第172話 令和元年10月25日(金)「開演前」笠井優奈

 土砂降りの雨の中、アタシたちの前に立ちはだかった敵は臭いとトイレだった。


 午前中の合唱が終わり、アタシは講堂の控室に足早に向かった。

 警報こそ出なかったが、朝から台風の影響によるひどい雨が降り続いている。

 合唱は講堂で行われたが、中にまで叩きつける雨音が響いていた。

 アタシたちの前の番だった1年の合唱は声が小さく、ほとんど雨音にかき消されていた。

 アタシたち有志による合唱はそこまでひどくはなかったけど、正直な話よい出来だったとは言えないだろう。

 ひかりは気分良く歌っていたが、彼女ひとりで質が保てるほど合唱は簡単ではなかった。

 それに比べたら、アタシたちの後に登場した合唱部は見事だった。

 こういうのは一番下手な奴のレベルが全体のレベルになってしまうとハッキリ分かる。

 有志の合唱は参加者の練習量にかなりのバラツキがあり、これが限界だろう。


 冷たい雨のせいで、かなり寒い。

 駆け込むように入った講堂の控室はむせるような暑さだった。

 そして、臭い。

 室内に入り、すぐに気分が悪くなった。

 アタシは近くにいた日野に話し掛けた。


「何これ。チョー臭いんだけど!」


「主に化粧の匂いね。消臭スプレーを使ってるんだけど、追いつかないわね」


 アタシは大げさに鼻をつまんでみせたが、日野は平然としている。

 こいつはロボットか。


「どうすんのよ。気分悪くなるわよ」


「ただでさえ風通しの悪い部屋だけど、この天候じゃ窓を開ける訳にもいかないしね。しかも、外は寒くてストーブを入れて暖めないと冷えちゃうから……」


 さすがの日野もお手上げといった顔になった。


 控室は教室の半分ほどの広さだ。

 そこにクラスの女子15人が詰め込まれている。

 着替え用にパーティションで区切られているため、なおさら狭く感じる。

 壁際では鏡を並べて、彩花や綾乃、日々木さんが着替えを済ませた子にメイクを施していた。


「彩花、美咲は?」と聞くと、「トイレ。混んでいるみたい」と不安そうな表情で彩花が答えた。


 朝、日野が水分の取り過ぎに注意していたが、これから本番が近付けば緊張からトイレに行きたくなる生徒は増えそうだ。

 講堂の中にトイレはあるとはいえ、控室からは少し離れている。


「彩花も遠慮せずに行きなよ」と声を掛け、アタシは進捗状況が書かれた紙に目を通す。


 各メンバーの着替え、メイク、髪、アクセなどの進み具合が一目で分かるようになっている。

 いまのところ遅れは出ていないが、何度もトイレに行った生徒は服やメイクの再チェックが必要だろう。


「ひかり、三島さん、ぼさっとしてないで、さっさと着替えて来て! 下はみんなと同じようにジャージをはいて冷やさないようにね」


 着替えが終わった生徒はジャンパーなどを羽織り、スカートの下にジャージのズボンをはいている。

 見た目はなんともアレだが、背に腹はかえられない。

 アタシも急いで着替えを済ませ、メイクをして、彩花たちを手伝い始めた。


 アタシたちのファッションショーは午後最初の演目だ。

 他のクラスの生徒はお昼にお弁当を食べることになっているが、うちのクラスの女子はショーが終わってから食べる。

 そこで、小腹が空いた時のために、飴やカロリーメイト、スルメなどが中央のテーブルの上に並べられていて自由に食べていいようになっていた。

 魔法瓶にはホットココアが入っていて、紙コップで飲めるようになっている。


 アタシも口の中が乾いてきて、ココアを手にした。

 開演の時間が迫るにつれて、みんなの落ち着きがなくなってきた。

 あれがない、○○はどこといった大声が飛び交い、慌ただしい空気が焦りを生んでいる。

 日野が落ち着き払ってデンと構えているから、なんとかパニックにならずに済んでいるという状況だ。

 アタシですら緊張してきたのだから、他の子たちは大変だろう。

 自分の仕事がある生徒はそれに没頭することでなんとか気を紛らわせている。

 ない生徒はそわそわして何度もトイレに行っている。


「麓も緊張してるの?」


 アタシはテーブルのところに来た麓に話し掛けた。

 メイクをしているから顔色は分からないが、眉間に皺を寄せていた。


「別に」と言って麓はそっぽを向いた。


 アタシがココアを紙コップに入れて渡すと、麓は振り向いてまじまじとアタシを見る。


「どういう風の吹き回し?」と不審がる麓に、アタシは「別に」と答えた。


 礼も言わずにコップを受け取った彼女はすぐにそれを口元に持って行った。

 ココアは熱々ではなかったのに、少し飲んだだけで口を離した。


「もしかして猫舌?」とアタシが笑うと、「うるさい」と言ってまたそっぽを向いた。


「ヒマならさ、三島とか森尾とかの面倒見てやれよ」


「はあ?」と麓はアタシの言葉を聞いて、何を言っているのかという顔をした。


「別に仲良くしろって訳じゃなくて、時間潰しに脅すなり苛めるなり……」


「何だよ、それ」


「あいつらもヒマそうだし、麓がそばにいれば余計なこと考えなくて済むだろ」とアタシは笑った。


 ムスッとした顔の麓に構わず、アタシは日野を呼んだ。


「麓が三島たちのお守りをしてくれるんだって」


「やるなんて言ってない」と麓は反論するが、日野は「それは助かるわね」と聞く耳を持たなかった。


 アタシが麓にニヤリと笑い掛けると、麓はまたフンとそっぽを向いた。


「あとはよろしくね」とアタシは休憩を終え、自分の仕事に戻る。


 あとで様子を窺うと、麓は三島たちを集めて睨みを利かせていた。

 こんな時は麓でも使わなければ。

 アタシはそう思い、クスリと笑った。

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