第471話 令和2年8月19日(水)「2学期の始まり」辻あかり
目の前で部長の口から「3年生は運動会を最後に引退する」という言葉が出た途端、足下がグラリと揺れた気がした。
事前に連絡を受けていたことだ。
すでに2年生はそれを想定して動いていた。
それでも、実際に言われてしまうと様々な思いが胸中を交錯した。
猛暑の中、2学期がスタートした。
今日は始業式だけだったが、明日からは授業が再開される。
暑さとコロナ、そして詰め込み授業というウンザリする夏はまだまだ続く。
多目的室を使用したダンス部のミーティングでは今後の予定が改めて示された。
明後日はダンスの発表会が行われ、夏休み中の練習の成果を披露することになる。
9月の運動会は今年は変則的だ。
時間が短縮され、3年生が参加する競技が大幅に減らされるそうだ。
2年生のキャンプは中止になったが、3年生の修学旅行代わりのキャンプが運動会のあとに行われるためだ。
うちの中学で行われる運動会の華は創作ダンスだが、クラス単位で実施するのは1」2年生だけになった。
ダンス部は締めを飾り運動会を盛り上げる大役を任された。。
下級生はクラスのダンスの中心を担うので、部のダンスは3年生がメインとなる。
そして、それを花道にすると部長は告げた。
「大変だろうけど、1、2年生はサポートをよろしく頼む」
そう言って頭を下げた部長の顔はサッパリしていて、引退の辛さは感じられなかった。
前に並ぶほかの3年生からもそうした空気は漂ってこない。
むしろあたしたち2年生の方が動揺が大きく、目を潤ませる部員もいた。
「練習中は15分おきにコップ1杯程度の水分補給を必ずするように。また、汗をかくと塩分が失われるのでそちらも意識して摂取してください」
副部長がいつものように熱中症対策を呼び掛けている。
毎回同じような内容だがみんな真剣な顔で聞いている。
「ひとりでの自主練中だと本当に危険です。命に関わるという意識を常に持ってください。また、自己管理はダンス部のもっとも基本にあたるものです。互いに声を掛け合って意識を高めてください」
ダンス部では技術的な練習は部活時間中に行うが、基礎のトレーニングは自主練で行うことになっている。
それをするしない、どれくらいするのかは個人に任されている。
周りからの声掛けはあっても、しなかったら罰があるという訳ではない。
だが、オーディションで日頃の練習の成果は確認される。
実力主義が部の鉄則なので、オーディションの内容をベースに実力が評価され、発表の場でのポジションなどに影響していく。
副部長の諸注意のあと、あたしが前に立つことになった。
正式に次期部長になると公表されてはいないが、そういう扱いを受けている。
「文化祭についてです。ダンス部は手芸部や生徒会が中心となって行うファッションショーに参加することになっています。モデル役は2年生部員に担当してもらいますが、1年生にもダンスなどで協力を要請することになります。詳細は決まり次第お知らせします」
意外に押しの強い手芸部部長の原田さんに頼まれ、いつの間にかダンス部も全面協力することになってしまった。
昨年のファッションショーでは創部したばかりのダンス部が舞台に上がり、ダンスを見せてアピールした。
部長たちにとってはクラスの出し物だったから協力しただけなのに、なぜか既成事実化してしまった。
正直なところダンス部にとってのメリットがなく、面倒なだけだ。
しかも、生徒会の担当者のことでほのかがカリカリしていて頭が痛い。
あたしのあとはマネージャーや顧問からの連絡や注意があった。
その大半が熱中症対策についてである。
この暑さだ。
自主練中に倒れて救急車を呼んだりしたらダンス部の今後の活動にも影響しそうで怖い。
あとであたしからもダンス部のグループLINEで注意喚起しておこうと思った。
ミーティングが終わり、部長からほかの2年生部員のケアを頼まれた。
1年生はまだ入部して1月半くらいなので3年生との交流も少なく、引退と言われてもあまり身近な問題には感じないだろう。
2年生にとっては1年間指導を受け、憧れ、支えられてきた。
あたしを含め少なからずショックはある。
「気をつけます」と返答し、今後のこともあるので近いうちに2年生部員だけのミーティングを開くことを決めた。
廊下に出て、待っていてくれたほのかに「どうする?」と声を掛ける。
今日の活動はミーティングだけだが、当然自主練はするつもりだ。
ほのかは「夕方から」と答え、あたしは頷いた。
それまでどう過ごそうかと考えていると、ほのかは「少しは勉強しなさいよ」とお母さんみたいなことを言ってくる。
あたしが頬を膨らませ「うるさいなあ」と不満を漏らすと、「部長が赤点取ったら示しがつかないでしょ」とほのかは呆れ顔になった。
「そこまで酷くないよ。……たぶん」
「他人の心配をする前にまずは自分がしっかりしないとね」
「ほのかはいつも心を抉ってくるね」
「これでもマシになったでしょ」とほのかは微笑むが、あたしにとっては十分に致命傷だ。
ほのかと肩を並べて廊下を歩く。
大半の生徒が帰宅したので校内は静かだ。
この時間帯はグラウンドにも人影はない。
「……あたしたちでやっていけるかなあ」
弱気な言葉が口を衝いて出た。
いまだに引退宣言の動揺をあたしは引きずっていた。
「なんとかなるでしょ」と答えたほのかだったが、「そう思わないとやっていけないよね」と彼女も不安を感じているようだった。
この1年、いろいろなことがあった。
笠井先輩のあとを追って、ソフトテニス部を辞めてダンス部に移った。
嬉しかったこと、楽しかったことはたくさんあった。
一方で、辛かったこと、苦しかったことも数多くあった。
ほのかや琥珀にも支えられたけど、部長や副部長ら先輩たちにいっぱいサポートしてもらった。
どれほど感謝しても感謝しきれないほど、いろんなものを与えてもらったと思う。
「…………」
心の中に渦巻くものを言葉にしようとしてもうまく出て来ない。
どんな言葉を選んでもしっくりこない。
どれも違うような気がする。
ほのかが「寂しいな」とポツリと呟いた。
あたしは「……そうだね」と絞り出すように言った。
汗ではないものが頬を伝った。
いつの間にか両の拳をギュッと握っていた。
「……ほのか」
言葉にならない思いが溢れ出しそうで、あたしは足を止めた。
ほのかも足を止め、あたしに向き合った。
怒ったような目つきだが、それは彼女が我慢したりじっと耐えたりしている時の顔だ。
……引退して欲しくない。
口に出してはいけない言葉が頭の中に響き渡った。
あたしはほのかに抱きつく。
堰を切ったように涙が零れ出し、廊下の静寂をあたしの嗚咽が破る。
言葉にしなくてもこの思いはほのかに伝わっただろう。
ほのかの思いもあたしと同じだっただろう。
あたしのすすり泣きをかき消すようにグラウンドから蝉の鳴き声が聞こえてきた。
この世界の中で、蝉の声とほのかの体温だけが存在するすべてのようにあたしは感じていた。
††††† 登場人物紹介 †††††
辻あかり・・・中学2年生。ダンス部。近日中に次期部長と発表される予定。元ソフトテニス部で優奈を慕ってダンス部に移籍した。
秋田ほのか・・・中学2年生。ダンス部。次期エース候補。成績も優秀。ただし口が悪く、コミュニケーション能力はあまり高くない。
島田琥珀・・・中学2年生。ダンス部。塾などで多忙なためダンスの実力は劣るが周りをよく見てコミュニケーション能力も高い。副部長候補。
笠井優奈・・・中学3年生。ダンス部部長。見た目はギャルで自由気ままなように見えるが意外と苦労性。身内に対しては面倒見が良い。
須賀彩花・・・中学3年生。ダンス部副部長。下級生の部員の面倒をよく見ていたのでとても慕われている。
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