第524話 令和2年10月11日(日)「ご機嫌斜めの陽稲には勝てない」日野可恋
「可恋、最近好きだって言ってくれないね」
唇を尖らせたひぃながジトッとした目で私を見た。
日曜の昼下がりに似つかわしくない不機嫌さの理由は分かっている。
「買い物、行けなくてごめんね」
私は何度目かの謝罪の言葉を口にする。
このテスト明けの週末にひぃなの買い物につき合うと約束していた。
だが、予定していた昨日は台風の影響で外出を控えることになった。
今日はこのあとF-SASのオンラインミーティングがあって行くことができない。
「それはもういいの。理解しているから」
口調は穏やかだが、彼女にしては目つきが良くない。
今日のひぃなは1日家にいるというのに漆黒のドレスを着込み抗議の意思を表していた。
「私はひぃなのことが大好きだよ。愛してる。心の底から。一生この愛を誓うよ」
ひぃなの先ほどの言葉を受けて私はそれなりに心を込めて囁いてみたのに、彼女の顔は満足にはほど遠いようだった。
以前ならこうしたセリフですぐに顔を赤らめてくれた。
手強くなったものだ。
「真剣さが足りないのよ。もっと恥じらいだとか誠実さだとかがないと本気だって伝わらないわ」
ひぃなは人差し指を立てて上から目線でそうダメ出しする。
まったく誰に似たんだか。
「じゃあ、お手本を見せてよ」と私が切り返すと、ひぃなは「いいわよ」と余裕の笑みを浮かべた。
目の前の美少女はすくっと立ち上がると深呼吸をして息を整える。
透明感のある白い肌がフリルのたくさんついた黒のドレスによって引き立っている。
そして、ハッとするほど美しい瞳で私を正面に見据えると頬を赤らめた。
「大好き。可恋」
これがお芝居なら迫真の演技と言って称えられるだろう。
私は思わず固まってしまったが、言った本人もボーッとした表情で立ち尽くしたままだ。
ふらつきそうな彼女を支えるために私は急いで立ち上がり、しっかりと抱き留めた。
それで意識を取り戻したのかひぃなは私にしがみつくと顔を上げた。
言葉には出さずともその目は「どうだった?」と問い掛けている。
私はつい本心を口に出しかけたが、思い直して「外見はほとんど変わっていないのに雰囲気はすっかり大人びてきたね」と感想を述べた。
意外にもその発言が彼女の心にヒットしたようで、真っ赤になった顔を私の胸に埋めた。
幼い外見を気にしている彼女にとって「大人びた」という評価が嬉しかったようだ。
ひぃなが落ち着いたのを見計らって「お茶を淹れてくる」と言って彼女の小柄な身体を引き離す。
それを拒むように私のスウェットをギュッとつかんでいたが、やがて力を抜いて「顔を洗ってくるね」と自分から離れていった。
私が紅茶を淹れてリビングに戻ると、スッキリした顔をしたひぃながソファに座っていた。
「落ち着いたようで何より」と私が微笑むと、「次は可恋の番ね」とひぃなは満面の笑みを見せた。
「忘れてなかったのか」と私はぼやく。
「忘れる訳ないじゃない。お手本を見せてあげたのだから、可恋もやってみせて」
待ち構えているひぃな相手に愛の言葉を囁くのはもの凄く照れる。
不意を突いて相手がしどろもどろになってくれるのなら恥ずかしい言葉のひとつやふたつ平気で言えるが、この流れだと私の方が赤面してしまうだろう。
「降参するよ。その代わりミーティングまでの時間、写真撮影のモデルになってあげる」
私の提案にひぃなは勢い込んで「ヌード?」と質問した。
彼女は時折こんな突拍子もない発言をする。
羞恥心の感覚が一般人と微妙に異なるのだ。
「ヌードじゃないよ。ひぃなが望む服を着るから。そうだね、時間的に3着といったところかな」
「10着!」
「時間がないって。5着でどう?」と交渉すると、ひぃなは顔をしかめつつ楽しそうに笑うという器用なことをやってのけた。
「急がないと!」とひぃなはお茶に口をつけずに私の部屋へ駆け込んでいく。
これは長くかかりそうだ。
私はひとりになったリビングで熱い紅茶を口に含む。
この香りは精神安定剤だ。
クローゼットにそこまで突飛な衣装が入っている訳ではないが、コーディネートをするのはひぃなだ。
何が飛び出すか分からないびっくり箱のような存在だから油断はできない。
「可恋!」と呼ばれて私は腰を上げた。
私の部屋の中はひぃなが選んだ服だけが用意されていた。
彼女の頭の中には私以上に私の服の情報が入っていて、目的の品だけを取り出したようだ。
これが母なら部屋中に服が散乱していただろう。
「最初はこれとこれを着て。あとは……」と指示すると今度は自分の服がしまってある客間に飛んで行った。
私は「ドレスか……」と呟いて指示された服を手に取る。
用意されていたのはすべてドレス類だった。
買ったはいいが普段着ることのない服ばかりだ。
これを着て外に行く訳じゃないと思い、袖を通す。
ひぃなはすぐに戻って来た。
その手に持っているのはウィッグだった。
いつの間に手に入れたのかは知らないが、明らかに私に使うためのものだろう。
明るい髪色でセミロングくらいの長さだった。
「手回しがいいわね」
「備えあれば憂いなしっていつも可恋が言っているじゃない」
ニヤニヤと笑いながらひぃなは手際よくそれを私の髪につけてくれる。
軽く化粧もして用意が調った。
ひぃなに先導されてリビングに出る。
彼女の手には最近お気に入りのカメラがあった。
今年の文化祭では3年生は展示のみ行うことになった。
そこで私がアイディアを出し、ひぃなが喜んで採用したのがとある写真の展示だった。
ひぃなはクラスの中で受験勉強に関して余裕があり、率先して撮影役を引き受けた。
そして、夏頃からカメラを抱えて行動することが増えたのだ。
「どこで撮るの?」と私はリビングを見回す。
「外よ」とひぃなはさも当然のように発言した。
「は?」
「曇ってはいるけど、雨は降っていないもの」
「いや聞いてないし、時間がないし、誰かに会ったらどうするの」
私の声には焦りの色があった。
このまま押し切られてはマズい。
とてもマズい。
「可恋が言い出したのよ、写真撮影のモデルを引き受けるって。だったら、カメラマンの指示に従うのが当然なんじゃないかしら」
「……許してください」と私は下げられるだけ頭を下げた。
もうプライドなんてどうでもいい。
リビングで撮影すると思い込んで事前に協議しなかった私の落ち度だ。
人差し指を口元に当てたひぃなは少し考え込んでから「いいわ」と微笑んだ。
しかし、その目は何か企んでいるようだった。
私はおそるおそる尋ねる。
「撮影はこの部屋の中でいいんだね?」
彼女はコクリと頷く。
私はひぃなの次の言葉を待った。
「ただし、オンラインミーティングはその姿で参加すること。もちろん、カメラが壊れたなんて言い訳はなしよ」
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。NPO法人”F-SAS”の共同代表を務める。オンラインミーティングではなぜその姿なのかという参加者の疑問に一切答えず、それどころかその質問を許さないように目で威嚇していた。
日々木陽稲・・・中学3年生。普通の中学生の何十倍とある自分の服だけでなく、家族や可恋の服についてもすべて記憶している。
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