第97話 令和元年8月11日(日)「じいじ」日々木陽稲

 始まりはロシア革命だった。

 民衆が蜂起し、それまでの特権階級は難を逃れるために他国に亡命した。

 その一部が日本を経由して欧米へ向かったが、私の祖母は身ごもっていたため日本にとどまった。

 祖父や他の家族のことはよく分からない。

 混乱の最中であり、今のように情報がすぐに手に入る時代ではない。


 祖母は祖国を追われ、見ず知らずの土地である日本で子どもを産み、育てる決意をした。

 幾ばくかの資産を持ち出したにせよ、それまでの豊かな暮らしは一変し、相当の苦労があったと思う。


 臨玲は明治時代に創立された女学校で、宗教色がほとんどなかったため、ロシア正教の敬虔な信者だった祖母を教師として受け入れた。

 フランス語を教えていたらしい。

 その娘、私の母も臨玲に進学した。

 だが、母の在学中に祖母が急逝した。

 事故だと聞いているが、詳しくは分からない。

 日本語も覚束ない母はたったひとりで生きていかなければならなくなった。

 臨玲の教師や学友がサポートしてくれたらしい。

 しかし、卒業後は生活する当てがない。

 周囲は必死でロシア語の堪能な結婚相手を探し、ようやく白羽の矢が立ったのが私の父の弟だった。


 私の父は当時北海道を拠点に貿易や漁業関係の物流など手広くやっていた。

 父もロシア語がある程度できたが、弟を大学で学ばせ自分の片腕にしようとしたらしい。

 だが、その弟は大学を出た直後に流行病であっけなく死ぬ。

 歳はかなり離れていたが、弟に代わって父が臨玲を出た母を引き取り、結婚することになった。


 始めは順風満帆だった結婚生活も私が生まれる頃には大きな変化が訪れていた。

 二人目の子どもとして私が生まれてすぐに太平洋戦争が始まった。

 父の仕事は不振を極め、雇う側から雇われる側へと変わり、ついには徴兵に取られてしまう。

 母はひとりで姉と私を育てた。

 食事も満足に食べられない中、姉は早世し、疎開先のこの場所で私はなんとか生き延びることができた。

 父は戦争から帰らず、母はあらゆることをして私を育ててくれた。


 母の若い頃の写真を見たことがある。

 本当に見目麗しい少女だった。

 私の記憶に残る母は、その面影を残していなかった。

 瞳の色を除くと、田舎のおばさんたちとなんら変わらない姿だった。

 私が事業に成功し、やっと母を楽にさせられると思った時にぽっくりと亡くなってしまった。


 母の思い出は自分の記憶の中だけにしまっておこうと思っていた。

 それなのに、ヒナが生まれた時、母の生まれ変わりなのではないかと衝撃を受けた。

 まだ苦労を知らず、青春を謳歌していた臨玲時代の写真の面影と重ねてしまった。

 誰にも言わずに墓まで持っていくつもりだったが、ヒナには知っておいて欲しかった。




 そう言って、”じいじ”は一枚の古い写真を見せてくれた。

 白黒のボロボロの写真だった。

 外国人の女の子が屈託のない笑顔で映っていた。

 わたしに似ているかどうかは自分では分からない。

 ただ、”じいじ”の話を聞き、この写真を見て、わたしはボロボロと涙を流した。


 昨日の夜、わたしは可恋とふたりだけで”じいじ”の部屋を訪ねた。

 可恋はわたしが臨玲に進学するなら一緒に来てくれると言ってくれた。

 だから、この大事な話し合いを聞いて欲しかった。


 ”じいじ”はわたしのお父さんたちにも話したことのない昔話を語ってくれた。

 これまで、わたしを臨玲に行かせたいのは初恋の思い出だと説明していた。

 隠していた真実を教えてもらい、わたしは臨玲進学を決意したけど、涙が止まらず、可恋の勧めもあって話し合いは今日の朝に延期した。


 朝のジョギングの後、可恋と”じいじ”の部屋に行った。

 昨夜と同じように、”じいじ”は穏やかな顔で待っていた。

 朝の挨拶を交わして、わたしが昨日の決心を告げる前に、”じいじ”が口を開いた。


「今の臨玲のことはワシも気になっている。理事長と学園長の対立が教師や生徒にまで影響を及ぼしている。大物政治家が影響力を行使しているなんて噂まで出ている。腐っても名門なので、ワシ程度ではなんの関与もできん。夕べはあんな話をしたが、今の臨玲に行くことが良いのかどうかワシにも分からん。辞めた方が良いと思ったのなら、ヒナの気持ちを尊重する。ワシでは碌に守ってやれんからな」


「わたしは……わたしはお母さんを説得する。大丈夫だよ、可恋と一緒なら」


 そう言って、わたしが”じいじ”に微笑むと、”じいじ”は可恋に向かって頭を下げた。


「ワシの代わりにこの子を守って欲しい。ワシにできることなら何でもする。頼む」


 ”じいじ”は座っていた座布団を外し、額を畳に付ける。


「頭をお上げください。私も全力でひぃなを守りたいと思っています」


 可恋の声はいつもより低く、強い決意が感じられた。


 ”じいじ”が頭を上げたのを見計らって、わたしは空気を和ませるように「臨玲進学の代わりって訳じゃないけど……」と軽い感じでお願いを口にする。


「わたしだけでなく、お姉ちゃんや愛花さんも夏休みや冬休みに長い間ここに居ることが負担になっているの。わたしはこの夏休みに、いままでの半分以下の滞在日数に減らしてもらったけど、それでもまだ長いでしょ。もう少し短くして欲しいと思っていることを”じいじ”にも理解して欲しいの」


 難しい顔で”じいじ”はわたしの話を聞いていた。


「ヒナについては、ワシも希望を伝え、お互いの家で調整している。ヒナの両親との約束に、盆と正月に顔を見せることというのがあるからな。今後はその話し合いにヒナの意見を加え、それをできるだけ尊重することにしよう。華菜はヒナのために来ているようなものだが、ヒナが友だちを連れて来るなら華菜の負担も減るのではないか?」


「愛花さんは?」と聞くと、「ヒナ以外はそれぞれの家で決めていることだからワシは知らん」と言われてしまった。


「”じいじ”に強制されているのはわたしだけなの……」と呟くと、「強制ではなく約束だ」と”じいじ”が修正する。


「地域の行事が多く、盆暮れ正月はここを動けん。身体もガタが来て、そうそうヒナの家まで行くこともできん。老い先は短いがヒナの希望じゃ仕方がないのじゃろう……」と”じいじ”は悲しげにため息をついた。


 その姿に思わずわたしは”じいじ”を喜ばすようなことを言いそうになる。

 しかし、それを察した可恋がわたしの肩をつかみ、わたしは慌てて口を閉ざした。


 1週間から10日程度のここでの滞在を5日程度に減らして欲しいと希望を伝え、おおむね認めてもらう。

 わざわざ”じいじ”は今日の話し合いで決まったことを一筆したためてくれた。


 無事に話し合いが終わり、わたしが席を立つと、可恋が「少しよろしいですか?」と”じいじ”に尋ねた。

 相手が頷くのを見て、可恋は「ひぃなは外で待っててくれる?」とわたしに言った。

 わたしは顔をしかめたけど、可恋の言う通りにする。

 可恋はとても真剣な表情をしていたから。


 ふたりの話は意外と長く掛かった。

 待ちくたびれた頃に「ごめん、お待たせ」と可恋が出て来た。


「何を話していたの?」と聞くと「いくつか気になったことがあって」と教えてくれない。


 ムッとしていると、「ひとつ、ひぃなが喜びそうなことを教えてあげる」と可恋は微笑んだ。

 いいように扱われている気がしたが、気になって「何?」と聞いてしまう。


「明日の朝帰る予定だったけど、もうしばらくここにいることになったから」と可恋は言った。


「え? いいの?」とわたしは喜んでしまう。


「祖母が大阪に帰るまでここにいるよ」と可恋はニコリと笑って話すけど、その笑顔は本心ではない証なので本当の理由は別にあるのだろう。


 でも、わたしは可恋を信じてそれ以上聞かずに喜んでみせた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。外見はロシア風美少女。肌は白く、顔立ちも西洋的。髪も赤みがかっている。


日野可恋・・・中学2年生。黒髪に黒い瞳とどこからどう見ても和風。他人にキツい印象を与える目が自分では気に入っている。

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