第370話 令和2年5月10日(日)「母の日」晴海若葉

 中学校に入学して1ヶ月以上が経つというのに制服の袖を通したのはたった1回だけ。

 冬服はもう着ないまま夏を迎えてしまいそうだ。


 今日は日曜日なのに、ずっとお休みが続いているので日曜という実感が湧かない。

 お父さんはトラックの運転手なので、決まった曜日で休めない。

 お母さんは働いているお店が休業中でずっと家にいる。

 だから余計に曜日の感覚がなくなっていた。


「お腹空いた」と居間でテレビを見ているお母さんに声を掛けると、「自分で買ってきな」と500円玉を1枚渡された。


 お昼近くに起き出したあたしはまだ髪がボサボサなままだ。

 洗面台に行きブラシをかける。

 中学生になったので髪を伸ばそうと思っている。

 でも、くせっ毛なのでちょっとやそっとブラッシングをしてもまとまらない。

 あたしは溜息をついて途中で投げ出した。

 お気に入りの黄色いベースボールキャップをかぶって誤魔化すことにする。


「マスク使っていい?」と出掛ける前に尋ねる。


「コンビニまでならいらないでしょ」とお母さんはこちらを見ずに答えた。


 ようやく買えるようになった使い捨てマスクだけど、前よりもかなり高いそうだ。

 だから、お母さんからは勝手に使うなと言われている。

 あたしもちょっとそこまで行くだけだから必要ないと思う。

 ただ最近ニキビが気になるのでマスクで隠したい気持ちがあった。


 外はどんよりとした曇り空だった。

 部屋着である薄手のスウェットの上下だけで十分な気温だ。

 あたしは誰にも会わないといいなと思いながら、足早にコンビニに向かった。


「温めますか?」とボソッと聞かれ、あたしは頷く。


 レジは透明なシートで隔てられているが、若い男性店員さんはマスクをしていないあたしをキツい目で見た。

 買ったのはお弁当と飲み物。

 お菓子も欲しかったのにお金が足りなかった。


「あ、若葉ちゃん」とコンビニを出たところで声を掛けられた。


 白いオシャレなワンピース姿の少女がこちらに近づいてくる。

 口元は凝ったデザインの布製マスクで覆われていた。


「あっちゃん、久しぶりだね」とあたしは返事をする。


 いちばん会いたくない相手だっただけに、ちゃんと笑顔ができたか不安だ。

 彼女はあたしの”元”親友である。

 何年か前までは本当にいつも一緒だった。

 どちらかと言えば彼女の方があたしの後を追い掛けていた。


「新しい中学はどう?」とあっちゃんが2メートルくらい離れたところで立ち止まり、あたしに質問した。


 彼女は私立を受験して合格した。

 あっちゃんは高学年になった頃から塾通いで忙しくなり、少しずつ疎遠になった。


「ずっと休校だからね」とあたしが答えると、「うちも。私立なのにオンライン授業してくれないってママが怒っちゃって」とあっちゃんは顔をしかめた。


「勉強しろってうるさいのよ。しばらくは塾に行かなくていいって約束だったのに、オンライン授業をやっているところに入れさせられたし……」


「そうなんだ」


 うちも勉強しろと口やかましいが、それだけだ。

 塾に行けとは言われないし、勉強で分からないところを聞いたって邪魔くさそうに自分で調べろと返されるだけ。


 なおも母親への愚痴を零すあっちゃんに、「可愛い服だね。どこか行くの?」と言って話を変える。

 あたしだってオシャレに興味がない訳じゃない。

 小学校でもオシャレに興味がある子はちょっとした小物などの持ち物でアピールしていた。

 あたしはそれを羨ましく見ているだけだった。


「ちょっと、そこまでね」と微笑んだあっちゃんは、「今日って母の日じゃない。だから、カーネーションとプレゼントを買おうと思っているの」と言葉を続けた。


 すっかり忘れていた。

 そうか、今日は母の日なんだ。


「若葉ちゃんも一緒に買いに行かない?」


 きっとあっちゃんは純粋な好意で言ってくれたんだろう。

 だけど、みすぼらしい部屋着のままで彼女の隣りを歩くことはできなかった。

 それに何よりお金がない。


「お金、持って来てないから」と首を振ると、「取りに行って来たら? せっかく会ったんだし待つよ」とあっちゃんは言った。


「待たせるの、悪いし」とあたしは断る。


 家に帰ってお小遣いをかき集めたらカーネーションの1本くらいは買えるだろうが、着替えるのに時間が掛かってしまうだろう。

 あっちゃんは人恋しいといった顔で「えー、残念だなあ」と口にする。

 あたしは何も持っていない右手で頭をかきながら「また、今度ね」と別れの挨拶をした。


 お互い手を振ったあと、あたしは彼女を見送った。

 姿が見えなくなって、ふーっと深いため息をついた。

 温めてもらったお弁当はすっかり冷めてしまっただろう。

 あたしは肩を落とし歩き出した。


「遅かったね」と居間に戻るとお母さんから言われた。


「友だちと会ったから」と答えると、お母さんは再びテレビに視線を向けた。


 あたしはお弁当が入ったビニール袋をテーブルに置き、洗面台に向かう。

 戻って来ると、お母さんがビニール袋の中をのぞき込んでいた。


「それ、食べる? ちょっと冷めたけど……」と言うと、お母さんはこちらを向いた。


「優しいじゃない」と笑ったお母さんはお弁当を自分の前に引き寄せると、財布から千円札を出してあたしにくれた。


 あたしはその千円札を手に自分の部屋に戻る。

 タンスを開けて著ていく服をどうするか考える。

 あっちゃんのようなオシャレな服は持っていないし、そもそも似合わない。

 長袖のTシャツにパーカー、ショートパンツというカジュアルな格好を選択し、改めて髪を丁寧にブラッシングしてから部屋を出た。


 去年はどこで買ったっけ……と思いながら、先程のコンビニとは別の方向へ歩き始める。

 空の色はさっきと変わらないのに、明るく感じられた。


「お腹減ったなあ」と呟きながら、あたしは軽快に歩を進めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


晴海若葉・・・中学1年生。今年1月に公園で中学のダンス部の練習を見て、入学後はダンス部に入りたいと思っている。

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