令和2年6月

第392話 令和2年6月1日(月)「学校再開初日」日々木陽稲

 いまにも降り出しそうな空だ。

 暦の上では夏となったが、肌寒い朝となった。

 どんよりと漂う黒い雲がわたしの心に重くのしかかる。


「……行こうか」


 見上げていた視線を隣りにいる純ちゃんへと向ける。

 可恋のマンションから学校までは目と鼻の先だが、彼女はいつものようにわたしを守ってくれる。

 その心強さのお蔭で、わたしは学校に足を踏み入れることができた。

 登校する生徒の数はまばらで、楽しげに会話する姿は見当たらない。

 やっと3年生になった気分なのに、校庭の桜の木はすっかり葉が繁っていた。


 校内の至る所で先生方が登校してきた生徒を見守っている。

 それが感染症対策だと理解していても、なんだか見張られているようで落ち着かない。

 大きな声を出すのが憚られる雰囲気があり、わたしはマスクのせいでくぐもる声で「おはようございます」と挨拶した。


 3年生の自分の教室に行くのもわずかに数度目だ。

 まだ馴染みがない廊下を進み、純ちゃんと別れて教室に入る。

 目に飛び込んできたのは教壇に立つ赤いジャージ姿だった。


 わたしはぐっと息を詰めて、ジャージの持ち主である君塚先生を見つめた。

 それから「おはようございます」とはっきり聞こえるように声を出す。

 先生はわたしが言い淀んだことに言及することなく、無表情のまま「おはようございます」と応じてくれた。

 目つきは厳しく、顔は険しい。

 そこからわたしに対する敵意は読み取れなかった。

 しかし、その眼差しの冷たさは何者も受け付けないという意思の表れのように感じた。


 黒板に書かれた座席表を見て、わたしは自分の席に着いた。

 分散登校なので今日は出席番号が奇数の生徒だけだ。

 だから、たとえ可恋が学校に来ることができたとしても分散登校の間は同じ教室で学ぶことはできない。

 わたしは椅子に座ると教室に入ってくる生徒たちの様子を眺めていた。


 担任の藤原先生がやって来てホームルームが始まった。

 出欠と体温の確認が行われる。

 何人かの欠席者がいるため教室内の人口は半分以下となり、閑散とした印象だった。

 待ちわびた学校生活が再開したという喜びはまったく感じることができなかった。


 長々とした注意事項が告げられる。

 教師たちのピリピリした空気が否応なく伝わってくる。

 こんなことならオンラインホームルームの方が楽しかった。

 可恋は若い世代が感染しても重症化することは稀だから神経質にならなくてもいいと言っていた。

 だが、校内の雰囲気は重苦しく、感染症よりもストレスで心が病んでしまうのではないかと思うほどだった。


 そのまま1時間目の藤原先生の授業が始まる。

 わたしは気持ちを切り替え、授業に集中する。

 教室内はしんと静まり、先生の声だけが響いている。

 開け放たれた窓から時折吹き込む風が、沈んだ雰囲気を幾分か和らげてくれた。


 生徒をリラックスさせようと話を脱線させていた藤原先生だったが、生徒の反応が鈍いのを見て取ると授業に集中し始めた。

 国語の教科書を音読させることはなく、ひたすら話を聞き、板書をノートに写すだけだ。

 淡々とした進行は、わたしにとっては余計なことを考えずに済んで良かったと言える。

 45分授業の後半にさしかかると、授業のペースが落ちていった。

 どうやら生徒たちの集中が途切れ出したようだ。

 先生はそんな子たちに声を掛けて話について行かせようとしていた。


 1時間目からこれでは先が思いやられる。

 3ヶ月の休校明けで、今月は助走期間だと言われている。

 そんなに時間が必要なのかと思っていたが、想像以上に深刻かもしれない。


 休み時間になっても席を立つ生徒がいない。

 誰もがクラスメイトの様子をうかがっている。

 トイレに行く生徒はいるが、教室内で会話ができる雰囲気ではなかった。

 今日登校しているメンバーで、この空気を変えてくれそうと言えば都古ちゃんだろう。

 その彼女はぐったりと机に突っ伏していた。

 勉強は得意じゃないから仕方ないか。

 問題はこんな過ごし方だと休み時間の意味がないのではないかということだ。

 何気ないお喋りでも気持ちを切り替えるのには役立つ。

 このままでは次の授業に差し支えかねない。

 そう思うのに解決策が浮かばず、短い休み時間はあっという間に終わってしまった。


 2時間目は先程よりも早く弛緩した空気が流れ始めた。

 教壇に立つ先生も諦め顔だ。

 課題として出していた復習内容の解説に終始し、新しいところには進まなかった。

 それを一部の生徒が不満そうに見ていた。

 まだ再開初日だが、受験勉強の遅れに危機感を抱く生徒もいる。

 一方で、まだ受験生という自覚を持てない生徒もいるだろう。

 今年はその差が開きそうだ。


 可恋から学級委員を務めるように言われている。

 分散登校の間はそういう活動ができそうにないが、通常授業に戻ったらクラスをまとめる役割を担うことになるだろう。

 この状況で果たしてまとめることはできるのだろうか。

 学校行事の多くが中止や縮小となりそうだ。

 休校中の遅れを取り戻すために夏休みも短縮になる。

 新型コロナウイルスの第2波も警戒されている。

 わたしに可恋の代役が務まるのか。

 彼女のレベルを目指す必要はないのかもしれないが、最初から投げ出すことはなんだか違う気がした。


 3時間目は君塚先生の英語だ。

 オンライン授業では次々と生徒を指名して音読させたり日本語に翻訳させたりした。

 教室でもあのような授業をするのだろうか。

 アクティブラーニングのような生徒同士が話し合う授業は現状では無理だろう。

 だが、この人数の少ない教室でなら音読くらいは大丈夫そうだ。

 むしろプール授業のあとのような疲れ切ったクラスの雰囲気の方がトラブルに繋がりそうだ。


 そんな不安の中、チャイムの音とともに君塚先生が入室した。

 授業を受けたことがなくても、君塚先生が厳しいことはクラス全体に知れ渡っている。

 教室内に緊張感が生じた。

 これが最後まで続けばいいのだけど……。


「おはようございます」と教壇に立った君塚先生が生徒たちに声を掛ける。


 考えてみれば、いま教室にいる生徒のうちオンライン授業に参加した人はごくわずかだ。

 君塚先生の挨拶に即座に声を出して反応したのは数人だけだった。

 あとは黙って前を見つめていた。


「挨拶もできないのですか」


 君塚先生の声が鋭く尖る。

 睨むように教室内を見回した。

 わたしはオンライン授業を思い出し、可恋がしたように大きな声で「おはようございます」と言った。

 あとに続いたのは数人だけだ。

 君塚先生は声を荒らげ、「全員立ちなさい!」と怒鳴った。


 わたしのようにすぐに立ち上がった者ばかりではなかった。

 先生は動きが緩慢な者に「早くしなさい!」と金切り声を上げ、座ったままの生徒のところへすたすたと歩いて行った。


「聞こえないのですか。立ちなさい」と男子生徒のひとりに詰め寄った。


 渋々立ち上がった生徒に向かって、君塚先生は「保護者に連絡します」と伝えた。

 驚く男子が「こんなことくらいで……」と抗議する。

 しかし、「指示に従わないということは授業態度が評価に値しないということです」と先生は言い切った。

 それは内申に響くという意味だろう。

 彼は青ざめた表情で立ち尽くし、先生はそそくさと教壇に戻った。


「挨拶しなさいと言っているのです」と言いながら先生は室内を見渡した。


 教室内には恐怖や怒りなど様々な感情が渦巻いていた。

 それでも先生の「おはようございます」の声に、感情をぶつけるようにみんなが「おはようございます」の声を返す。

 そこに先生への敬意は感じられない。

 君塚先生はじっと目を凝らし生徒ひとりひとりの顔を見つめた。

 やがて「いいでしょう。席に着きなさい」と先生が言い、わたしはホッと息を吐いてから着席した。


「教科書を開いてください」


 何ごともなかったかのように授業が始まった。

 ページを指定しランダムに生徒を当てて声を出して読ませる。

 少しでも聞き取りづらいと「もっと大きな声で!」と容赦なくやり直しをさせる。

 何人かに同じところを読ませたあとは「いまのところを訳しなさい」と言って生徒を指名する。

 予習していた生徒は少なく、「分かりません」と答える者が目立った。


「私は授業を重視して評価します。答える気がない生徒の評価はどんどん下がると思ってください」


 その言葉を聞いてわたしの背筋に冷たいものが走った。

 ここまで内申の評価を振りかざす先生は初めてだ。

 その強権的な態度に不快な気持ちが湧き上がり、イライラを押さえ切れないまま授業を受け続けた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・3年1組。赤茶色の地毛を君塚先生に咎められ、気に病んでいる。


日野可恋・・・3年1組。免疫系の障害を持つため登校を見合わせている。


安藤純・・・3年2組。陽稲の幼なじみ。初めて陽稲とクラスが別れた。


君塚紅葉・・・3年1組副担任。今年度から他校より転任した英語教師。


藤原みどり・・・3年1組担任。教師歴4年目となる若い国語教師。初めて担任を持つことになった。


宇野都古・・・3年1組。陸上部のエース。陽稲とは1年生の時に同じクラスで仲が良かった。


 * * *


「大変だったね」と慰めてくれた可恋は、あろうことか「良い授業だったんじゃないの」と高く評価した。


「どこが良い授業なの」と感情的に問い返すわたしに、「まずは落ち着こう」と微笑みかけた。


 深呼吸をしても苛立つ気持ちは収まらない。

 わたしは帰って来るなり可恋に今日の出来事をまくし立てた。

 さすがに手洗いと着替えを済ます分別は残っていたが、胸の内が整理できずに可恋に泣きついたようなものだ。


「まず、ヒステリックな態度だけど、挨拶することや声を出すことは悪いことじゃないよね」


 可恋の言葉にわたしは頷く。

 そこは問題じゃない。


「内申を盾にして生徒を無理やり従わせようとしていることが気に入らないんでしょ?」と問われ、もう一度わたしは頷いた。


「好意的に解釈すれば、内申の評価基準を事前に教えてくれたと捉えることもできるね」


 確かに可恋のような見方もできなくはない。

 だが、そう感じた生徒は何人もはいなかっただろう。

 わたしが頷けずにいると可恋は言葉を続けた。


「広岡先生のような楽しい授業が良いと思うのは当然だよ。だけど、その素晴らしい授業でもついて行けない子や楽しいと思わない子はいる。生徒によっては君塚先生の方が合うって子もいると思う」


 わたしは腕を組んで考え込む。

 可恋が言うことは正論なのだろう。

 しかし、その正論では心の中のもやもやは解消しない。

 わたしはあんな授業は嫌だと強く思った。


「理想を言えば、合う合わないで先生を選択できれば良いんだけどね。それができない以上どうするか考えないとね」


 そう、考えないといけない。

 君塚先生とどう向き合っていくのかを。

 そして、君塚先生と向き合わねばならないクラスメイトをどうまとめるのかを。

 可恋に頼るのではなく、自分の頭で考えないと……。

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