第371話 令和2年5月11日(月)「休校中の日々」麓たか良
オンラインホームルームが終わり、ワタシは出掛ける支度をする。
ホームルームで日野が「今日は暑くなるから熱中症に気をつけるように」と注意をしていた。
まだ朝なのにもう暑いと感じるほどだ。
派手なプリントTシャツに迷彩柄のハーフパンツを着る。
サンダルではなくスニーカーをはいて家を出る。
道場までは歩いて10分くらいだ。
しかし、ロードワークと称して30分程度走って行くことにしている。
もっと早い時間はジョギングするランナーが多い。
通勤時間帯を過ぎたこの時間ならそういった人とすれ違うことは少なかった。
外は昨日とは打って変わって快晴で、気温はグングン上がっているように感じる。
マスク姿の通行人はみんな暑苦しそうだ。
あまりの暑さにワタシは途中の自販機でスポーツドリンクを買い、それをゴクゴクと喉に流し込んだ。
すっかりと通い慣れた道場の通用口から中に入り、まっすく更衣室に向かう。
シャワーを浴びたいほど汗をかいた。
Tシャツはぐっしょりと濡れ、肌に張り付いて気持ちが悪かった。
それを無地のシャツとパンツに着替え、グローブなど道具一式を手に持って稽古場に行く。
すでにキャシーとハルカが身体を動かしていた。
キャシーは英語で何か挨拶してきた。
意味は分からないが、ワタシは軽く手を挙げてそれに応える。
午前中は実戦練習、午後は筋トレなど器具を使ったトレーニングというメニューだ。
最初は午前だけだったが、三谷先生からどうせヒマでしょと言われ、午後もキャシーの稽古につき合うようになった。
毎日くたくたになるほどのキツい練習だが、他にやることもないし、強くなる実感が湧くのが良い。
三谷先生は口出すことはほとんどなく、初心者のハルカに基本を教えるのみだ。
ボクシングは専門外だからとワタシの自主性に任せてくれるのがありがたかった。
その三谷先生が稽古場に現れるとスパーリングの開始だ。
ほとんど真剣勝負。
……と言いたいところだが、ワタシは全力で攻撃するのにキャシーは寸止めとなる。
寸止めと言ってもコンタクトはあるし、毎日身体のあちこちに打ち身を作っているが、それでもハンディがあるのは間違いない。
日野に言わせるとこれだけの体格差があるのだからハンディのうちに入らないそうだが……。
実際、キャシーは見上げるような巨体だ。
身長差30センチは優にある。
手足は長く、黒人特有のバネがあり、運動神経の塊のような奴だ。
まともに戦って勝てると思ったことは一度もない。
その相手に尻餅をつかせた。
日野から受けたアドバイスは考えて戦えということだった。
キャシーは覚えたばかりのフェイントを日野に見せようとガンガン使ってくるはずだ。
ワタシは捨て身とも言える戦い方をして、一気に優位を築いた。
これまでのスパーリングを通して彼女のクセは分かっていた。
それを有効活用できていなかったのに、この日はうまくできた。
たぶんキャシーが焦っていたからだろう。
いくつもの幸運が重なっての勝利にワタシはジワジワと喜びがこみ上げた。
ハンディがあろうとなかろうと、いままでできなかったことができたのだ。
無理だろうと思っていたことが成し遂げられた。
まさに山が動いた。
「ボクシング、続ける気になった?」とあのあと日野に声を掛けられた。
「別に」と素っ気なく答えたが、続ける気がなければいくらヒマでもキャシーの相手なんてやっていられない。
それを見透かしたように日野は「勉強する気がないのならボクシングで世界を目指しなさいよ。男子のようには稼げないけど、選手の数が少ないのだからチャンスはあるわ」と煽った。
顔をしかめて聞いていると、「ダメだったら不良に戻ればいいじゃない」なんて気楽なことを言う。
そんな簡単に行くかと思うが、「失うものなんてたいしてないじゃない」と日野は相変わらず上から目線でワタシをけしかける。
三谷先生の「始め」の声で現実に引き戻される。
あの日以来キャシーの目の色が変わった。
ワタシに対して日野と戦う時のように全力で挑んでくるようになった。
練習も鬼気迫るものがある。
一瞬でも油断するとそれで勝負のケリがついてしまう。
フットワークで相手の攻撃を躱し、反撃の機会をうかがう。
キャシーの鉈のようなドスンと振り回される蹴りは、軽く触れただけで小柄なワタシを数メートル吹き飛ばす。
近づけば巨体からの圧力が凄まじいが、離れていては攻撃が届かない。
ヒットアンドアウェイが通用するのは鈍い相手だけだ。
対キャシーで必要なものは踏み込む勇気だった。
肩で息をしながら床にへたり込んだ。
キャシーは続けざまにハルカと対戦しているが、ワタシは1ラウンド3分も戦っていられない。
それほど全力を出さなければ彼女の相手が務まらないのだ。
ハルカはガムシャラに向かって行くが攻撃は避けられ軽く身体がぶつかるだけで吹っ飛んでいた。
それでも立ち上がり挑んでいく根性だけはたいしたものだ。
だが、1分持たずに立ち上がれなくなった。
ワタシは2ラウンド目と気合を込めて立ち上がる。
ほとんど攻撃を受けていないキャシーはまだまだ余裕がある。
観察し、相手の意図を読み、わずかなチャンスを狙う。
ただ戦うこと、勝つことだけに意識を集中させる。
あとは自分の思い描く通りに身体が動いてくれればいいのだが、それが難しい。
疲労が溜まれば頭も身体も動かなくなる。
気合だけでは通用しない世界だ。
なんでこんなに歯を食いしばって戦っているのか、そう思うこともある。
1年前のワタシなら鼻で笑っていただろう。
午前の練習が終わるとシャワーを浴びて昼食だ。
野菜炒めやカレーなど出される料理はシンプルだがボリュームは桁外れだ。
それを3人でがっつくように胃袋に収めていく。
この食費の半分を日野が出してくれている。
出世払いで返してくれたらいいと言いつつ、オンラインホームルームへの出席が交換条件となった。
飯を食ったあとキャシーとハルカは畳の上で雑魚寝している。
ワタシもうとうとしていると、三谷先生が顔を出した。
ワタシが起きていることに気づくと手招きした。
疲労が抜け切っていない重い身体を起こして立ち上がる。
「暑いでしょ。扇風機を出すから」と広間の隣りの倉庫のような部屋に連れて行かれた。
そこには年季の入った扇風機が置かれていた。
うちの家にある奴も古いがそれ以上かもしれない。
それを持ち上げて運びながら、ワタシは三谷先生に尋ねた。
「前に世界チャンピオンを狙えるって言ってくれたじゃないスか。アレって本気なんスか?」
先生は日野のような悪い笑みを浮かべてワタシを見た。
バカにした表情ではなく、してやったりという顔だ。
「本気よ。成功する人って出逢いに恵まれているの。その幸運をつかんで離さなければ夢は叶うわ」
出逢い。
先生は名前こそ出さなかったが、日野のことを言っているのは分かる。
もの凄く癪に障る話だが、本気でボクシングを続けていくのなら彼女の助けは強力な武器になる。
そんな想いが顔に出たのだろう。
先生は笑って、「別に仲良くする必要はない。お互い利用し合うような関係だってそれが互いの利益に繋がるならそれでいいじゃない」と話した。
大人たちが言うきれい事ではなく、ストンと腑に落ちる言葉だった。
そうだよな。
最初は従う振りをしつつ逆に利用してやるって思っていたのに、いつの間にか振り回されてばかりになっていた。
ワタシだって利用すればいいんだ。
少し肩の力が抜けて、ワタシはニヤリと笑った。
††††† 登場人物紹介 †††††
麓たか良・・・中学3年生。昨夏からボクシングジムに通っている。一度は辞めようとしたが続けることに。
キャシー・フランクリン・・・G8、14歳。昨夏来日して空手を始めた。家族と可恋の間で、とある話が進んでいる。
小西遥・・・中学2年生。たか良と顔なじみの不良。三谷先生からは筋が良いと褒められている。
日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。1年前に麓を返り討ちにしてからこき使っている。
三谷早紀子・・・空手道場の師範代。アメリカ時代に身につけた豪快な料理が得意。
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