第344話 令和2年4月14日(火)「魂の叫び」川端さくら

「さくらーーー!!!」


 大きな声でわたしの名前を呼び、大きく手を振りながら駆け寄ってくるジャージ姿。

 言わずと知れた我が友、津野心花みはなその人である。


 3年生は午後、新しい教科書が配布される。

 集団で来ないようにと連絡があったので、ひとりで学校までやって来た。

 わたしを目ざとく見つけた心花は抱きつかんばかりの勢いで近づいてきた。

 わたしの目には彼女がウイルスの塊に見えてしまい、すんでのところで身を躱す。

 本気で抱きつくつもりだった心花はバランスを崩し、前につんのめって手をついた。


「ひっどーい!」と心花は喚く。


 世はソーシャルディスタンスだとか言っているのに、抱きつこうとするとかあり得ないんだけど……。

 しかし、わたしはそんな文句を飲み込んで、「久しぶり」と挨拶した。

 彼女の言動にいちいちツッコんでいては身が持たないと経験上理解している。


「あたしに会えなくて寂しかったでしょ?」と立ち上がった心花はふんぞり返る。


 その自信がどこから来るかよりもわたしが気になったのは彼女のマスクだった。

 オシャレな柄入りの布マスクだというのは、始業式の出来事を伝えていなかったから仕方がない。

 白ではない色つきのマスクに目くじらを立てて怒った副担任に見つからなければいいなと思うだけだ。

 そんなことより、そのマスクがぶかぶか過ぎてどう見ても役目を果たしていないだろうという点に目が行く。

 それじゃあウイルス吸い込み放題だろ……。

 学校の成績は平均以上ということが信じられない心花の頭の中を覗き込みたかった。


 虚脱感に襲われたわたしは「行こう」と心花に促した。

 相手にするだけバカらしい。

 さっさと教科書を受け取って、さっさと帰ろう。

 彼女につき合っていると免疫力まで奪われそうだ。


 昇降口の前で教科書の配布が行われていたが、その周囲はかなり混み合っていた。

 この時間は1組と2組だけだし、来ない生徒も少なくないはずだ。

 それなのに感染のことなど忘れたかのように男子も女子も大声で話し込んでいる。

 なかなか顔を合わせられないから羽目を外してしまう気持ちは分からなくもない。

 ただこの集団の中に突っ込むことは躊躇してしまう。


 そんなわたしの気持ちに気づくことなく心花はドンドン突き進んだ。

 わたしは人混みの外で足を止めてしばらく待つことにする。

 先生方が「もっと離れなさい」と注意をしているものの、この集団を解散させるには時間が掛かりそうだと思っていた。


「さくらーーー!!!」という大声と共に心花が戻ってきた。


 その手には何も持っていない。

 わたしは訝しげに「教科書は?」と聞くと、「さくらが来ないから戻って来たのよ!」とプンスカ怒った顔を見せた。


「ほら、行こう」と手を引っ張ろうとする心花を避けて、「もう少し空いてからね」とわたしは説明するが、彼女は不満そうに眉間に皺を寄せた。


 ひとりで受け取って速攻帰ればいいのにと思うが、「わたしを待たなくてもいいよ」となるべく穏やかな口調で心花に語り掛ける。

 いつもなら他にも取り巻きがいるので、その子たちを引き連れて行くだろう。

 だが、まだ新しいクラスに知り合いがほとんどいない。

 心花と言えど少しは不安を感じているのだろう。


「そこ、すぐに帰りなさい!」とつんざくような怒声が鳴り響いた。


 一瞬にして生徒のざわめきが消え、静寂が辺りを包む。

 人の輪から外れていたわたしですらその声に身がすくんでしまった。

 生徒たちを追い払うように学校指定とは違うジャージを身につけた教師がゆっくりと前に進み出た。

 さっきまで生徒がたむろしていた場所で立ち止まり、仁王立ちのように両足で大地を踏みしめる。


「受け取りが済んだ者は急いで帰りなさい!」


 言っている内容は普通なのに殴られたような感覚がある。

 先生を避けるように離れていた生徒たちは顔を見合わせ逃げるように校門の方へ向かって行った。

 残った生徒はまだ教科書を受け取っていない数人だけだ。

 そのひっつめ髪の女性――わたしたちの副担任である君塚先生――の恐ろしい視線を浴びながら前へ進む。


 ……失敗したなあ。


 こんなことなら心花と一緒に早く教科書を受け取っておけばよかった。

 溜息のひとつもつきたくなるが、それを態度に出さずに君塚先生の横を通り抜ける。

 心花もおとなしくわたしの後ろをついて来た。

 さっきの怒鳴り声に怯えたのかその顔は青ざめていた。


 教科書を受け取る。

 心花がトラブルを起こさないかとハラハラしていたが、大丈夫そうだ。

 あとは帰るだけ。

 急ごう。


 その時、向こうから3人の女生徒がこちらに向かって歩いて来た。

 真ん中にいるのは誰の目も引くであろう小柄な美少女。

 彼女を守るように大柄なふたりがその横を歩く。


 美少女は言うまでもなく日々木さんだ。

 その横のガッチリした体型は安藤さんだろう。

 そして、黒いマスクにサングラスのような色のゴーグルをつけているのが日野さんのはずだ。


 わたしは嫌な予感がして足を止めた。

 このまま歩いて行くと、ゆっくり歩いて来る3人が君塚先生と鉢合わせするところに遭遇してしまう。

 迂回できるほどのスペースはない。

 わたしは固唾を飲んで見つめていた。


「待ちなさい!」


 案の定、君塚先生が3人を呼び止めた。

 正確に言えば、日野さんを、だろう。

 立ち止まった日野さんの方を向いて君塚先生は「それを外しなさい!」と鋭い声を発した。


「お断りします」と日野さんは即答した。


 日野さんは構わず歩き出した。

 君塚先生は自分の横を通り過ぎる彼女に手を差し出そうとする。

 しかし、届く直前でその手は止まった。


 日野さんがわたしの方に来たため、それを目で追う君塚先生の顔がはっきりと見えた。

 マスクはしているものの、怒りの形相が嫌でも分かる。

 わたしが怒られているような気持ちになってくる。

 マジ逃げ出したい。

 しかも、いつの間にかわたしの左腕に心花がしがみついていた。

 これって濃厚接触!?


 わたしの横を抜けた日野さんたちは教科書を受け取り戻って来る。

 日野さんは何ごともなかったかのように歩いている。

 その後ろを少し離れて日々木さん、彼女をガードするかのように安藤さんが歩く。


 日野さんが再びわたしの横を通り過ぎた。

 その先にいる君塚先生は怒りで顔が真っ赤に染まっている。

 ヤバいって!


 わたしの心の悲鳴にもかかわらず、日野さんは悠然と歩く。

 可能な限り回り込めばいいのに、君塚先生の真横に向けて歩いて行く。

 君塚先生は視線をがっちりと日野さんに固定していた。


 3メートル。

 2メートル。

 1メートル。

 もう手を伸ばせば届く距離だ。


 一触即発。

 この場にいる誰もが息を詰めてふたりを見守っていた。


 日野さんは挑発するように君塚先生のすぐ横を通る。

 君塚先生は必死で威圧しようとしているが、日野さんの身体に触れることはなかった。


 日野さんは振り向くことなくゆっくりと歩いて行った。

 日々木さんたちは極力君塚先生から距離を取るように横を抜け、日野さんに追いつく。

 十分に距離を取ったところで日野さんが振り返った。


「川端さん、この前はありがとう」


 ……え! いま、それを言う?


 わたしが反応できずにいると、彼女はサッと右手を挙げた。

 お礼という意味だろう。

 そして、ほかのふたりと帰って行った。


 土曜日にわたしの友だちを通して彼女から連絡があった。

 担任の藤原先生から頼まれたという調査の協力をお願いされた。

 家のネット環境に関するもので、心花たちにも聞いて欲しいと依頼された。

 ヒマだったから素直に協力してあげたのに……。


 これって恩を仇で返したってことだよね?

 だって君塚先生が敵意をわたしに向けているのだから……。


 心花がしがみついて身動きできない。

 前には君塚先生が立ち塞がっている。

 果たして、わたしは無事に家に帰れるのだろうか。


 誰か、助けて!




††††† 登場人物紹介 †††††


川端さくら・・・3年1組。クラスの女王様的な心花の影の参謀役と自分を位置づけている。問題はこのクラスで心花がそのポジションにつけるかどうか。


津野心花みはな・・・3年1組。可愛いでしょ、このマスク。なのに、さくらったら褒めてくれないのよ!


日野可恋・・・3年1組。陽稲から「そのゴーグルは止めた方が……」と忠告されたが、「先生を睨んじゃったら怒られるじゃない」と答えた。


日々木陽稲・・・3年1組。君塚先生がいませんようにという願い虚しく。可恋の容赦のなさを知るだけに君塚先生を心配している。


安藤純・・・3年2組。初めて陽稲と別のクラスになった。陽稲は心配しているが本人はまだ自覚なし。


君塚紅葉・・・3年1組副担任。4月にこの学校に転任してきた。担任の藤原先生から日野は教育委員会にコネがあると聞いている。

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