令和3年4月

第696話 令和3年4月1日(木)「スタート」土方なつめ

 4月1日。

 新年度がスタートした。

 私にとって、大きな大きな一歩を踏み出す日だ。


 東京――厳密に言えば神奈川県だけれど私からしたら似たようなものだ――は朝から驚くほど暖かい。

 こちらに引っ越して来て最初に驚いたのは、人の多さと暦を数ヶ月進めたかのような気温だった。

 そのどちらにもまだ慣れたとは言い難い。


 目黒区にあるワンルームマンションから1時間ほど掛けてここにたどり着いたが、電車は混んでいるし乗り換えも大変だった。

 これが都会なんだとお上りさんになったような気分だ。

 指定された喫茶店に約束の30分前になんとか到着した。

 こういうお店も地元にいた時はひとりで入ったことがない。

 ドキドキしながら席に着き、頭が真っ白になりながらコーヒーを注文し、せめて冷たいものを頼めば良かったと後悔しながらそれを呑み干した頃に彼女が現れた。


 会うのは初めてだが顔は知っている。

 私がその姿を確認して慌てて立ち上がると、彼女はつかつかと歩み寄って来た。

 テーブルの上に置かれた伝票をサッと手に取ると「出ましょう」と私に声を掛ける。

 私は言われるまま彼女のあとに従った。

 彼女が精算を済ませ店の外に出る。

 私もそれに続く。

 陽差しが眩しい。


 彼女はサングラスを掛けると「ついて来てください」と言った。

 私は「はい」と返事をして、彼女の真横よりも少し後ろを歩く。

 彼女も長身で、私とほぼ同じだ。

 大人びたスーツを着こなしていて、年齢を知らなかったら歳上だと思っただろう。

 少なくとも、まったく慣れていない私のスーツ姿より様になっていた。


 少し歩いたところに堂々たる門があった。

 そこには空手道場の看板が掛かっている。

 彼女は「ここです。中へどうぞ」と言って堂々と入っていく。

 私は遅れないようについて行った。


 案内されたのは母屋といった感じの日本家屋で、その中の広々とした和室だった。

 私は田舎育ちだが北国なのでこういう和室には馴染みがない。

 彼女は木目調のテーブルの上座側に座ると、「お掛けください」とその対面にある座布団を指し示した。


 正座をする。

 彼女は「足は崩して結構ですよ」と言ってくれたが、社会人として正座くらいはできないとマズいだろう。

 対面の相手は落ち着いた所作で急須に茶葉を入れ、そこにポットからお湯を注いだ。

 彼女の横にあるお盆から湯飲みをふたつ取り出し、そこにお茶を淹れる。

 そのひとつを私に差し出した。


 彼女はマスクを外して自分の淹れたお茶に口をつけたあと、再びマスクを着けてから「ご挨拶が遅れました。F-SAS共同代表の日野可恋です。よろしくお願いします」と頭を下げた。

 私も慌てて頭を下げ、一度顔を上げてから「土方なつめです。よ、よろしくお願いします!」と思い切り頭を下げる。

 目の前のテーブルに頭をぶつけずに済んだのは幸運だった。

 前髪がテーブルに触れた感触があり、急ブレーキが間に合った。


「そんなに緊張しなくていいですよ」と優しく言ってくれるが、目の前の彼女はこれから働く会社の社長のような存在だ。


 ……固くならない方がおかしいよね。


「F-SASはご存知のように女子学生アスリート支援を目的としたNPO法人です。これまで中途採用や支援企業からの出向者で人材を賄って来ました。土方さんは初めての新卒採用となります」


 私は唇が乾くのを感じた。

 しかし、マスクを外してお茶を飲むタイミングがつかめない。

 高校を出たばかりで社会人としてのマナーも何も分かっていないのだ。

 背筋に汗をかくのを感じながら代表の話を聞くことに集中する。


「今後女子学生アスリートの人生設計支援も視野に入れ、競技引退後に社会人としての研修を受けるシステムの構築も考えています。土方さんにはそのモデルケースになっていただきたいですね」


 このNPO法人への就職が決まってから何度か代表ともオンラインで面談した。

 そこからは中学生(当時)とは思えない頭の良さを感じたが、直接顔を合わせると漂う風格のようなものに圧倒される。


 代表はF-SASの現状について数字を織り交ぜながら説明してくれた。

 コロナ禍により学校を訪問したりイベントを開催したりすることができなくなっていること。

 代わりにオンラインによる情報提供に力を入れていること。

 さらに、これから私が行う業務の内容について段階的に将来像を示してくれた。


「土方さんはF-SASの会員だったと伺っています。利用者の視点でF-SASは如何でしたか?」


「トレーニング動画は本当に参考になりました」


 私が高校時代に熱中したのはクロスカントリースキーという競技だ。

 メジャーとは言えないが、地元ではそこそこ人気があった。

 指導してくれる先生はいたが、田舎なので情報は古い。

 東京のようにすぐ近くに別の高校なんてないので、狭い限られた環境で何とかするしかなかった。

 そんな時、仲間のひとりがインターネット上にあるF-SASを見つけてきた。

 私にクロカンを勧めた子で、私たちのリーダー格だった。

 彼女を中心とした同学年の4人組は最後の冬に予想を上回る結果を残すことができた。

 トレーニングを改善した成果が出たのだと思う。

 誇らしい気持ちで高校最後の大会を終えられたのも彼女とF-SASのお蔭だ。


「あと、相談に乗ってもらえたことが……」と私は言葉を続けた。


 私は顧問や担任、親から自衛隊への入隊を勧められた。

 うちの学校からは人気の就職先のひとつなので、私もそれでいいかと思っていた。

 成績が良ければ競技を続けられるとも言われた。

 気持ちは自衛隊に傾きかけていたが、私はF-SAS会員専用掲示板にこのまま周りに流されるだけでいいのかと迷いを書き込んだ。

 その時は友だちも含めて誰もが、私は自衛隊に入るものだと思っていた。

 だからそんな自分の思いを打ち明ける場所がほかになかったのだ。


 その時の返答は「あなたは何がしたい?」という極めてシンプルな問いかけだった。

 それ以来、自分の心と向き合い、睡眠時間を削って考えに考えた末に出した結論。

 それが「東京に行きたい」というものだった。


 ミーハーだと笑われるだろう。

 子どもみたいと相手にされないかもしれない。

 言えなかったこの気持ちを勇気を振り絞って仲間に打ち明けた。

 共に部活に励んだ彼女たちは暖かい笑顔で私の背中を押してくれた。


 4人組のうち、ひとりが地元の大学に、ほかのふたりは地元企業への就職が決まっていた。

 私ひとりが宙ぶらりんのままになってしまった。

 東京に出てアルバイトをしながら食いつなぐことを考えていると、F-SASのサイトにある求人募集の文字が目に留まった。

 高校新卒は無理だろうと思いながらもダメ元で応募すると、とんとん拍子に採用までこぎつけることができた。

 オンライン面接の時には仲間たちがアドバイスや励ましの言葉をたくさんたくさん私にくれた。

 そうしたものがこんな幸運に繋がったのだろう。


 父は最後まで反対して「勘当だ」と言ったが、母と弟が東京行きを見送ってくれた。

 もちろん仲間たちも。

 みんなの思いを背負って、いま私はここにいる。


「土方さんにも研修後にオンラインでの会員対応をしてもらいます。相談者の思いに寄り添えるように自分を磨いてください」


 私は決意を持って「はい」と頷く。

 社会人になったばかりの私に、パパッと相談者の悩みを解決する能力はないだろう。

 しかし私がしてもらったように、助けを求める声に真摯に向き合いたいと思う。


「法人化最初の1年は私が中心に業務を行ってきましたが、今後は社員全体で分担してもらう方針です。新卒採用の土方さんにはこれからマネジメントを中心に学んでいってもらいたいと思っています」


 マネジメントと言われてもピンと来ない。

 私は「はあ」と気のない受け答えをしてしまった。


「研修や仕事で多忙になると思いますが、あちらのものに目を通しておいてください」


 代表が手で指し示したのは部屋の隅にうずたかく積まれていた段ボールの山だ。

 場違いなものがあると思ってはいたが、自分に関係するとは夢にも思わなかった。


「あれは……」と口を開きかけると「参考書の類いですね。また参考資料として必要なもののリストをお渡しするのでオンラインで購入してください。必要経費となりますので額田さんにやり方を教えるよう伝えておきます」と彼女は淀みなく説明した。


 私の社会人としての最初の仕事はこの本が詰まった段ボールを自分のマンションに宅配するよう業者に頼むことだった。

 私は恐る恐る質問する。


「いつまでに読めばいいんでしょうか?」


「仕事ではないのでご自由に。もちろん早ければ早いほど良いですが」


「仕事じゃ……ない?」と私が口にすると、「部活で言えば自主練、学校の勉強で言えば予習復習のようなものです。言ったじゃないですか、自分を磨いてくださいと。これもその一環ですよ」と立て板に水といった感じで代表は話した。


 呆然とする私に「大丈夫ですよ。全部読む必要はありません。読み飛ばしてもいいところは挟んであるメモに書いてありますから」と彼女は知性を湛えた目を向けた。

 私が「もしかして代表はこれ全部読んだのですか?」と尋ねると、「そうですね」とあっさり頷いた。


 ……東京は怖いところです!


 私は心の中で見送ってくれた人たちにそう叫んだ。

 果たしてここでやっていけるのか。

 私の社会人生活は1日目の朝から暗礁に乗り上げた気分だった。




††††† 登場人物紹介 †††††


土方なつめ・・・高卒。社会人1日目。高校時代は仲間と部活に明け暮れたが、勉強もそれなりに頑張った。競技継続の気持ちもあったが、それは仲間と一緒だから楽しかったんだという認識もあって、そこまで強い思い入れではなかった模様。


日野可恋・・・間もなく高校入学を迎える。昨年度は1年間ずっと感染のリスクを避けて中学校に登校しなかったため代表の仕事に打ち込むことができた。なお、土方に期待を掛け勉強の大切さを伝えたつもりだったが、あとで額田からやり過ぎだと注意を受けた。

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