第628話 令和3年1月23日(土)「目標」日々木陽稲

「合格だよっ!」


 スマートフォンに表示された「おめでとうございます」の文字を見て、我がことのようにわたしは喜んだ。

 わたしや可恋は書類審査のみで合格が決まったのでその有り難みを十分には感じていない。

 だから、純ちゃんの合格発表には自分の分まで気持ちを重ねていた。


「これでまた3年間一緒にいられるね!」


 わたしが興奮する目の前で、合格した当人はプロテインを大きなグラスから喉に流し込んでいる。

 今日は朝10時にオンラインでの合格発表があり、それに備えて朝から純ちゃんは可恋のマンションに滞在中だ。

 このリビングにはスポーツジムにあるような器具がいくつか設置してあり、先ほどまで彼女は一心不乱にそれで身体を鍛えていた。


「よほどのことがない限り合格するものだから」


 わたしの横で可恋が自分で淹れた紅茶を飲んでいる。

 合格して当然という澄ました顔だ。

 わたしも事前にそんな説明を受けていたが、それでも発表を見れば感動がこみ上げてきた。

 それなのにこのふたりときたら……。


「もう少し喜ぼうよ!」とわたしが叫ぶと、プロテインを飲み終えた純ちゃんが表情を変えずに「嬉しい」と頷いた。


「そうだよねっ!」


「……これで、泳ぎ、集中できる」


 わたしはがっくりとテーブルに突っ伏した。

 気持ちは分かる。

 この半年くらいは競泳の練習をセーブして勉強に打ち込んでいたのだから。

 でも、合格という事実をもっと素直に喜ぼうよ。


「ごめん。理事長が良い顔をしないので定期テストは平均点くらい取って欲しい。ひぃな、サポートよろしくね」


 可恋が全然悪いと思っていない表情でそう発言した。

 それを聞いて、純ちゃんにしては珍しく口をポカンと開けて驚いている。

 わたしもしばらく呆然としたあと「聞いてないよ」と抗議した。


「スポーツで学校の知名度を上げるのはよくある手法だけど、臨玲には必要ないって理事長が純ちゃんの推薦をなかなかオッケーしてくれなかったのよ」


 純ちゃんの入学に伴い競泳部が設置されるとは聞いていたが、裏でそんなやり取りがあったなんて全然知らなかった。

 臨玲にもプールはあるが競技に使えるようなものではないため、練習は所属しているスイミングクラブで行うことになっている。


「理事長は臨玲の偏差値を上げたいみたい。だから、まあテストの平均点を下げない程度の成績は残して欲しいかな」


 可恋によると理事長はスポーツには一切興味がない人だそうだ。

 頭が良くて有能だが、人間不信もあって人望に乏しい。

 理事長でも容易に手が出せない、権限の豊富な生徒会の改革を可恋は託されている。


 高校に入学が決まったからといって勉強をしなくて済む訳じゃない。

 可恋の言葉はもっともだ。

 だが、聞いておくことがあった。


「平均ってどれくらいなの?」


「さあ? さすがに情報不足で分からないよ」


 それでも可恋は予想を教えてくれた。

 とりあえずいまの中学における平均程度の成績を残せば問題はないのではないかと。

 わたしは手持ち無沙汰にボーッと座っている純ちゃんの顔を見る。

 彼女は試験前にしっかり勉強をして定期テストで平均を少し下回る程度の成績だ。

 それだともう少し勉強に時間を割いてもらう必要がありそうだ。


「純ちゃん、頑張ろうね」と呼び掛けると、彼女はキョトンとした顔になる。


 わたしはこめかみを押さえながら「勉強。高校に入ったら、もう少し勉強を頑張ろう」と言葉を補足する。

 純ちゃんが自分のことですら他人事のように関心を示さないのはわたしが構い過ぎだからではないかと懸念を抱いている。

 3年で初めてクラスが分かれ、どうなることかと思ったが学校生活はいつものマイペースで乗り切った。

 しかし、高校受験に関しては本人よりも周りが動き回り、なんとか合格にこぎつけた。

 いつまでもそれではいけないと思うものの、放り出すこともできない。


「自分で自分をマネージメントできた方が良いのは確かだけど、誰にでも得手不得手はあるから」と可恋は最近そう言っているが、別の見方をすれば純ちゃんの変化を促すことに匙を投げたということだ。


「よし、高校生活の目標。自分の将来のことは自分で決められるようになろう」


 これは純ちゃんに向けた言葉ではあるが、自分にも言えることだった。

 何でもできてしまう可恋が側にいるので無意識のうちに頼ってしまうことも少なくない。

 わたしはファッションデザイナーになりたいという願望があるものの、いまだ具体的なイメージはハッキリしていない。

 どういう道を進み、どんなデザイナーになりたいのか。

 そのためにどのような努力が必要なのか。

 それらは自分の力で見つけていくべきものだろう。


 純ちゃんは分かったような分からなかったような顔をしていたが、根気よく説明したら最後は理解してくれたようだ。

 わたしが解放すると彼女はトレーニングを再開した。

 午後から合格の報告を兼ねてスイミングクラブに練習に行くと聞いている。

 疲れないのか心配になるほどだ。

 まあ、可恋が何も言わないので問題はないのだろう。

 わたしはトレーニングの様子を眺めながら、「練習に護衛に勉強にって忙しすぎない?」と口に出す。


「彼女ならできるよ」と可恋はサラリと言ってのけた。


「練習はいままでよりも大変になるんでしょ? 護衛だって責任が発生するようになるのだし、そこに苦手な勉強までって……」


 高校生になり身体ができあがった純ちゃんの練習はよりハードになるらしい。

 また、純ちゃんはこれまでもわたしを守ってくれていたが、今後はアルバイトのような形にすると可恋が言い出した。

 臨玲はお嬢様学校であり、学費以外にも様々な出費を強いられる。

 それを、わたしを護衛することで賄うようにするそうだ。

 可恋は父親からの養育費を投資で増やし、その年齢には相応しくない資産の持ち主だ。

 しかし、守ってもらうのはわたしなので複雑な心境だった。

 掛かった費用の半額はわたしに出世払いしてもらうからと言われて引き下がったものの、可恋にばかり負担を掛けている状況は心苦しい。

 ただ、そのお蔭で純ちゃんが臨玲に進学できるのも事実だ。


「まず、ひぃなができると信じてあげないと」


 可恋の指摘にわたしは二の句が継げなかった。

 わたしが構い過ぎるのは純ちゃんひとりではできないと思ってしまうからだ。

 これではまるで子離れできていない母親みたいだ。


「大丈夫だよ」と語る可恋の顔には純ちゃんへの信頼だけでなく、何かあってもどうにかできるという自信があった。


「そうだね」と答えたわたしは自分の胸に手を当て、ぐっと奥歯を噛み締めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。将来の夢はファッションデザイナー。そのための勉強はコツコツ積み上げている。臨玲進学はその夢を金銭的にサポートしてくれる祖父”じいじ”の希望を叶えたもの。


安藤純・・・中学3年生。競泳界のホープとして期待されているが、特待生扱いの推薦が得られなかった。家庭の経済状態が厳しいため私学進学を諦めかけていた。可恋が臨玲理事長のくぬぎと交渉して特待生に近い形での推薦を得ることができた。


日野可恋・・・中学3年生。学校内で信頼できる護衛をつけるのはいくらお金を積んでも不可能に近いので、純ちゃんへの対価はいくら払っても問題ないと認識している。ただ状況に応じて、陽稲の祖父との折半や臨玲改革の必要経費として回収することも視野に入れている。

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