫よ」とお母さんが掌をわたしたちに向けて動きを制した。
呼んでくれたら手伝うのにというふたりの思いを察して、「大変だけど慣れないとね」とお母さんは微笑む。
「いつもの美容院で出張サービスをしてくれるって」というわたしの言葉を皮切りに女3人によるお喋りが始まった。
せっかくなので有名な美容師に頼んだらという話になり、髪型をどうするかという議論が繰り広げられる。
洗髪を楽にしたいから短くというお母さんのリクエストに対してわたしが反対していると、お姉ちゃんが入浴時の大変さへと話題を切り換えた。
入院直後はひとりでできなくて介護が必要だったそうだ。
いまはひとりでできているが辛い時もあるらしい。
お姉ちゃんは介護の勉強もしたいと真剣な顔で話していた。
一方、わたしはルームウェアやトレーニングウェアについて話を聞く。
現在お母さんは締め付けのないゆったりとしたスウェットを着ている。
ただ見た目はあまりよろしくない。
着替えやすさやトイレの使いやすさを考慮しつつも、オシャレ心を刺激する服装が必要なのではないか。
お姉ちゃんは呆れた顔をしていたが、お母さんは楽しそうにわたしの力説に耳を傾けてくれた。
「服って自己満足な部分ももちろんあるけど、自己表現であり他人との関わりの中で存在するものだと思うの。病気や怪我で人との繋がりが断たれそうな時でもオシャレな服を着ることで精神的に繋がっていけたらいいなって」
お母さんはわたしの言葉を聞いて笑みを浮かべている。
その目は「可恋ちゃんのことが大好きなんだね」と語っていた。
お母さんはこうして家族との繋がりを保っている。
仕事も続けるし、元気にさえなればまた人との繋がりを育むことができるだろう。
可恋は――。
彼女が倒れれば、もちろん陽子先生たち家族は心配して駆けつけるだろう。
だが、その距離感はうちとは異なると思う。
それが良いとか悪いとかではなく。
わたしは彼女に見せる服か着せる服ばかり作ってしまいそうだ。
でも、彼女に満足してもらえるものならきっとどこでも通用するはずだ。
どれだけ忙しくても、わたしが作った服の感想くらいは言ってくれるよね、可恋。
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