第617話 令和3年1月12日(火)「逃亡者」保科美空
今日は空手の朝稽古の日だ。
現在あたしは週2回朝稽古の参加が認められている。
密になり過ぎないようにという理由もあるが、あたしの場合は学業が疎かにならないようにという理由が大きい。
朝稽古は非常に密度が濃い。
わずか1時間なのに流れるように稽古をこなす必要がある。
段取りを頭に叩き込むことは最低条件だ。
周りの人の足を引っ張れば参加させてもらえなくなる。
その上で自分の課題を意識して取り組むことが求められた。
師範代が常に目を光らせているので、一瞬の気の緩みも許されなかった。
そんな朝稽古に参加すれば通常の稽古の何倍もくたくたになる。
身体以上に頭の方の疲労感が強い。
朝稽古に参加したての頃はそのあと学校に行ってもボーッとしてしまうことが多かった。
最近はだいぶマシにはなったが、あたしにはまだ週2回というのがちょうど良いのかもしれない。
雪が降るかもしれないと言われていたが、朝は良い天気だ。
寒いことは寒いが、冬なのだからこんなものだろう。
稽古が終わったあとはこの冷たさが気持ちいい。
あたしは稽古をやり遂げた充実感を胸に道場の裏手に向かった。
いまは眠気なんて吹き飛んでいるが、三連休明けの今朝あたしは寝坊した。
昨夜は友だちとのLINEが盛り上がり、つい夜更かししてしまったのだ。
連休は嬉しいけど生活のリズムが狂う原因にもなる。
あたしは寝坊を連休のせいにして、自転車を必死にこいでギリギリ間に合わせた。
道場には自転車置き場があって、本当は正門から入りそこに駐めなければならない。
しかし、今朝は時間がなく裏口から入り、更衣室に近いこの場所に駐めた。
ダメだと分かってはいても遅刻するよりはマシだった。
あたしはコソコソと自分の自転車に近づいた。
ほかに不埒な人間はいないようで、自転車は1台きりだ。
鍵も掛けていなかったことに気づく。
それほど慌てていた。
あたしはホッとして帰ろうとした。
その時だ。
建物の影から突然巨大な何かが現れた。
あたしは咄嗟に構えを取ろうとする。
だが、相手は素早く、一瞬のうちに正面から抱きつかれてしまった。
悲鳴を上げようにも顔をうしろからギュッと胸元に押しつけられているので大声が出せない。
幸い相手の胸元は硬い筋肉だけではなかった。
そんな状況判断をし始めた矢先に耳元で「ミク、let's run away!」と囁かれた。
いや、もちろん途中で相手が誰かは気づいていた。
180 cmを越える長身の黒人少女なんてほかに知り合いがいないからだ。
ただ、なぜ彼女がここにいるのか分からなかった。
だって、三連休道場で過ごしたキャシーさんは昨日家に帰ったはずなのだから……。
「いったいどうしたんですか?」となんとか身体を引き剥がして尋ねると、彼女は指先を自分の黒マスクに当てて黙るように指示した。
周囲を警戒している様子から、誰かに追われているようだ。
彼女は小声で何かまくし立てるが、残念ながらそんな早口ではさっぱり伝わらない。
なぜならキャシーさんは英語しか喋らないし、あたしは英語が話せない。
ただ雰囲気から道場から逃げ出したいことは伝わって来た。
あたしは彼女に引っ張られるように自転車を押して道場の敷地から外に出る。
彼女は自転車に乗れという仕草をする。
あたしはそれに従った。
でも、どう考えても二人乗りは無謀だ。
どうするのかと思ったら、キャシーさんはあたしの横を走り始めた。
これなら大丈夫だとホッと息を吐いてから気づく。
「キャシーさん、
そう声に出したものの、日本語なので当然伝わらなかった。
彼女はもっと急げとあたしの背中を押す。
いやいやいや。
どうしようと焦るが、名案は浮かばない。
あたしはパニックになりながら通い慣れた道を漕いでいった。
当然いつかは自分の家に着いてしまう。
玄関先に自転車を駐め、家に入る。
人間、こういう時は頭が回らなくなるものだ。
そして、普段通りに行動しようとしてしまう。
玄関で「ただいまー」と大声を出し、靴を脱いで家に上がる。
もちろんキャシーさんもあたしの後ろについて家に上がった。
緊張した様子はなくとてもリラックスしているようだ。
いつもなら洗面所に直行するが今日は先に居間に向かった。
「おかえり」と言ったお母さんが目を見開いて固まった。
その奥にいたお姉ちゃんが茶碗を手に持ったままこちらを見て口をパクパクしている。
こんなに驚いているふたりの姿を見たのは初めてだ。
特に普段あたしに「もっと女の子らしくしたら」と注意するお姉ちゃんが、はしたなく椅子から転がり落ちたのを見て笑ってしまった。
キャシーさんは慌てて近寄り、助け起こそうとする。
しかし、お姉ちゃんは怯えてキャシーさんの手を振り払おうとした。
見かねたあたしは、「何回か話したことがあるでしょ。彼女はキャシーさんで、あたしと同じ中学生よ」とふたりに紹介した。
あたしはキャシーさんを連れて洗面所に向かう。
手を洗いたかったのもあるが、ふたりに少し落ち着く時間を与えるためだ。
あたしも初めて彼女を見た時は衝撃を受けた。
あたしは小柄なのでどうしても身長が高い人には威圧感を覚えてしまう。
キャシーさんの場合どこか肉食獣っぽい雰囲気もあって最初はとても怖かった。
順番に手を洗ったあと、あたしは「Hungry?」と尋ねた。
言葉は分からなくても、彼女がいかにお腹が空いているかはすぐに分かった。
食材があるのか不安だったが、居間に戻るとお母さんに「彼女、お腹が空いているみたいなの」と伝える。
お父さんがいれば英語が話せたかもしれないが、テレワークの時以外は朝早くに出勤するので朝稽古の日は入れ違いになる。
仕方がないので、「お姉ちゃん、高校生でしょ。彼女、日本語が話せないから通訳お願いできる?」と頼んだ。
「む、無理よ」とやってもみずに断られた。
あたしが顔をしかめると、「何を言っているか分からないもの」と姉は言い訳をする。
先ほどからしきりにキャシーさんは英語で何か話している。
独り言半分、あたしに話し掛けているのが半分といったところだろうか。
あたしは彼女に向き直ると、「Why here? Speak very very slowly, please」と知っている単語を並べた。
当たっているかは分からないが彼女の言葉から推測すると、昨日家族が迎えに来た時に家に帰りたくないと駄々をこねたようだ。
結果、道場に残ることはできたが師範代から練習の参加は許されなかった。
そこで、道場を抜け出し、どこかへ修行に行くぞと息巻いている。
さて、困った。
あたしはいまから学校だ。
あまり時間は残されていない。
学校について来るなんて言われたらどうしたらいいか分からない。
一方、家に残られてもどう対応していいか分からない。
お母さんは家に居るが、言葉の分からないキャシーさんの相手をするのは骨が折れるだろう。
お母さんがあたしとキャシーさんの朝食を作って持って来てくれた。
ご飯にお味噌汁、ハムエッグにサラダ、それに朝から焼肉まであった。
いつもより豪勢な料理をあたしたちふたりはもの凄いスピードで平らげる。
こんなところが「女の子らしくない」のだろう。
解決策が浮かばないまま朝食を終えた。
制服に着替えに行きたいが、どうしよう。
あたしは立ち上がる。
これで上機嫌に座っているキャシーさんと目の高さが同じくらいになる。
何と声を掛けるか思案していると電話の呼び出し音が鳴った。
途端にキャシーさんの表情が変わる。
彼女は「オーマイゴッド!」などと叫びながら胸元からスマートフォンを取り出すと、なぜかあたしに向かって放り投げた。
あたしはなんとかキャッチできたが、普通の女の子なら床に落としていただろう。
「出ますよ」とひと言断ってから画面にタッチする。
『キャシー』と怒気をはらんだ声があたしの耳に届いた。
キャシーさんは逃げ出そうと腰を浮かした。
気づいたあたしは逃がさないように彼女の肩を押さえる。
本気で暴れたら力の差は歴然だが、さすがに他人の家でそこまではしない分別があった。
「あ、あたし、保科
あたしは右手でキャシーさんの肩を押さえ、左手でスマホを持って自分の耳に当てていた。
電話の相手はかしこまった口調になって『おはようございます。日野です。師範代に事情を聞きキャシーに伝えたいことがあって電話しました。彼女に聞こえるようにしてもらえますか?』と日本語で言った。
あたしはスピーカーに切り替えてから『はい、大丈夫です』と返答する。
日野さんの英語は流麗で、あたしの知らない単語ばかりで意味が分からなかった。
叱られているのかと思ったが、キャシーさんは手放しという感じではないものの喜んでいた。
一通り伝え終わったあと、日野さんはあたしにも説明してくれた。
『キャシーが勉強するという約束を果たさなかったため彼女のご両親は家に連れて帰ろうとしました。緊急事態宣言が出たら道場に居られると思っていた彼女は柱にしがみついて抵抗したようです。師範代は泊まることは許しましたが、稽古への参加は許しませんでした。そこでキャシーは逃げ出そうとしたようです』
先ほど聞き出したことと大筋同じだったので、あたしの英語も満更ではない。
キャシーさんと話す機会は結構あるのに英語の成績は低空飛行なのだけど。
『道場に戻すために練習は解禁します。今回の罰については逃げ出せない環境を整えてから検討します』
淡々とした物言いなのに凍てつくような響きがあった。
暖房の入った家の中にいるのに外より寒く感じてしまうほどだ。
あたしまで怒られている気分になり、弁解するように「あ、あたしは……」と声が出てしまう。
日野さんは『あなたには累は及びません。それとも、何か罰を受けるようなことをしましたか?』と感情の籠もっていない声で尋ねる。
あたしは思わず自転車を裏手に駐めたことを告白してしまった。
『その件については後日』とあたしの心をざわつかせるセリフを言ってから、『これから師範代が迎えに参りいます』と日野さんは口にした。
それに対して『あ、あたしが送ります』と勇気を振り絞ってあたしは提案する。
時間はないが自転車を使えばギリギリ学校に間に合うだろう。
家族の顔を見ればその方が良いはずだ。
あたしの提案にお母さんとお姉ちゃんは期待する表情を浮かべた。
あたしが出掛けたあと師範代が来るまでキャシーさんをどう扱うか、ふたりをめちゃくちゃ悩ませるに違いない。
『分かりました。それでお願いします。ご家族にはご迷惑をお掛けしました。近いうちに師範代がお詫びに伺います』
日野さんからの電話が終わるとあたしは急いで中学校の制服に着替える。
スカートを穿けば女の子っぽく見えると自分では思っているが、あまり賛同を得られない。
髪を整える暇もなく、鞄を手にドタバタと走って居間に戻る。
その勢いのままキャシーさんを引っ張って外へ出る。
彼女も稽古ができると聞いてやる気満々になっている。
道場の近くまで行けばあとはひとりで戻れるだろう。
あたしは自転車に乗り込むとキャシーさんに声を掛けた。
「Let's go!」
††††† 登場人物紹介 †††††
保科
キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。190 cm近い長身とバネのある肉体でメキメキ力をつけた。組み手では太刀打ちできる同年代の選手はいないと目されている。インターナショナルスクールに通っているので学校単位の大会へは出られない。
日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。体調を崩していたので師範代が気を使って今回の件を伝えていなかったが、キャシーがいなくなって行き先の第一候補の彼女に連絡が来た。
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