第460話 令和2年8月8日(土)「学校見学」日野可恋

 ひぃなは朝から気合が入っている。

 姉の華菜さんをわざわざ呼んで、レースの髪飾りを編み込んだ非常に複雑な髪型を長時間かけて作り上げた。

 私が「服装は中学の制服で良いよね?」と訊いたら魔王さえ一撃で殺せそうな目で睨まれた。

 ひぃなは白の清楚なブラウスに淡い緑のふんわりとしたスカートを用意した。

 どちらもよく見ると細かな刺繍や飾り付けがしてあり、相当手の込んだものだと分かる。

 二の腕より下は白いレースのロンググローブをはめ、足もニーソックスをはいた。

 ひぃなは満足そうな表情を浮かべている。

 だが、私は熱中症の心配をして顔を曇らせた。

 私もシャツにスラックス、薄手のジャケットというシンプルな服装を選択した。

 30度を優に超える気温が予想されるだけに、これでも暑苦しいことこの上ないだろう。


 ひぃなはワインレッドのエナメルのパンプスを履き、大きなつばの白い帽子をかぶって準備を整えた。

 車を使いたかったが、ひぃなの希望に沿って電車を使うことにした。

 これから向かう先は来春進学予定の女子高だ。

 通学の雰囲気を味わいたいという彼女の意見を採り入れたのは、この夏休み中にふたりでだけで出掛ける機会がほかに作れないからだった。


「マスクをしていると顔色が分かりにくいから、少しでも体調が悪くなったらすぐに言って。無理をしたら明日は休むことになるから」


「可恋こそ気をつけてね」


 見た目はひぃなの方が華奢で身体が弱そうだが、彼女は意外と丈夫だ。

 私と違って学校を休むことはほとんどない。

 持って行くリュックに保冷剤や冷却スプレーなどを大量に詰め込んだ。

 そして、ひぃなの手提げを持ってやり、いざ出発だ。


 まだ朝の時間だが日差しが強い。

 ひぃなは小ぶりな日傘をさして、深窓のご令嬢といった趣になっている。

 私は彼女の様子を確認しながらエスコートしていく。

 駅に到着すると主導権はひぃなが握る。

 大阪もJRや私鉄、地下鉄が複雑に絡み合っていて覚える気にならなかったが、神奈川もうんざりするような分かりにくさだ。

 暮らし初めて1年半となるが県内の地理は覚えても鉄道の路線図はまったく頭に入っていない。


「藤沢まで出てからJRを使うか、江ノ電を使うかだね」


「それぞれのメリットデメリットは?」と私が尋ねると、「JRはもう1回乗り換えが必要だけど早いよ」とひぃなが答えた。


 しかし、その顔には江ノ電を使いたいとはっきり書かれていた。

 私が「乗り換えは面倒だね」と言うと、彼女はにっこり微笑んだ。

 夏休みの週末だからか車内は結構混雑していた。

 毎日1時間かけて登校するというのは果てしない無駄のように感じる。

 名高いお嬢様学校なのだから車で送り迎えをしてもらってもおかしくはないんじゃないか。

 あるいは学校近くに借りる家に拠点を移し、空手道場に車で通う方法もありかもしれない。


 そんなことを考えているうちに最寄り駅に到着した。

 現在はインターネットで街並みを見ることのできる時代だが、やはり自分の五感を通してでないと分からないことはある。

 物陰から暴漢が現れた時の対処法はストリートビューだけではイメージできない。

 周囲を確認しながらゆっくり向かうと道路を挟んで学校の門が見えてきた。

 生徒が使うものではない正門で来訪を告げ、守衛に開けてもらう。

 歴史ある伝統校ということだが、建物はどれも中途半端な古さという感じだった。

 内部は緑が多く、散歩気分でその中をふたりで歩いて行く。


「ワクワクするね」とひぃなは興奮気味だ。


「鎌倉だけあってゴミゴミした感じがないのはいいね」と私は良いところをひねり出す。


 間もなく入口が見えてきた。

 玄関ホールに入るとひんやりとしていてホッとする。

 3人の女性が私たちの到着を待っていた。

 真ん中の眼鏡をかけた女性は切れ者という感じが漂っていた。

 北条さんだ。


「今日はお招きいただきありがとうございます」と謝意を伝えると、「ご足労ありがとうございました。この学園の主幹を務める北条です」と彼女は丁寧に頭を下げた。


 一介の、しかもまだ入学もしていない生徒相手にここまでする必要があるのかと思うが、それだけ学校は危機にあり、私は危機克服の重要なピースだと考えられているのだろう。

 この女子高について、ひぃなのお祖父様が調査会社などから得た情報を見せてもらった。

 ほかにも母からのルート、フリーライターの志水さんのルートで情報を集め、ゆえさんからは在校生の声も聞くことができた。


 名前を名乗り出迎えに対して恐縮してみせると、北条さんは「小野田先生のご紹介ですから、期待していますよ」と目を細めた。

 オンライン上で何度かやり取りをしたが、こうして会うのは初めてだ。

 彼女は小野田先生が若い頃の教え子だそうで、その後も繋がりを持ち続けていたそうだ。


 エントランスから廊下へ進むところにスリッパが2足並べてあった。

 私は迷わず靴を脱いで履き替えたが、ひぃなは「上履きを使ってもいいですか?」と尋ね、了承されると手提げから自分の上履きを取り出した。

 ファッションのためなら荷物になっても苦にしないのが彼女だ。

 まあ、ほとんど持っていたのは私だけど。


 プラスチックのスリッパで音を立てずに廊下を歩く。

 案内されたのは事務机が並ぶ小部屋で、机の上に置かれた4台の液晶モニターはすべて部屋の中央に座る人物が使うように設置されている。

 扉に面した壁以外は棚で埋められ資料や本が積み上がっていた。

 道場の物置兼PCルームも酷い部屋だが、ここも相当に酷い。


「あー、えっと、日野さんだっけ」と顔を上げたのは北条さんより少し歳上の女性だった。


 母と同世代くらいだろうか。

 冴えない中年女性という出で立ちで、目の下には隈ができている。

 冷房がガンガン効いているからか、服装はよろよろのトレーナーにスウェットのパンツだ。

 失礼ながら近づくと匂ってきそうだった。


「理事長のくぬぎよ。よろしくね」


「ここが現在臨時の理事長室となっています。前学園長の不正を調査中です」と北条さんがフォローするがその顔には苦笑が浮かんでいた。


「他人は裏切る。それに懲りたのよ。そこの北条だって野心家だしね」と理事長は力なく笑った。


「前学園長は理事長の母君、前理事長の腹心であり、無二の親友だったそうです」


 北条さんはそう説明してくれたが、私も北条さんも仕事と友情は別物だと考えている。

 だから、羮に懲りて膾を吹く有様に呆れる気持ちが湧いてくる。

 一方、ひぃなは「大変だったんですねぇ」と心から同情していた。

 彼女のそんなところは短所に見られがちだが強力な武器にもなる。


「そうなのよ。本当に大変だったのよ……」と理事長は自分の娘くらいの年頃相手に苦労話を長々と語り始めた。


 私はひぃなの手提げからショールを取り出し、彼女の肩に掛ける。

 北条さんは黙って、こうなったら長いのよという顔をしていた。


 興味深い情報もいくつかあったが、だんだんと話がループし出して時間の無駄という気配が漂ってきた。

 私が口を出そうとした矢先に北条さんが止めてくれた。

 十分に話して満足した理事長は「仕事に戻る」と言って私たちの退出を促した。


 部屋を出た私が最初に口にしたのは、「北条さん、いつクーデターを起こすのですか? 協力しますよ」という言葉だった。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。飛び級で大学に進学してもおかしくないほどの頭脳の持ち主。空手・形の選手でもある。


日々木陽稲・・・中学3年生。ロシア系の血を引く日本人離れした美少女。祖父の希望で臨玲に進学予定。曾祖母が臨玲出身。


小野田真由美・・・元中学教師。4月まで可恋や陽稲の担任を務めていた。現在はNPOで教育サポートの仕事を行っている。


北条・・・30代ながら臨玲の事務方の主幹を務める。外資系企業で働いていたが椚に引き抜かれた。


椚・・・母親の死後理事長の座を継いだが学園長に裏切られあわや失脚寸前までいった。北条の力で逆襲に成功。相手が油断していたというのもある。


 * * *


「ようやく学園長を更迭して対立は解消したものの、教職員も生徒も一枚岩ではないの」


 応接室に案内してもらい、私たちは席に着いた。

 熱い緑茶が出されたが、あまり高級品ではないようだ。

 3人だけになると北条さんはフランクな言葉遣いに変わった。


「教職員は強引に入れ換えることもできるけど、生徒はそうもいかない。特に有力な家柄の生徒を優遇して学園長派に仕立てていたから、その対応が難しいのよ」


「卒業するまで待てば良かったのでは?」と質問すると、「経営的にそこまで余裕がないのよ」と北条さんは顔をしかめた。


 あの理事長を見たあとでは反理事長派に与するのもありだと思ってしまう。

 もちろん一生徒として上層部の権力闘争と無縁に過ごせればいいのだが、残念ながら臨玲では表に出ない不祥事が起きている。

 親の財力が何かと影響するお嬢様学校という場ではそれ相応の身の処し方が求められるだろう。


「お互いに良い関係を築いていきたいですね」と私が発言すると、「そうありたいわね」と北条さんはこちらをジッと見た。


 ひぃなの前なので込み入った話は避け、「また連絡します」と言って済ませる。

 その後は事務員の女性に校内を案内してもらうことになった。

 別れ際に北条さんはこっそり私に紙片を手渡した。

 そこにはプライベートの連絡先らしいものが記されていた。

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