第282話 令和2年2月12日(水)「最善の道」千草春菜

 教室内はチョコレート色に染まっている。

 そう言いたくなるほど女子は心が浮き立っているように見える。

 その中心は日々木さんで、今日は満面の笑みを浮かべて誰彼構わずバレンタインデーのことを話している。

 よっぽど良いことがあったのだろう。


 しかし、来週の水曜日から学年末テストが始まる。

 つまり、定期テスト一週間前ということだ。

 日野さんが欠席しているせいか、まだクラスに試験前の空気は漂っていない。

 バレンタインデーが終わり、来週になってからみんな慌てるつもりなのだろう。


 そして、3年生は高校受験真っ只中だ。

 1年後には私たちも受験が待ち構えている。

 それを思えばとても浮かれていられない気分になってしまう。


 他人に構ってなどいられないという焦りにも似た気持ちが湧き上がる。

 だが、心の棘のように気になることがあった。

 泊里のことだ。

 1学期の期末テストの時から試験前になると彼女に勉強を教えてきた。

 やる気のない彼女を宥めすかし、なんとか教科書やノートを開かせ、赤点だけでも回避するようにと。


 ダンス部に入って以来、泊里は渡瀬さんと一緒にいることが増え、私と話す機会は減った。

 それが彼女の望みなのだから、それは構わない。

 そこが彼女の居場所なのだから。


「泊里、試験勉強どうするの?」


 彼女との関係の大部分は勉強を教え教えられるというものだ。

 そのため私に対しウンザリする表情を見せるのはいつものことだと言える。

 黙り込む泊里に責め立てるようなことは話したくないが、言わなければやろうとしないのは経験上よく分かっていた。


「困るのは泊里だよ」


 試験の成績が悪ければ追試や補習が待ち構えている。

 その時に苦労するのは彼女自身だろう。

 これまでなら、うなだれながらも泊里は仕方がないという顔になった。

 それが今日は思い詰めた顔付きで「なんで勉強しなくちゃいけないのかな」と口にした。


 私からすれば何を今更という感じだが、泊里は真剣だった。

 私はひとつ息を吐くと、「高校行くんでしょう?」と尋ねる。

 頷くのを待って、「そのためには……」と言おうと思っていたら、泊里は「高校行かなきゃいけないのかな……」と呟いた。

 それが単に勉強が嫌だからという雰囲気ではなかったため、「何かあったの?」と聞いてみる。


「ひかりがね、高校行かないかもしれないって」


 私が驚くと、「笠井……さんや日野さんがそんな風に考えているんだって」と泊里は付け加える。

 渡瀬さんひとりが行きたくないと言うのなら馬鹿な考えだと笑い飛ばすところだ。

 しかし、日野さんが関わっているのなら理由があるのだろうし、実現する可能性も高いと感じてしまう。


「理由は聞いた?」


「ひかりのダンスの才能を伸ばすためだって……」と笠井さんから聞いたという理由を教えてくれた。


 渡瀬さんのダンスが上手いのは知っているが、それほどとは思わなかった。

 いや、たとえどれほどの才能があっても、高校くらいは行くべきなんじゃないか。


 そんなことを考えていると、「あたし、ひかりと同じ高校に行きたかったのに……」と泊里が切ない声を上げた。

 ダンス部の部長である笠井さんに目の敵にされていたのに泊里は渡瀬さんを追ってダンス部に入った。

 そんな泊里の同じ高校に進みたいという思いを断ち切るような仕打ちに思えた。


 私は席を立つと、真っ直ぐ笠井さんのところへ向かった。

 日野さんがいればそちらへ行くところだが、彼女は今日も欠席だ。

 松田さんたちとの弾んだ会話が耳に飛び込んでくるが、それを無視して私は笠井さんに呼び掛けた。


「笠井さん、ちょっといい?」


「え、何?」と笑顔のまま彼女は私の方を向いた。


「渡瀬さんのことだけど……」と口を開くと、笠井さんは立ち上がって私を教室の隅に連れて行った。


 松田さんたちに聞かれてはマズいことなのかと不信感が募る。

 私は眉間に皺を寄せ、「高校に進学させないって聞いたわ。そんなの友だちだからって許されることじゃないわ」と詰問する。

 笠井さんは顔をしかめ、「千草には関係ないじゃん」と答えた。


「関係あるわよ。泊里は私の友だちだから」


 私は珍しく感情が高ぶり、思ったより大きな声を出してしまった。

 笠井さんは睨むように私を見るが、そんなことで怯んだりしない。


「アタシはひかりの友だちだから、ひかりにとってのベストを選ぶ。三島には悪いけどそこは譲れない」


 彼女は固い声で決意を語った。

 睨み合いは授業開始のチャイムが鳴るまで続いた。


 私は憤然とした思いで席に戻る。

 授業にも身が入らない。

 塾で学んだところではあるが、試験前にこんなことではダメだと自分でも理解はしている。

 しかし、頭の中がぐちゃぐちゃで一向に収まりがつかない。

 これまでの経験上、こうなってしまうと長引くと知っている。

 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、私は授業を受け続けた。


 試験前だから来ていない可能性もあったが、そこに彼女はいた。

 放課後の生徒会室にいつものように生徒会長の姿があった。

 彼女は私を見ると微かに口元をほころばせた。


「実は……」と私は今日の出来事を彼女に相談する。


 これが私自身の問題だったら口に出せなかったと思う。

 友だちのことだから、相談できた。

 小鳩さんの手を煩わせることは本意ではなかったが、このままだと長く引きずりそうだった。

 下手をしたら学年末テストにも悪影響を及ぼすだろう。


 一通り話すことで少し自分の中で整理がついた気がした。

 こういう時、自分ひとりで足掻いてきたが、話を聞いてもらうだけで論点が見通せたり、気持ちが落ち着いたりすることが分かった。

 いままでは話せる相手がいなかったという理由もあるが……。


「千草は何を所望する?」


「え?」と私は小鳩さんの言葉を聞き返す。


「千草の話を聞く限り、渡瀬、笠井、日野は渡瀬が高校へ進学しないことを希望している。一方、三島は渡瀬の高校進学を希望している」


 簡潔に要約された内容に私は頷いた。


「千草は何を所望する? 渡瀬の高校進学の是非か?」


 私は渡瀬さんが高校へ行くべきだとは思うけど、だからといってそれ自体は私にとってはどうでもいい話だ。


「渡瀬さんのことは私が口出すことじゃないと思う。でも、泊里のことは……」


「渡瀬と三島が同じ高校へ進学する。それが本当に最善だろうか?」


 それが泊里の希望だ。

 希望を抱くのは悪いことじゃない。

 ただ、最善かと問われると……。


「小鳩さんは何が最善か分かるの?」と問うと、彼女は静かに首を横に振った。


「未来は予測不可能。人の予測した最善に意味はないかも知れない。然れど、最善を追求することに意味がないとは思わない」


 彼女の言葉は胸に突き刺さる。

 必死に勉強して良い高校良い大学に入ったからといって幸せな人生が送れるとは限らない。

 しかし、自分なりにこれがベストだと信じてやっていくしかない。

 少なくとも私はそう思うから、塾や家での勉強を頑張っている。

 他の人たちが遊んでいる間も勉強に励んでいられるのは、これが意味のあることだと信じているからだ。


「ありがとう。もう少し考えてみる」


 明確な結論は出なかった。

 だけど、小鳩さんに話したことで得られたものは大きいと感じた。

 問題の見方が変わり、シンプルになったように思う。

 それに、笠井さんに抱いた怒りも薄らいだ。


「日野に問えば正解が教授されるのだろうが……」と小鳩さんは言うが、「私は渡瀬さんの事情を詳しく知らないから、私たちが正解を分からなくても仕方ないよ」と私は肩をすくめた。


 私も小鳩さんも日野さんの凄さばかりを感じてしまうが、あまり卑下しなくてもいいだろう。

 正解が欲しければ日野さんに電話をして尋ねることもできる。

 ただ今日の日々木さんの様子を見ていると、日野さんが学校に来る日も近そうだ。

 それまでじっくり考えてみようと私は思った。

 もちろん、勉強の邪魔にならない程度にだが。




††††† 登場人物紹介 †††††


千草春菜・・・2年1組。学年トップクラスの成績を誇る秀才。塾通いで忙しいが、冬の間限定で生徒会の手伝いをしている。


三島泊里・・・2年1組。ダンス部。成績は低空飛行。春菜のお蔭で墜落しないで済んでいる。


渡瀬ひかり・・・2年1組。ダンス部。成績は泊里とほぼ同程度。ダンスや歌唱の才能に長け、容姿もアイドル並。


笠井優奈・・・2年1組。ダンス部部長。成績は平均的だが、ダンス部優先にしているため危機感を覚えている。


山田小鳩・・・2年4組。生徒会長。学業は学年トップ。愛らしい容貌の持ち主だが、コミュ力はかなり低め。


日々木陽稲・・・2年1組。天使や妖精と形容される美少女。努力家で成績も優秀。


日野可恋・・・2年1組。1年前の今頃はレアキャラ、隠れキャラ扱いされていた。いまは裏ボスと認識されているようだ。

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