第439話 令和2年7月18日(土)「束の間の」日々木陽稲

 肌寒い雨の一日だけど、可恋のマンションにいる限り天国かと思うほど快適に過ごせる。

 朝のうちに掃除などの家事を済ませ、お昼ご飯を食べ終わると自由時間だ。

 このところテスト勉強に時間を取られていたので、久しぶりにのんびりできる。


 一方の可恋はスマホ中毒かと思うくらいにスマートフォンの画面を四六時中見つめている。

 家事をする時にも手放さないほどで、マナー的にはどうかと思うが効率重視の彼女にとってはこれが普通だ。

 今日は道場に行かなかったのでキャシーから抗議の電話が何度も来ていて、その対応に朝から追われていたようだ。


「雨だし寒いし行ける訳がないでしょうに」と可恋はウンザリした顔でキャシーの相手をしていた。


 土曜日であっても可恋は忙しい。

 最近はNPO法人であるF-SASの仕事以外にもシャルロッテさんと進めているトレーニングに関する論文発表や母親である陽子先生の研究のサポート等も行っている。

 そのために必要な勉強と称して大量の本を読んでいるので、共に暮らしていてもゆっくりお喋りする時間はあまりない。


 そんな可恋が昨日は期末テストを受けるために登校した。

 全校集会があった日はお昼に登校し教室に来て早々君塚先生とお話をするため会議室へ出向いたので、教室にずっといたのは新学期以来これが初めてである。

 このマンションは学校の正門前にあるので一緒に登校すると言っても一瞬のことに過ぎないが、それでも嬉しくてウキウキした。

 わたしがここに住むようになったのは一斉休校が始まってからだったので、こういう機会はこれまでほとんどなかったからだ。

 それ以前は平日にお泊まりしたのは数えるほどで、その翌朝はジョギングのあとに一度帰宅していた。


 可恋は長く休んでいたことを感じさせない様子だった。

 クラスメイトたちも目の前の試験に集中していたから騒がれることもなかった。

 テストの時はわたしはいちばん前の席で、可恋は最後列の席だったのでちょっと寂しかった。

 休み時間のたびに可恋のところへ行っていたけど、せっかく同じ教室にいるのに離れているだなんてやるせない気持ちだった。


 試験のあと可恋に「試験どうだった?」と尋ねると、「時間が残ってヒマを持て余すのがね……」と苦笑した。

 わたしは時間が余るとファッションのデザインを落書きしている。

 それでうまく時間が潰せるので、「可恋も絵を描いてみたら?」と提案してみた。

 可恋は腕を組んで真剣に考え込んでいた。

 彼女のことだ、やるならプロのような絵を描こうとするかもしれない。


「絵を勉強する時間がないから」と可恋はこの提案を見送った。


 絵が必要な時は高木さんに頼めばいいしねと可恋らしい理由もつけ加えていた。

 可恋の本気の絵を見てみたい気持ちがあったので少し残念だ。


「雨で買い物には行けなくなったけど、この時間はひぃなのために使うから」


 昼食後に熱い紅茶を飲んでいると、可恋がそう言ってニッコリ笑った。

 定期試験明けに近くのショッピングモールへ買い物に行くのは恒例だ。

 雨でも本当は行きたいところだが、天候以外にも感染者数急増という現実の前にわたしは強く行こうとは言えなかった。


 それに可恋と話したいことがいくらでもあった。

 もちろん相談ごとがあれば可恋はいつでも時間を割いてくれる。

 せっかくの休日なのだから深刻な話は必要ないだろう。

 他愛ないお喋りをしながらまったり過ごすのもいいかなと思っていると、わたしのスマホに着信があった。

 お父さんからだ。

 可恋に断ってから電話に出る。


『どうしたの?』と尋ねると、『さっき連絡が来て、お祖母ちゃんが入院した』と落ち着いた声でお父さんが答えた。


『え、大丈夫なの?』とわたしの声がうわずる。


『転倒して骨折したそうだ。大事には至らないようだけど、背中から落ちて腰を痛めたから治るのに時間が掛かるって』


 そう聞いてわたしはホッとした。

 昨年母方の祖母を交通事故で亡くしている。

 元気でいても何が起きるか分からないとその時に身に染みた。


『それで、いまから見舞いに行くんだけど、陽稲にはしばらく家に戻って欲しいんだ』


 北関東に住む祖父”じいじ”の家にはお手伝いさんなどもいて祖母が入院しても生活に困ることはない。

 それでも”じいじ”の様子を見るために泊まりがけになるそうだ。

 わたしのお母さんは週末も仕事なので家にはお姉ちゃんひとりになる。

 高校生だから心配はしていないと話すが、こういう家族の危機には一緒にいた方がいいとお父さんは言った。


 事情を話すと可恋もその方がいいと言った。

 東京の感染者数が増えているのでこの土日は陽子先生がマンションに帰って来ない。

 可恋をひとりきりで残すことには後ろ髪を引かれる思いがした。


「もし良かったら可恋もうちに来るとか……」


「私はひとりでも大丈夫だよ」


「キャシーを呼ぶとか」と思いつきを口にすると、眉間に皺を寄せた可恋が「それは嫌がらせのレベルだから止めて」と本当に嫌そうに答えた。


 お父さんが車で迎えに来てくれることになっているので、それまでに持って帰る荷物をまとめる。

 早ければすぐここに戻って来ることができるはずだ。

 ただこの夏の帰省について揉めているそうなので話が長引く可能性も捨て切れない。

 北関東の田舎にこの感染症を持ち込む訳にはいかないが、”じいじ”は孫の顔が見たいそうだ。

 盆と正月は何かと人が集まるので心配な時期でもある。

 都市部と地方では危機感にも若干差があるようだ。


 持ち帰る服を鞄に詰め込んでいたらお姉ちゃんが迎えに来てくれた。

 お父さんは下で待っているそうだ。

 お姉ちゃんにも手伝ってもらい帰る支度を調える。

 可恋とお姉ちゃんに大荷物を持ってもらい下へ降りる。

 可恋がお父さんに挨拶している間にわたしは車に乗り込んだ。


「身体に気をつけてね。あと、寂しかったらいつでも連絡して」


 わたしが車中から可恋に声を掛けると、彼女は余裕の笑みを浮かべて「ひぃなこそ気をつけてね」と言った。

 わたしを心配させないための悠然とした態度だろう。

 ほかにもいろいろと言いたいことはあったが言葉がうまく出て来ない。


「行くよ」とお父さんに言われわたしは頷いた。


 可恋の姿が見えなくなるまでわたしは手を振った。

 お姉ちゃんが「可恋ちゃんなら平気だよ」と慰めてくれる。

 可恋なら平気だ。

 彼女はこれまでひとりでいることに慣れている。

 慣れ過ぎている。

 それが分かるから、あまりひとりにさせたくなかった。

 どんなに大人びていても彼女はまだ15歳の女の子なのだから。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。毎年春夏冬の長期休暇時に”じいじ”の家に泊まりに行っていた。今春は行けず、夏も難しそう。


日野可恋・・・中学3年生。免疫系の障害を持ち幼い頃から入退院を繰り返した。仕事が忙しい母とふたり暮らしのためひとりでいることには慣れている。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳の誕生日を迎えたが記念のパーティを開けず不満を漏らしている。先週可恋が通う道場に戻ってきた。


日々木華菜・・・高校2年生。平常授業となり、そのペースについて行くのにあくせくしている。

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