第481話 令和2年8月29日(土)「首相の辞意表明」日野可恋

「ひぃなは前の首相を覚えてる?」


 私の質問に「えーっと……確か、政権交代があったんだよね……」と少し悩んでから彼女は正しい名前を挙げた。

 昨日現職の総理大臣が辞意を表明した。

 その在任期間は8年近く。

 私やひぃなが小学校に入学した頃から政権を担当していたという計算になる。


 午後、ひぃなの勉強が一段落したのを見計らって私はティーセットを用意した。

 私は自宅のマンションからほとんど出ない生活を続けているが、それなりに忙しい。

 貴重な休憩のひとときに相応しい話題ではないと思うものの、教科書を覚えることだけが勉強ではない。


「歴代総理の名前って覚えにくいよね」と話す彼女の口振りから、現首相を除くこれまでの首相は過去の歴史という認識なのだと感じる。


 私も伊藤博文から続く歴代内閣総理大臣の名前を丸暗記したことがある。

 中学生にとって政治が身近に感じられないこともあって、それが現在の生活と直結するというイメージは湧かない。

 資産運用のための投資を行ったり、NPO法人を運営していたりと社会や経済の問題を注視している私ですらそうなのだから、普通の中学生なら関心が薄くて当然だ。


「F-SASは文科省やスポーツ庁と繋がりが深いからトップが変わるとどう影響するのか注意が必要かな」と私は呟いた。


 昨年秋に設立し今年4月から法人化したNPOのF-SASは学生の女性アスリートを支援するための団体だ。

 企業のサポートを受けているが、国との連携も不可欠だった。

 新型コロナウイルスの影響で各学校の運動系部活にスタッフを派遣して啓蒙する活動はスタートしていないが、この試みは国や地方自治体との密接な関係がなければ成立しない。

 教員の過重労働の問題とも絡んで部活動のあり方も議論されている。

 そうした変化にも積極的に関与していく方針だ。


 また、こういう状況だからスポーツの意義が問い直されようとしている。

 スポーツが人々に希望を与える一方、リスクも抱えている。

 ヨーロッパでの感染拡大は国境を越えたサッカー観戦やスキーツアーが引き金になったと考えられている。

 そして、トップアスリートのためのスポーツだけではなく、誰もが気軽に楽しめるスポーツの更なる普及が今こそ必要だ。

 適度な運動は心身に良い影響を及ぼす。

 ウィズコロナの時代に相応しいスポーツのあり方が問われている。


「F-SASの活動範囲は女性アスリートの健康を守り、セクハラなどに法律で対応し、学校改革を応援し、スポーツ振興に努め、その上で競技力の向上を目指す」


 私は改めて自分が代表を務めるNPO法人の目的を列挙する。

 紅茶を口に運んでから、リビングのソファに座り私を見つめるひぃなに更に説明を続ける。


「つまり、厚労省、法務省、文科省、経産省、スポーツ庁案件。ほかにも内閣府や総務省とも関係がある。社会でこういう活動をするには行政や政治と繋がらないと効率が悪いの」


 とはいえ行政を動かすのは容易ではない。

 お役所仕事という言葉があるように行政は効率化されていない上、優先度が低いものは常に後回しにされてしまう。

 優先度を高めるために賄賂が横行するというのも納得だ。

 私たちは非営利なのでそこまではしないが、かなりの数の政治家にお願いをした。

 母の知り合いは野党系の政治家が多いので、私は支援企業やスポーツ界との繋がりを利用して与党系の政治家と接触した。

 実際に行動してくれたのは桜庭さんだ。

 行動力があり語学に堪能な彼女は、面識を得た政治家の一部から最近重宝されているらしい。


「大変なんだね」と感心するひぃなに「新しい内閣になれば各省庁のトップが変わるからね。同じ与党政権だから政策の変化はわずかだろうけど、それでもいろいろなところに影響は出るんじゃないかな」と私は予測を述べた。


 F-SASは表面上はうまく活動できているが、先ほど挙げた各学校へのスタッフ派遣の問題をどうするかが難題だった。

 本格的に始動するならスタッフの拡充が必要となる。

 学生相手ということもあってそのスタッフの資質はかなり重要だ。

 スポーツやトレーニングについてF-SASの理念に沿った指導ができること、学生相手に自分の考えを押しつけるのではなくサポートに徹すること、最低限の医学的法律的知識を持つことなどが挙げられる。

 資格はスポーツ指導者などすでに様々なものがある。

 休校期間中にF-SAS用に特化したマニュアルは作ったので、あとは人材募集と育成だ。

 だが、雇ったものの仕事がないという事態は避けなければならない。

 運営のコストの中でもっとも大きく、かつ減らしにくいのが人件費だ。

 大学で経営学を学ぶ予定のリサから助言をもらいながらNPO法人の指揮を執っているが、NPO法人ならではの制約もあって悩みの種は尽きない。


 それはさておき。

 今回の辞任劇でもうひとつ影響を受けそうなことがあった。

 それを口にするかどうか迷ったが、いつかはひぃなにも話すことだと思い私は口を開いた。


「臨玲のいまの生徒会長は官房長官の娘なのよ」


 ひぃなは驚いて目を丸くしている。

 私はそのリアクションの良さに微笑みを浮かべて話を続ける。


「臨玲の生徒会はもともと自治の気風があったそうだけど、前学園長から数々の特権を与えられてかなりの権限を持つようになったらしいの。親が有力者という生徒が学園長の黙認の下で学園を牛耳っていたという訳ね」


 まるでフィクションのようだが、私立の学校というのは外部の目が届きにくいのでこうこうことが起きやすいようだ。

 臨玲は超がつくほどのお嬢様学校で、寄付金の額や親の知名度で生徒に序列ができるとまで言われている。


「理事長派として入学する私たちにとって、現生徒会長はラスボスみたいな存在よ」


 実際はともかく、目に見える敵としては分かりやすいターゲットだ。

 彼女を倒すことが入学してからの当面の目標となるだろう。


「勝てそう?」とひぃなは不安そうに尋ねる。


「いまの官房長官が次の首相になるかもなんて声もあるね。そうなってくれたら戦いやすいんだけど」と私は笑った。


「そうなの?」


「身内のスキャンダルは政治生命に大きな打撃となるからね。とはいえ、相手の能力次第だから油断は禁物」


 生徒会を私物化しているのは事実のようだが、スキャンダルと呼べるほどのことをやっていたら既に表面化していてもおかしくない。

 本人やその周囲がどれだけ頭が働くのかは外部からではつかみにくい。


「わたしにできることがあったら言ってね」


 自分のせいで臨玲に行くことになったのに、学校のトラブルの解決をすべて私にやってもらっているという負い目が彼女にはあるのだろう。

 私自身が選んだことなので気にする必要はないと伝えているが、ひぃなの気持ちは理解できる。


「ひぃなにはひぃなにしかできないことがある。やってもらうことはたくさんあるよ」


 情報収集は多くの人に協力してもらっている。

 それを分析するのがいまの私の役割だ。

 ここまではひぃなの力は必要ない。

 しかし、入学後は彼女の能力に頼る場面は必ず出て来る。


「だから、いまは自分の成長を最優先にして欲しい」


 ひぃなは決意の光を瞳に浮かべて力強く頷いた。

 これから学校行事が続く。

 学級委員としてそれらに積極的に関わる中で経験を積めばいい。

 私が昨年それで成長したように、ひぃなもきっと成長できるだろう。


「私の真似をするんじゃなく、ひぃな自身の能力を磨いて欲しい」




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学3年生。NPO法人F-SAS代表のひとり。多数の大手企業から寄付を募り、スタッフを出向してもらった。著名な大学教授である母親の名前で信用を得る傍ら、桜庭とともに各省庁や各種スポーツ団体に協力を呼び掛けている。


日々木陽稲・・・中学3年生。可恋と同居中。一代で財を築いた祖父との約束で臨玲に進学予定。


桜庭・・・女性実業家。アジア圏を舞台に雑貨の流通が主たる業務だが、フットワークの軽さを生かして様々な事業を展開している。F-SAS創立に関与し、さらに事業の幅を拡大させている。

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