第497話 令和2年9月14日(月)「失敗の経験」日々木陽稲
「まだ落ち込んでいるの?」
華やかな黄色地に色鮮やかな赤い花々が描かれた浴衣を着た可恋を見上げる。
彼女のマスクも同じ布地で作られたものだ。
漆黒の髪に飾られた花のかんざしもよく似合っているというのに、睨むような目つきがすべてを台無しにしていた。
「……」と可恋はわたしをチラリと見ただけで何も言わない。
わたしは困ったものだと肩をすくめた。
可恋がこんな様子だから手伝いに来てくれた原田さんたちがずっと怯えている。
ここはキャシーが通う都内のインターナショナルスクールだ。
わたしの周りでは色とりどりの浴衣を着た様々な国籍の少年少女がにこやかに談笑している。
今日はドレスアップデイではないが、そういう文化があるせいかみんな着飾ることに慣れている。
女の子が男物を着ていたりその逆があったりするのはご愛嬌といったところか。
わたしたちは運動会の代休だ。
日本文化を体験してもらうという口実でこの浴衣イベントを企画した。
当然、わたしや可恋、生徒への着付けをしている手芸部のふたりも浴衣姿だ。
わたしも着付けを手伝う予定だったが、主に女の子たちに取り囲まれお喋りの相手をさせられている。
可恋はわたしから片時も離れないので、着付けは完全に原田さんたちに任せることになってしまった。
日本人の生徒もいるので言葉の問題はサポートしてもらっているようだが、かなり大変そうだ。
一方、男の子たちから羨望の眼差しを浴びているのはキャシーだった。
先日一緒に浴衣を買ったはずなのに、なぜか彼女は忍者装束を着ている。
ド派手な赤の蛍光色で、きっと闇夜でももの凄く目立つだろう。
キャシーは得意満面になって男の子たちのリクエストに応じてポーズを取っていた。
そんなキャシーはほっとくとして、問題は可恋だ。
護衛役としては申し分ないが、あまり空気を読みそうにないインターナショナルスクールの生徒たちですら引き気味になっている。
『いったいどうしたのよ?』
顔なじみであるシャロンが声を潜めてわたしに尋ねた。
わたしは頬に手を当て『昨日の運動会で……』と説明を始めた。
3年生になってまったく登校していない可恋が当然の顔で昨日の運動会に参加した。
屋外だから感染リスクが低いと言うが、もちろん目的はクラス対抗リレーに出場して勝つことである。
昨年2位だったことをずっと気にしていた。
今年はメンバにも恵まれている。
わざわざ事前練習を行うほど力が入っていた。
運動会の掉尾を飾るように行われたクラス対抗リレー。
そこでまさかのミスが起きた。
2走の可恋は僅差の4番手でバトンを受けると、長いストライドを生かして一気にほかのランナーをごぼう抜きにした。
その疾走する様は惚れ直すほど格好良かったが、事件は3走へのバトンパスで起きた。
確実に渡せば問題なかったのにスピードを保ったままパスしようとして3走の麓さんとぶつかりそうになったのだ。
バトンはこぼれ落ちてしまった。
ほかのランナーが駆け抜けていく中、麓さんがそれを急いで拾い、前との差を詰めていった。
アンカーは陸上部のエース都古ちゃんだ。
ほかのクラスのアンカーも陸上部の選手が多かったが、都古ちゃんは圧巻の走りを見せた。
大歓声の中を大逆転でゴールを切り、高々と手を挙げてみせた。
わたしも飛び上がって喜んでいたが、その直後に審判を務める陸上部の顧問の先生から失格と言い渡された。
なんでも、バトンパスが完了する前に落とした場合前のランナーが拾わなければならなかったそうだ。
可恋はそのルールを知っていた。
失格の判定にも素直に従った。
バトンを落とした時に自分で拾おうとしたが、落ちた位置が麓さんに近く、彼女の反射神経の方が勝ったそうだ。
リレーの練習の際にルールも伝えていたが、1回言っただけだった。
焦った麓さんがそれを失念しても仕方がないと可恋は彼女を責めなかった。
ルールを伝える時に実際に落とした状況を作って体験させていればと可恋は悔やんでいた。
わたしからすれば、中学校の運動会にそんな細かな規則を持ち込まなくてもと思うのだが、可恋はルールあってのスポーツだと納得している。
だったら、気持ちを切り替えて欲しいと願うのだが、可恋はそれに苦戦していた。
リレー以降、顔は笑っていても目が笑っていない状況が続いている。
都古ちゃんは「気にすることないぞ」と自分の走りに満足していたが、ほかのクラスメイトは可恋に声を掛けることが憚られる様相だった。
わたしが一晩慰めたものの、今日もこの調子である。
「頭では分かっているのよ。これではいけないって」
可恋は本来感情の起伏が激しい。
それを驚異的な精神力で押さえ込んできた。
それは可恋の強さではあるが、危うさのようにも見える。
だから、わたしは彼女の弱さを受け止められるようになりたいと思っていた。
だが、それが口で言うほど簡単なことではないといまの可恋を見ているとよく分かる。
こんな些細なことさえ失敗を許せないという完璧主義。
可恋はわたし以上にその問題点を分析しているだろう。
わたしが何を言っても彼女にとっては分かりきったことであり、それでもなお制御できない感情と向き合っているのだ。
『面倒くさいわね』とわたしの説明を聞き終えたシャロンが怒った顔で言う。
『時間が解決してくれると思うの』
可恋は不機嫌そうなオーラを纏うだけで、ほかへの影響はあまりなさそうだった。
普段は家に引き籠もっているので、時間が経つのを待てばいい。
彼女のことだから乗り越えられるはずだし、わたしは隣りで励まし続けるつもりだ。
『キャシーの単純さを見習ったら』と言うシャロンにわたしは苦笑するほかない。
わたしたちの会話を横でしっかり聞いていた可恋は『失敗の経験が足りないのよ』とポツリと言った。
普通の人には嫌味たらしく聞こえかねないが、『私はできないことが多く、できることしかやってこなかったから』という言葉と合わせると彼女の意図が伝わってくる。
可恋は体質的な問題からいろいろなことを諦めてきた。
体力がついてできるようになってから挑んだことも多かった。
小さい頃にやれるかどうか分からない状態でぶつかっていった経験が圧倒的に足りない。
わたしたちが子どもの頃に積み重ねてきた普通の失敗をほとんど経験していないのだ。
『失敗を恐れないキャシーを羨ましく思うことはあるけど、こればかりはもう魂に刻まれたものかもしれないわね』
そう言って可恋はキャシーを見た。
わたしも失敗を恐れる性質なので、キャシーの明るさとへこたれない強さに憧れることもある。
でも、キャシーのようにはなれないよね。
可恋の視線に気づいたキャシーが男子をゾロゾロと引き連れてやって来た。
ただでさえ教室内は密集状態なのにさらにわたしたちの周辺の密度が高まった。
『キャシー、勝負しよう』と突然可恋が言った。
すぐさまキャシーが目を輝かす。
満面の笑みで『いまからでもいいぞ!』なんて言い出した。
『近いうちに連絡するよ。正式な空手の組み手のルールで戦おう』
『絶対に勝つぞ!』と気勢を上げるキャシーに、可恋は『キャシーが勝ったら忍術を教えてあげるよ』と言ってさらに相手のモチベーションを高めた。
わたしは「大丈夫なの?」と日本語で聞いてしまう。
可恋は「やってみないと分からない」と淡々と答えた。
負ける気だろうかと心配するわたしに、「負けを払拭するには互角の相手に勝つのが良いかもしれないから」と可恋は言った。
その不敵な笑みに浮上の兆しを感じたわたしは「絶対勝って!」と応援する。
それが可恋の求める言葉だと気づいたから。
可恋はわたしの目を見つめ、自信ありげに頷いた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学3年生。彼女の浴衣はほんのり青みがかった白の布地に草木の紋様が彩られている。晩夏のもの悲しさが漂うが、小物類は赤や黄の秋を感じさせるもので揃え、全体としては秋の気配を楽しむというコーディネートになっている。
なお、気温が下がり浴衣の季節外れ感が強まったが、「いまの日本は暑すぎるのよ。本来の夏はこんなものなのよ!」と彼女は力説していた。
日野可恋・・・中学3年生。万全の準備をしたはずなのに準備不足が露呈してしまったことに憤りを感じている。慢心がもたらす失策を確実に防ぐ手立てが思いつかないことにも苛立ちがある。
なお、地味な色合いの浴衣を選んでいたのに陽稲に強引にこの浴衣に変更された。ファッションにおける彼女の突破力をかわす方法の開発も喫緊の課題だ。
キャシー・フランクリン・・・G8。『負けることを考えるより勝つまで戦えば良い』
シャロン・アトウォーター・・・G9。キャシーが留年したためクラスは別になったが可恋にお願いされて何かとキャシーの面倒を見ている。あくまで可恋にお願いされたからと言い張っている。
原田朱雀・・・中学2年生。異世界体験第2弾。今回は親友の鳥居千種と一緒。着付けの作業に追われて緊張する暇もない。
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