第438話 令和2年7月17日(金)「初めての定期テスト」晴海若葉
「どうしたのよ、ひどい顔して」
フラフラと廊下に出ると大きな声で呼び止められた。
今日は一日雨だったが、いまは止んでいる。
また雨が降り出す前にとみんなは急いで帰って行ったのでもう教室の前はほとんどひと気がなかった。
「……コンちゃん」
俯いていたあたしが顔を上げると、小柄な少女がこちらを見ていた。
心配そうというよりしかめっ面で怒っているようにも見えるが、これが彼女の普段の顔だ。
突然自分の目から涙が溢れ出した。
こらえていた感情が暴れ出し、どうしようもなくなったのだ。
「
その言葉であたしは救われた思いがした。
このまま悶々とした気持ちを吐き出さなかったらどうにかなってしまいそうだった。
あたしは今日あった出来事をたどたどしい言葉で語り始めた。
今日は中学生になって初めての定期テストだった。
小学生の頃から成績はパッとしない。
頭が悪いのはしょうがないが、中学生になったのだから少しは真面目に取り組もうとあたしなりにテスト勉強をした。
頑張ったつもりで挑んだ試験は散々な結果だった。
1時間目の国語の問題で頭が真っ白になった。
問題を読んでも頭に入ってこない。
焦る気持ちがどんどん増していく。
すると、あっという間に終了間際になった。
あたしはなんとか解答欄を埋め、ホッとした気持ちで答案を提出した。
しかし、その直後に気づいたのだ。
名前を書いていなかったことに。
もしかしたら書いたかもしれない。
だが、書いた記憶はない。
書かなかった可能性の方が遥かに高い。
休み時間はそんなことが頭の中をグルグルと渦巻き、次の試験への準備ができなかった。
次のテストでは書いた名前を確認することに気を取られ、試験に集中できなかった。
誰かに相談できればよかったのかもしれない。
でも、奏颯もコンちゃんも違うクラスだ。
同じクラスにもダンス部の子はいるがまだ仲良くはない。
ほかのクラスメイトたちも同様だ。
結局、誰にも言うことができずに時間だけがどんどんと過ぎていった。
「こんなことなら頑張るんじゃなかったな……」
きっと試験の結果は最悪で、先生からも親からも叱られるだろう。
頭が悪いあたしなんかが勉強したところでこんなものだ。
あたしはすっかりやる気をなくしていた。
「行こう」
あたしの話を聞いたコンちゃんがそう口を開いた。
そして、あたしの返事を待たずにスタスタと歩き出す。
「え? どこ行くの?」とあたしは首を傾げながらその後を追った。
たどり着いたのはダンス部の部室だった。
部員の数の割には狭い部屋で、1学年の部員が入っただけでぎゅうぎゅうになる。
今日は部活は休みなので誰もいないはずだ。
「失礼します」とコンちゃんは扉をノックするとすぐに開けた。
中にはふたりの先輩がいた。
驚いた顔でこちらを見たが、すぐに「どうしたの?」と笑顔で迎え入れてくれた。
副部長の優しさにあたしはホッとする。
マネージャーが畳んだパイプ椅子を指さしたので、あたしたちは自分で広げてそこに腰を落とした。
説明はコンちゃんがしてくれた。
あたしが言ったことを簡潔にまとめ、「ほっとくとヤバそうだったので連れて来ました」とここに来た理由を述べた。
先輩たちは真剣な顔で話を聞いていた。
話が終わると副部長があたしに向き直り、ニッコリと微笑んだ。
「そっか。大変だったね」
あたしは俯きがちな姿勢のまま頷く。
また泣いてしまいそうだった。
「いいよ、泣いたって」と副部長は自分のハンカチを差し出してくれる。
あたしは借りたハンカチを目にあてがって少しだけ涙を流した。
落ち着くまで見守ってくれた3人に、「もう大丈夫です」と伝える。
ハンカチを目元から離した。
返した方がいいのかなと思ったが、また泣くかもと考えて右手に持って自分の胸元に当てた。
お守りのような安心感があった。
「勉強頑張ったんだね」と副部長が慰めてくれる。
「全然予定通りにはできなかったし、ちゃんと勉強できたかどうか……」と言い訳したのに、「それでもやろうと頑張ったんでしょ? 苦手なことを克服しようとしたんだから凄いことなんだよ」と褒めてくれた。
褒められることが滅多にないあたしはこんな時にどう答えればいいのか分からない。
下を向き、口を閉ざしてしまう。
先輩の視線は感じている。
「名前の書き忘れはちょっと注意されるだけで済むと思うよ」
その言葉にあたしは肩の力が抜けた。
副部長は「同じ失敗をしなかったら大丈夫」と言った。
声に深刻さがなく、大問題だと思っていたあたしの心が軽くなる。
それでも悲惨な点数が返ってくるのは避けようがない。
もういまから取り返すことはできない。
そんなことを考えていると副部長がさらに言葉を続けた。
「わたしもね、中学1年生の最初の定期テストでショックを受けたの。ちゃんと予習復習をしていたし、テスト前の試験勉強も頑張ったのにそれが点数に反映されなくて」
あたしが顔を上げると、副部長は右手を頬に当てて過去を振り返っている。
その姿はとても素敵なお姉さんという感じで、あたしは目が離せなかった。
「その時にね、理科の先生がわたしに言ってくれたの。しっかり頑張って勉強しているって。点数は決して良くなかったのにそんなことを言われて驚いたの」
先輩はその言葉を励みにその後もコツコツと勉強を続けた。
次のテストの時もほんの少し点数が上がっただけなのに「よく頑張った」と褒められ、見てくれている人はいるのだと感じたそうだ。
「そんな風に頑張ったことの結果が出るまでに1年半かかったから、全然自慢できる話じゃないのよ」
先輩は苦笑しているが、あたしは1年半という言葉に驚きを隠せなかった。
同じようにコンちゃんも「1年半ですか……」と呟いている。
「いまならもっとやり方を工夫すれば良かったって分かるんだけどね。でも、頑張ったことは長い目で見たら無駄にはならないのかなって思うの」
先輩のように長期的な視点を持てないあたしは戸惑っていた。
そんなあたしに、「ダンスも同じだよ。才能の差は確かにあるけど、頑張ったことは結果に出ると思うの。そのために、できるだけ正しい頑張り方を身につけようというのが、うちの部のやり方だね」と副部長は説明してくれる。
ダンス部は運動部だからもっとキツい練習があるのかと思っていた。
まだ活動が始まったばかりだけど、普段から練習の量は多くないらしい。
各自、自主練が必要だがそれだって短時間に効率的にやろうという話だった。
「勉強はすぐに結果が出ないかもしれないけど、少しずつやり方を身につけていけば結果はついてくるんじゃないかな。だからいまは、頑張ろうと一歩踏み出した自分を褒めてあげて」
あたしは気が付けば胸元のハンカチを握り締めていた。
それに気づいてあたしは青ざめた。
ハンカチはくしゃくしゃだ。
副部長は「いいよ。気にしないで」と手を差し出したが、あたしは「洗って返します!」と声を上げた。
自分でもびっくりするほど大きな声だった。
先輩は「じゃあ、よろしく」と優しく微笑みかけてくれる。
中学生になったばかりの1年生から見て3年生は大人のようだった。
あたしが2年後に先輩のようになれるなんて夢にも思えない。
だけど。
いままで将来のことなんて漠然とし過ぎてちゃんと考えたことがなかった。
もしもできるのなら、あたしは副部長のような人になりたい。
あたしは生まれて初めてそんな目標を抱いたのだった。
††††† 登場人物紹介 †††††
晴海若葉・・・中学1年生。ダンス部。小学6年生の冬にたまたま公園でダンス部の練習を見学して興味を持った。その時彩花に話し掛けられた。
紺野若葉・・・中学1年生。ダンス部。同じ若葉という名前から「コンちゃん」と呼ばれている。
須賀彩花・・・中学3年生。ダンス部副部長。綾乃と部室の清掃・片付けをする予定だった。
田辺綾乃・・・中学3年生。ダンス部マネージャー。
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