第64話 令和元年7月9日(火)「前へ進む」藤原みどり

 先々週の金曜日。

 体力の無さを痛感した。

 まだ20代だというのに。

 曲がりなりにもソフトテニス部の顧問だというのに。

 これ以上みっともない姿をさらけ出すことはできない。

 一念発起して、私はその翌日に家の近くのスポーツジムに入会を申し込んだ。


 家庭訪問で短縮授業となった先週、副担任の私は時間的余裕があるはずだった。

 ところが、谷先生の一件が明るみに出て、私も雑用に駆り出された。

 登下校時の通学路の見回りが主な役割だった。

 報道陣は無茶な行動をすることなく、おとなしくこちらの指示に従ってくれた。

 むしろ一緒に見回りをする保護者からの探りを入れるような質問への対処が大変だった。


 保護者の気持ちは分かる。

 テレビで盛んに報道されているが、学校からの説明はかなり控えめだ。

 生徒が関わる事案だけに、保護者説明会でも詳しく語られなかった。

 保護者から表立って学校側の対応を非難する声は出ていないが、不満を感じている人は少なからずいる。


 私のように若い教師は与しやすいと思われがちなので、一部の保護者からはかなり圧を受けた。

 誤魔化すというと言葉は悪いが、私が副担任を務めているクラスの生徒が深く関わっているだけに情報を漏らさないようにするのは大変だった。

 事前に小野田先生や田村先生からも釘を刺されていた。

 それ以上に日野さんから「絶対に言わないでくださいね」と迫られた笑顔が脳裏に焼き付いて、口を割らずに済んだ。


 週が明けて、報道陣はほとんどいなくなった。

 通学路の巡回はPTAに任せ、教師は校門前の警備を交代で担当することになった。

 昨日の下校時に私は門の前に立っていたが、問題も起きず、生徒たちへの挨拶や注意に追われるだけだった。




「素晴らしいです」


 今日の放課後はファッションショーのための練習だ。

 2年1組の麓さんを除く女子全員が集まり、筋トレとウォーキングを行う。

 先週は放課後に残れなかったので久しぶりの練習となる。

 ジムの成果がすぐに発揮されると思っていなかったのに、私のスクワットを見て日野さんが褒めてくれた。


「姿勢がとても良くなっています」


「……ありがとう」


 生徒に褒められて喜ぶのもどうかと思う。

 しかし、相手は空手の有段者でトレーニングについてとても詳しい。

 ジムのインストラクターからも日野さんの筋トレのやり方は評価されていた。


「専門家から指導を受けましたか?」


「たまたま、スポーツジムに入ったから、そこでね」


「いいですね、どんなトレーニングをやっているんですか?」


 普段の澄ました表情ではなく、かなり興味深そうに聞いてくる。

 私の説明に、今度はどんなトレーニングマシンがあるかなど細かなことを質問された。

 こうしていると、普通の中学生に見える。


「可恋、ストレッチするんでしょ」


 あまりに私との会話に熱中していて日々木さんから注意を受けるという珍しい光景を見ることができた。

 我に返った日野さんは、いつもの態度に戻り、残りのメニューを順調にこなした。


「気を付けて帰りなさい」


 後片付けを終え、生徒たちを教室から送り出す。

 和気あいあいの雰囲気で生徒たちが家路につく。

 いろいろあった1学期だけど、クラスの雰囲気は良い感じだ。




 職員室に戻ると桑名先生から声を掛けられた。

 3年生の学年主任で、これまで私とはあまり接点のなかった人だ。

 ざっくばらんの性格で、生徒から人気の女性体育教師である。


「藤原先生は3年目だよね?」


「はい」


「自信はついた?」


「自信、ですか。そうですね、授業運営に関してはかなり成長したと感じています」


「そう。それは素晴らしいわね。他は?」


 いったい何の面接だろう。


「生徒指導に関しては自分の未熟を感じることがあります」


「私も生徒指導は悩むことが多いよ。生徒はひとりひとりまったく違うし、わずかな時間で急激に成長することもある。それでも私たち教師は生徒たちをしっかり理解してあげないといけないからね」


 桑名先生は40代だったはずだ。

 生徒指導に定評があるだけに、その言葉に重みを感じた。


「藤原先生は教師として悩みはある?」


 そう尋ねられて、頭に浮かんだのは日野さんの顔だ。

 苦手意識というか、彼女に振り回されてばかりのような気がする。

 しかし、こちらから強く言っても意に介する素振りもない。

 それを桑名先生に話していいものかどうか……。


「そうそう、日野さんって藤原先生のクラスの子だよね?」


 悩んでいるうちに突然話が変わって驚いた。

 しかも、悩んでいる当人の話で驚きがかなり顔に出てしまった。


「あ、はい……」


「この前、文化祭のことでちょっと話してね。なかなか面白い子じゃない」


「はあ……」


 私はただ頷くことしかできない。


「そうだね……、手に負えない子はひとりで抱え込まないことが基本なんだけどね。今は小野田先生や田村先生がサポートしてくれる。来年度のことを考えたら、彼女とどんどんやり合ってみるといいかもしれないね」


「来年度ですか?」


「小野田先生も田村先生も来年はこの学校を去る予定だ。となると、彼女の担任の第一候補は君だよ」


「え! 私ですか?」


「この学校の教師の中で彼女をいちばん良く知るのは君になるよ」


 小野田先生がいなくなれば、私が日野さんをもっとも良く知る教師になるのは間違いない。

 そして、来年度のクラス編成は日野さんに主眼を置くことになるだろう。

 麓さんのようなタイプの問題児ではないが、教師が制御しにくい優秀な生徒というのは対応が難しい。


「桑名先生は?」


 一縷の希望に縋るような気持ちで尋ねた。


「私もそろそろ転任のタイミングなんだけど、あのふたりのベテラン教師が揃ってこの学校を去るとなればあと1、2年はいることになりそうだね。私も当然候補にはなるよ。でも、彼女をよく知る君がチャレンジした方が良いと思うんだ」


「チャレンジですか」


 私としては一歩一歩堅実に進んでいきたいんだけど……。


「……頑張ります」


 さすがに無理ですと逃げ出すわけにはいかない。

 桑名先生は私の肩を励ますように叩いてくれた。


「そうだ。忠告をひとつ」


 そう言って桑名先生が人差し指を立てた。


「驚いた時に驚いた顔をしない方がいい。感情を出すことは構わない。しかし、教師は生徒の前では自分で感情をコントロールしないとね」


「……肝に銘じます」


 ベテランの教師は生徒の前ではどう見られているか非常に意識している。

 私はまだまだそこが甘い。

 気を付けているつもりだが、できているとは言い難い。

 小野田先生や田村先生の域は無理でも、せめて日野さんには負けないようにしないと。


 私は立ち去る桑名先生の後ろ姿に深々と一礼した。




††††† 登場人物紹介 †††††


藤原みどり・・・2年1組副担任。国語担当。ソフトテニス部顧問のひとりだがスポーツは得意ではない。


小野田真由美・・・2年1組担任。理科担当。いつも白衣のイメージ。50代。


田村恵子・・・2年の学年主任。国語担当。生徒の前では気の良いおばちゃんを演じている。50代。


桑名加代子・・・3年の学年主任。体育担当。バレー部顧問。40代。


谷ほのか・・・元音楽教師。売春斡旋等により逮捕起訴された。20代。


日野可恋・・・2年1組学級委員。趣味は読書と空手。ついにトレーニングマシンの購入に踏み切った模様。


日々木陽稲・・・今日は可恋にツッコミを入れたと日記に記した。

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