第501話 令和2年9月18日(金)「他人をコントロールしようと思うと」日野可恋

「おかえりなさい」と出迎えると、真白い肌をした少女はふんわりとした笑みを浮かべた。


「ただいま、可恋」と彼女は答えると、真っ直ぐに洗面所へと向かって行った。


「ゆっくりでいいよ」と私はその背中に声を掛ける。


 連日、ひぃなの帰宅が遅い。

 2学期は学校行事が立て込んでいて、部活に入っていなくても何かと忙しい。

 特に3年生はこの時期に修学旅行が組み込まれたので急ピッチでその準備に追われている。

 こんな時なのだからのんびりとキャンプを過ごすだけでいいと思うのに、課題だ何だとやらせたがるのが学校というものなのだろう。


 ひぃなは顔や態度に出さないように気をつけているが、疲れているように見える。

 明日から連休なのでリフレッシュできれば良いのだけど。


 私は夕食の支度をするためにキッチンに向かい、ルーティンをこなしていく。

 華菜さんなら毎回心を込めて料理を作るのだろうが、私の場合は何を作るか決めたらあとは手順通り行うだけだ。


 豚肉をソテーしているところにひぃなが戻って来た。

 私の言葉に従っていつもより長めだ。

 シャワーを浴びてサッパリした表情の彼女はフリルがいっぱいついた赤のフリースを着ていた。

 毎日異なる部屋着というのには慣れたが、「それが部屋着なの?」と思うことはいまもよくある。

 彼女は一日に何度も着替えるし、部屋着というものの基準が私と違うのだろう。


「もう少しでできるから座ってて」と私が言うと、彼女はうんと頷いた。


 だが、トコトコとキッチンにやって来て冷蔵庫を開ける。

 私がグラスを取ってあげると、彼女は「ありがとう」と受け取り「お茶と牛乳、どっちがいいかな?」と首を傾げた。


「飲みたい方で良いんじゃない?」と私は苦笑する。


 背を伸ばしたいからとひぃなは牛乳をよく飲むが、結果はご覧の通りだ。

 好きか嫌いかで言うと、あまり好きじゃないようだ。

 それでも頑張って飲む姿は健気に見える。

 彼女は牛乳パックを取り出すと、グラスとともにダイニングへと持って行った。


 食卓に皿を並べ、ひぃなの分はスマホで撮影する。

 彼女の栄養管理についてはいまも華菜さんと情報を共有しているからだ。

 華菜さんは週に何度か食事を作りに来てくれるので、献立の参考という意味もある。


 私も席に着き「いただきます」と唱和する。

 ひぃながある程度食べたのを見計らってから「今日はどうだった?」と学校の様子を尋ねた。

 彼女は食べることよりお喋りに夢中になる傾向があるので注意が必要だ。

 基本的に少食で、出す量には気を使う。

 ほんの少し無理をすれば食べ切れるくらいを目安にしている。

 食事が楽しめないと少食に拍車が掛かりそうだし、かといって彼女の望む量だと必要な栄養素が摂り切れない。

 彼女の中に、体型を崩したくないという強い気持ちと成長したいという強い思い、たくさん食べなきゃいけないという強迫観念とすぐに食欲が満たされる体質の問題といった二律背反の感情があるので、周りのサポートは必須なのだ。


「修学旅行前にやるべきことは全部できたかな」


 そう語るひぃなの顔はまったく晴れ晴れしくなかった。

 連休が明けたあとの木金が修学旅行なので、登校日はあと1日しかない。

 最低限やるべきことはやったが、あとは時間切れといったところだろう。


「去年のキャンプもそうだったけど、失敗も含めて楽しめばいいんじゃない?」


 去年のキャンプでは班の調理をまだ料理が覚束なかったひぃなに任せた。

 私が作れば失敗はないが、予定調和でないところも非日常の楽しみだろう。

 予想を超える失敗は絶対に避けたいところだが、予想の範囲内での失敗は良い思い出となるはずだ。


「……そうだけど」


 ひぃなが手を止めて不満そうにそう呟いた。

 私も完璧を目指す性格だが、ひぃなもそれに近いものがある。


「どんなに完璧に計画していても想定外の事態が起きる確率はあるんだから、そのための余力があった方がいい」


 未来は不確実だ。

 大地震が起きて修学旅行が中止になる可能性だってゼロではない。

 二十歳まで生きられないだろうと言われた私にとってその不確実性は希望でもあった。

 そう語った医者が藪だった可能性もあった訳だが、幼かった当時の私は白衣を着た大人の言葉を疑いもしなかった。

 それはともかく、私の完璧主義はそういった不確実性も考慮した上でなおも万全を期そうというものだ。

 不測の事態が起きた時に使える手段をどれだけ持っておくかというのが肝要となる。


「その時は可恋に任せる」とひぃなは言った。


 その言外の意味は、想定外が起きなければ自分でなんとかするということだろう。

 学級委員として私の力に頼らず自力で何とかするという決意がうかがえた。


「他人をコントロールしようと思うと大変だよね」


 私がそう言うと、ひぃなは図星を指されたように呻いた。

 彼女はコミュ力が高いので人間関係でそれほど苦労はしていない。

 自分を嫌う相手には近づかなければ良かったし、そうでない相手ならお願いすれば聞いてもらえた。

 しかし、学級委員となるとそれだけでは済まないことがある。


「私も学級委員をして限界を感じたもの」


「可恋が?」


 ひぃなは私のいちばん近くで見ていたはずだが、それでもすべてを見ていた訳ではない。

 それに私を過大評価するきらいもある。


「短期的なものなら手練手管を使えばなんとかなると思っていたけど、それすら通用しないことがあった。ましてや長期的に相手を変えようだなんて不可能だと悟ったわ」


 学校行事という強制力があったから運動会や文化祭に向けてクラスメイトを動かすことはできた。

 それは決して私の実力によるものではない。


「あれだけ頑張って筋トレを布教したのに、いまも続けているのはひぃなを除けば運動をしている子だけだもの。好きでないと続かないのよ」


 私が大げさに嘆いてみせるとひぃなは笑ってくれた。

 筋トレの効果を実感してくれたのに、面倒だと感じると続かないものなのだ。


「勉強も同じで、強制しただけでは長続きしない。受験があるから仕方なく勉強していても身につかない。とはいえ、すべての子どもに勉強好きになれというのも不可能だしね」


「でも、最低限の知識や考える力は必要だよね?」


「そう。あった方がいいのは確か。ただ本人のやる気なしに身につけるのは困難だけどね」


 黙り込むひぃなに、「たぶん、好きになったり楽しんだりすることが大事なんだよ」と私は話す。

 よく言われる教育論、理想論だが、それだけに真理に近い。


「こんな状況下でのキャンプだからできることは限られているけど、楽しい思い出を作るために何ができるかじゃないかな」


 私は話しながらひぃなの倍近くある夕食を平らげていた。

 一方、考え込んだひぃなの箸は止まったままだ。

 食事を楽しませるためにどうすればいいかと考えながら、「ほら、もう少しだから食べ切って」と私は口にする。

 楽しい話題でも食事が疎かになるし、食事中会話禁止というのはなんだか違う気がする。

 他人に自分の思い通りに動いてもらうのは簡単なことではない。

 どんな正論を唱えても相手が動かないことはよくあることだ。

 自分にとっての必要性や相手との関係性によってどこまで関わっていくかは変わってくるだろう。


 ひぃなは黙々と食べ終えると、私を見て「ごちそうさまでした」と微笑んだ。

 私は「お粗末様でした」と応じてから、「量、多くなかった?」と気遣った。

 疲れ気味だったし、食欲がいつもより落ちていたかもしれない。

 少し脂っこいものが多かったという反省もある。

 彼女は「平気。おいしかったよ」と笑顔を浮かべた。

 その笑顔は完璧で、彼女が得意とするものだけに自分の気持ちを隠そうという意図があるように感じてしまう。


「今日は久しぶりに一緒にお風呂入ろうか」と声を掛けると、ひぃなは目を輝かせた。


 これで彼女の気分が向上するなら安いものだ。

 彼女は長風呂なのでつき合い切れないことから普段は一緒に入らない。

 だが、これだけウキウキしてくれるのならたまにはいいだろう。

 これもまた他人をコントロールすることだよねと思いながら、私はひぃなの喜ぶ顔を見ていた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。先天的に免疫力の障害があり春以降登校を控えている。家事は効率重視で行う。


日々木陽稲・・・中学3年生。可恋の進言により学級委員を担っている。料理以外の家事はだいたい得意。非力だが愛と情熱でカバーする。


 * * *


「他人をコントロールしようと思うと大変だよね」という可恋の言葉は身につまされるものだった。


 学級委員としてクラスメイトたちが思い通りに動いてくれないことも苦労の種だ。

 だが、わたしが真っ先にその言葉から連想したのは可恋の服装のことだった。

 可恋は家にいることが多く、その大部分はスポーツウェアを着て過ごしている。

 同じような服のオンパレード。

 わたしがどれほど口を酸っぱくして言っても「楽だから」と同じような服を身につけている。


 ファッションはもっとも大切な自己表現だというわたしの考えに共感してくれているのに、行動はついてこない。

 外出の時も無難な服ばかりだし、わたしが何度も何度も言ってようやく少しアクセントを入れる程度だ。


「たぶん、好きになったり楽しんだりすることが大事なんだよ」と可恋は言う。


 つまり、可恋はまだファッションを好きなっていないし、楽しんでいないということだろう。

 わたしは黙々と食事を摂りながら可恋がファッションを好きになる方法を考えた。

 わたし自身のためでもあるけど、可恋が大好きな筋トレをわたしは続けているんだ。

 可恋がもう少しファッションに興味を示してくれても良いはずだ。


「今日は久しぶりに一緒にお風呂入ろうか」


 わたしはハタと気がついた。

 可恋は異様にお風呂の時間が短い。

 本人も烏の行水だと言っているが、入ったと思ったらあっという間に出て来る。

 もしかしたら自分の身体のことがあまり好きじゃないのかもしれない。

 可恋は誰もが羨むような素敵なプロポーションだ。

 長身でスリム、巨乳で美人。

 しかし、本人は健康じゃない肉体と捉えている可能性がある。

 胸が大きいことも不満に感じているようだ。

 周囲からすれば理想的でも彼女自身は……。

 それがファッション軽視にも繋がっているかもしれない。

 自分の身体を誇るべきものと思わないと大胆なファッションは選べない。


 これは良い機会だ。

 一緒にお風呂に入って、可恋の身体を褒めまくろう。

 これまでは言葉が足りなかった。

 褒めて褒めて褒めまくれば悪い気はしないはずだ。

 わたしは良いアイディアを思いついたとウキウキした。

 可恋をファッション好きにするための第一歩だ。

 学級委員の仕事が大変だからひとつくらい楽しみがあってもいいよねと自分に言い訳しながら、わたしはお風呂の時間を待つのだった。

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