第327話 令和2年3月28日(土)「わたしの誕生日」日々木陽稲

「ごめんなさい、風邪を引いたかも」


 昨日の夕方、お母さんは帰って来るなりわたしとお姉ちゃんにそう告げた。

 普段と変わらず元気そうに見えるけど、鼻水や咳、多少の熱っぽさがあるそうだ。

 わたしは両手を頬に当てて固まってしまう。

 お姉ちゃんは「大丈夫?」と言って駆け寄ろうとしたがお母さんに止められた。


「大丈夫だとは思うけど、大事を取って休むことにするわ」と言ってからお母さんが咳をする。


 マスクをしているとは言っても咳の音にドキッとしてしまう。

 新型コロナウイルスの感染者数が増え、神奈川県でも外出自粛の要請がされている。

 心配するわたしたち姉妹に、お母さんは優しく微笑みながら、「ただの風邪の可能性が高いし、万が一新型コロナウイルスだとしても8割の人は軽症で済むのだから」と話した。


 お母さんは横浜のデパートで働いている。

 人との接触が多い仕事だから人一倍感染防止に力を注いでいた。

 それでも病気に罹ってしまうことはある。

 わたしにできることは大事に至らないように祈ることくらいだ。


「明日が誕生日なのに悪いわね」と部屋を出る時にお母さんが神妙な顔でわたしに謝った。


「気にしないで!」とわたしは答えたが、こういう時こそ笑顔が必要なのにそれができているとは言えなかった。


 お母さんは両親の寝室に引き籠もった。

 わたしはお姉ちゃんと一緒に家の中の消毒を済ませ、お父さんを加えて家族会議を行った。

 当面の間お父さんは客間で眠ること、お母さんの世話は仕事があるお父さんではなく春休み中のお姉ちゃんが担当することが決まった。

 そして、問題となったのがわたしの扱いだ。


 今年は初めて自宅で誕生日を祝う予定だった。

 これまでは毎年北関東の”じいじ”の家で盛大に祝ってもらっていた。

 新型コロナウイルスの影響で春休みがずれ込んだことや、祖父母への感染リスクを考えて、今年は自宅でささやかなパーティを開くことになっていた。

 しかし、この状況ではそれはもう無理だろう。


 誕生日のお祝いについては仕方ないで済む話だ。

 そんなにショックではない。

 それよりも重要なのは可恋のことだった。


 月曜日まで学校があるので、それが終わってから再び可恋の家に泊まりに行くというプランだった。

 わたしが家に戻った火曜日以降、可恋は独り暮らしの状態に置かれている。

 可恋は平気だと話すが、それが長く続くことが良いことだとは思えない。


「もちろんわたしもお母さんも用心はするけど、ヒナが家にいると移るリスクはあるよね」とお姉ちゃんが心配そうに話す。


「陽稲は今日のうちに可恋ちゃんのご自宅に行った方がいいかもしれないね」とお父さんが頷いた。


「でも、お母さんが……」とわたしは口にする。


 お母さんが病に伏せっているのに、わたしひとりが可恋の家に行くことに躊躇う気持ちがあった。


「お母さんには私や華菜がついている。お母さんだって分かってくれるよ」とお父さんがわたしを諭すように語った。


 可恋は免疫力が極度に低いという体質の持ち主だ。

 普段はとても元気で運動能力もずば抜けて高いのに、季節性のインフルエンザでも普通の人の何十倍もリスクが高いそうだ。

 可恋のお母さんは現在困窮した人々の窮状を救うために活動している。

 現場で人と会う機会が多いため、感染症のリスクを考慮してあえて家に帰っていない。

 可恋はそんな自分の母親の仕事を尊敬しているので、寂しいなんて音を上げることはしないだろう。


「いまはみんなが助け合う時だよ。陽稲は可恋ちゃんを助けてあげなさい」


 お父さんの言葉にわたしは頷く。

 そうと決まれば急いで準備をしなければならない。


 去年わたしはおたふく風邪に感染した。

 お父さんやお姉ちゃんに移さないように、罹ったことのあるお母さんがずっとわたしの看病をしてくれた。

 あの時わたしは家の中で隔離されていたけど、それでもトイレに行く時など移す危険はあると感じた。

 一緒に暮らしていればどうしたって感染リスクはある。

 可恋の家に行くなら一刻も早い方が良いだろう。


 可恋に事情を説明すると、彼女もわたしの考えに賛成した。

 大量の衣類を鞄に詰め込み、それをいくつも居間に運び入れる。

 日常生活に必要なもののほとんどは可恋の家に置いてあるので荷物の大半は服になってしまう。


「ヒナ、1日早いけど誕生日おめでとう」と出掛け際にお姉ちゃんが祝ってくれた。


「ごめんね、いろいろと料理の準備をしてくれていたのに」と謝ると、「誰かが悪い訳じゃないよ」とお姉ちゃんは明るく微笑んだ。


 そして、荷物になるけどと言いつつ食材をいっぱい持たせてくれた。

 ……持つのは送ってくれるお父さんなんだけど。


「重くない? 車の方が良いんじゃない?」と持ち切れないほどの荷物になってわたしは不安を口にするが、「今日はお母さんが車を使ったからね」とお父さんは答えた。


 最近は満員電車を避けるためにお母さんは自家用車で通勤していた。

 換気して消毒すれば大丈夫だとは思うが用心に越したことはない。


 可恋は荷物運びが大変になると予想して手伝うと申し出てくれたが断った。

 可恋自身はある程度のリスクは許容範囲と見なして活動している。

 でも、わたしやわたしの家族は本人以上に憂慮してしまう。

 わたしはもっと自分で荷物を持つと主張したものの、「陽稲は周囲を確認して」とお父さんに却下されてしまった。


 お父さんが頑張って運んでくれた荷物は可恋のマンションの玄関にうずたかく積まれた。

 わたしは手洗いと着替えを済ませ、荷物をひとつひとつ丹念に消毒する。

 それが終わると、改めて手洗いと着替えをして広々としたリビングに入った。


 消毒を済ませたことを連絡すると可恋が部屋から出て来た。

 誰もが驚くような広いリビングダイニングの端と端で顔を合わせた。

 駆け寄りたいのをぐっと堪え、「久しぶり」と声を掛ける。

 ゆっくりと近づいてきた可恋は「大変だったね」と慰めてくれた。


「大変だったのは、風邪を引いたお母さんや準備を手伝ってくれたお姉ちゃん、荷物を運んでくれたお父さんだよ」


 可恋と顔を合わせるのは火曜日以来だ。

 それなのに、可恋の匂いが届く距離まで達する前に「夕食まだでしょ。用意をするからその間にお風呂に入ってきて」と言われた。

 わたしは後ろ髪を引かれる思いで浴室に駆け込んだ。


 かなり遅めの夕食を摂り、可恋の部屋ではなく客間で休むことになった。

 涙目となったわたしに、「ひぃなからの感染を警戒しているだけじゃなくて、私からひぃなへの感染も疑わなきゃいけないからね」と可恋は説明した。

 可恋は毎月大学病院で検査を受けている。

 先月は新型コロナウイルスの影響で検査ができなかったため、今月は無理をしてでも受ける必要があったそうだ。

 その検査を水曜日に丸一日かけて行った。

 毎回可恋が苦痛だと漏らすほどの大変な検査だ。


 こうして慌ただしい一日が過ぎ、わたしは可恋の家の客間で誕生日を迎えた。

 今日わたしは14歳になった。

 年齢で可恋と並んだ。

 すぐに可恋は15歳になってしまうけど……。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学2年生。休校中も可恋とふたり暮らしを続けていた。その時は同じベッドに寝ていたのに……。


日々木華菜・・・高校1年生。日々木家の料理担当で大の料理好き。いろいろと準備をしていただけに残念。


日々木実花子・・・陽稲と華菜の母親。しばらくは自宅で自主隔離の予定。


日野可恋・・・中学2年生。独り暮らしに問題はない。ただひとりでの食事だけは味気なく感じる。

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