第445話 令和2年7月24日(金)「笑顔の裏側」神瀬結
『空手は日程が後半だったから開会式は出場する予定だったのよ』
モニター画面の中で姉がそう言って微笑んだ。
内心はともかくその表情から悔しさといった負の感情はうかがえない。
『翌日に試合があっても出たかもしれない。それほどの体験だと思うから』
空手は今回初めてオリンピック種目に選ばれた。
その開会式に選手として出場することは大いなる名誉だろう。
まして自国開催でのオリンピックだ。
姉は選手としての絶頂期にこの大会を迎えた。
金メダル候補と期待されている。
『空手がオリンピック種目となるのは最初で最後かもしれませんしね』
画面に映るもうひとりの女性――日野さんが淡々と言葉を発した。
次のパリ大会では空手は五輪種目から外された。
打撃系の格闘技だけでもボクシングやテコンドーがあるので難しいというのが大方の見方だった。
今日2020年7月24日は東京オリンピック2020の開会式が行われる日のはずだった。
周知のように新型コロナウイルスが世界を襲い、オリンピックの開催は1年延期された。
来年予定通りに開催できるかどうか定かではない。
五輪代表に内定している姉にとっては気が気でない状況だろうが、それを言葉や態度で示すことはなかった。
その姉が今日この日に日野さんとオンライン女子会をするからあなたも参加しなさいと言ってきた。
女子会といっても参加者はわたしたち姉妹と日野さんの3人だけだ。
F-SAS共同代表でバレーボール選手の篠原さんも誘ったそうだが、現在日本代表の強化合宿中だからと参加できなかった。
『空手がずっと五輪で開催されたら3連覇を果たして国民栄誉賞だって狙えたのに』
姉がこんな大言壮語を吐くなんてとても珍しいことだ。
空手が五輪種目となり、代表に選ばれるため、金メダルを獲得するためにこれまで厳しい練習を続けてきた。
当初目標としていたこの時期に気持ちが昂ぶるのは当然なのかもしれない。
『そうですね』と頷く日野さんに、『そこは私が阻止しますと言うところでしょう』と姉が険しい目つきで絡んできた。
パリの次は2028年のロサンゼルスオリンピックとなる。
その時、姉は30歳を迎える。
まだ現役で戦える年齢だ。
一方、わたしや日野さんはちょうどいまの姉の年齢くらいになる。
わたしが8年後にいまの姉に追いついているとは思えないが、日野さんならと期待してしまう。
『未来は分かりませんから。日々頑張るだけです』と日野さんが優等生的な答えをすると、『若いのだから、もっと夢を語りなさいよ』と姉は不愉快そうにケチをつけた。
日野さんは姉を尊敬していると常に言っている。
いまもかしこまった態度を崩していない。
『お姉ちゃん、それ、パワハラだよ』とわたしは大声で口を挟んだ。
『体育会系ならもっと理不尽なこと言われるでしょ?』と姉は反論してくる。
『十分とは言えませんが、以前に比べれば改善されていると思います』と日野さんが答え、わたしも『もう昔とは違うのよ。うちの道場も学校の部活も、ずいぶん変わったって言うよ』と尻馬に乗った。
『それくらい知っているわよ。先輩たちの武勇伝や酷い話はいくらでも聞いているからね』
姉はそう弁明し、『夢を語れって言っただけじゃない』とわたしのパワハラ認定には納得がいかないようだった。
普段とは違う姉の態度に『なんだか酔っ払っているみたい』とわたしは顔をしかめた。
夜だから飲んでいても不思議ではないが、姉が酔っ払った姿は見たことがない。
姉は『アルコールは摂取していないわよ』とわたしの懸念を一蹴してから、『似たようなものかもしれないけどね』と凄みのある笑みを見せた。
『……何か良いことあったの?』と聞いてみるが、姉は笑ったままで答えない。
『精神的に不安定な時も気分が高揚したかのように振る舞うことがありますね』
姉に代わって日野さんが答えてくれる。
今日のどこか空元気な姉の雰囲気もそれで説明がつきそうだ。
煩悶はあって当然。
それがこういう形で漏れ出たのだろう。
『そんな風に分析ばかりして楽しい? 友だち無くすよ』と姉はぶっきらぼうに日野さんに忠告した。
わたしはこの機を逃すまいと『たとえ世界中が敵に回っても、わたしは日野さんの味方ですから!』と力強くアピールする。
このやり取りにも日野さんは悠然としているが、姉は渋面だった。
『結は彼氏作ったら? それとも男に興味がないの?』
本当に今日の姉は支離滅裂だ。
話の流れがまったく分からない。
『セクハラだよ!』と抗議したのに、『姉としての気遣いだから問題ない』と意に介さない。
『お姉ちゃんこそどうなのよ?』と意趣返しをしても、『私は空手が恋人だから』と姉は澄まし顔で受け流す。
わたしだって憧れはない訳ではない。
だが、現実は残酷だ。
空手界では美少女だなんて言われて持てはやされているが、そこは「空手界では」という但し書きがつく。
それにわたしの理想は高い。
わたしより強くて格好良くて素敵な人という条件があるので、それに当てはまる男性はほとんどいない。
『日野さんより魅力的な男性がわたしの前に現れて、真剣に告白してくれたらその時は考える』
わたしがもじもじしながらキチンと答えたのに、話題を振った姉は白けた顔をしている。
一方、日野さんは悪戯っぽい目つきで『紹介しましょうか?』と言い出した。
『あ、いえ、いまは空手に全力を尽くしたいので、その、結構です……』
しどろもどろになったわたしを姉はニヤニヤしながら眺めていた。
今日の姉は表情もよく変わる。
そして、急に真顔になって『三谷先生に伺ったのだけど、トレーニング理論の論文を書いたんだって?』と話題を変えた。
女の子同士の会話で話題が飛びまくることはよくある。
しかし、今日の姉はやっぱり変だ。
『若手の研究者の指導を受けながら書きました。いまは修正作業の真っ只中です』
『私も卒論には苦労したなあ。私のなんかより凄いんだろうけど』
『舞さんの論文は拝見しました。とても興味深かったです』と日野さんはサラリと言ってのけた。
わたしは姉の卒論を読もうだなんて1ミリも思ったことがないが、日野さんはスラスラと感想を述べている。
姉はそれを黙って聞いていた。
日野さんの賛辞が終わっても姉は沈黙したままだ。
その顔には迷いが見えた。
人前、特にわたしの前では姉は常に毅然と振る舞っていた。
迅速果断、不言実行が姉の売りだ。
しかし、いまモニター上に映る姉はそのような姿には見えない。
『……トレーニングメニューについて意見を聞かせてもらってもいいかな?』
絞り出されるように出された言葉にわたしは雷に打たれたような衝撃を受けた。
姉は稽古については自分のやり方を貫いている。
物心ついた頃から空手家の両親に指導を受け、その後も空手一筋で生きてきた。
その中で様々な指導を受けたと思うが、練習メニューは聖域として口出しを許さなかったと聞いている。
『私がわずかでも舞さんのお力になれるのであれば協力は惜しみません』
恭しくそう告げた日野さんは、続けて気遣うように『何かありましたか?』と尋ねた。
姉は息を吐き、『何も』とだけ言った。
しばらく誰も口を開かない。
そして、最初に焦れたのは姉だった。
『いまのやり方で良いのかという焦りはある。私が10成長している間に海外のライバルたちは20成長しているかもしれない。考えたって仕方がないことだけどね』
もう長い間、大会が開かれていないので不安は尽きないのだろう。
さらに姉は言葉を続ける。
『それに最近成長の速度が落ちている気がするの』
『成長の限界近くにいて、それでもこれまで同様の成長を望むあたりさすが一流選手ですね』
日野さんの雰囲気が変わった。
彼女は魔王とあだ名されていると聞くが、一瞬そんな感じが垣間見えた。
大学卒業による環境の変化、試合がないことによるモチベーションの低下、不安がもたらす集中力の減退など指折り数えながら姉の精神状態を分析する。
『原因は分かっているの。問題は対処法よ』
『練習メニューは見直しましょう。刺激が必要です。もうひとつ、新たな成長のためには”気づき”が必要だと思います。幸い時間はあります』
日野さんは目をすっと細め、”気づき”を得る方法も示した。
最初に挙げたのは他競技との交流だ。
しかし、新型コロナウイルスの感染者数急増の中では難しいとすぐに提案を取り下げた。
次に挙げたのが後進への指導だった。
それもかなり本格的に行うということだった。
『同じ種目に妹さんがいます。年齢が近いとライバルとして脅威になりますが、その心配は当分ないでしょう』
日野さんのこの提案に姉は乗り気の様子だ。
当然わたしも大歓迎だ。
時々練習や演武を見てもらうことはあったものの、姉から本格的な指導を受けたことはない。
わたしは目を輝かせて成り行きを見守った。
『ただ学校があるのですぐにとはいかないですね。夏休みまで待つのがお嫌でしたらキャシーをお貸ししますよ。じゃじゃ馬ですが、刺激は与えてくれます。その点は保証します』
『キャシーって黒人のあの大きな子だよね。組み手の選手でしょ?』
『そうです。しかし、身体能力が高く、格闘技に関してだけは飲み込みも早いです。やる気を引き出すことができれば、驚くような急成長をすると思います』
日野さんはそう語るが、キャシーさんが形を熱心にやるだろうか。
戦うことが大好きで、空手はあくまで強くなるための手段だと思っているような人だ。
とはいえ日野さんに口出しはできない。
気掛かりはわたしの指導の話が消えてしまうことだった。
『学校は休めばいいから、お姉ちゃんの指導を受けたい』とハッキリと希望を伝えたのに、姉は『私の我が儘につき合わせるのは悪い』と取り合ってくれない。
『結さんは夏休みになってから指導してもらえば良いと思います。レベルが高い結さんへの指導は”気づき”を得るチャンスだと思いますし』
日野さんが取りなしてくれたことで、夏休みに入ったらという条件で姉は了承してくれた。
わたしは胸をなで下ろす。
その安堵感から『日野さんは指導を受けないんですか?』と口を開いた。
姉からの指導を日野さんと肩を並べて受けられるなんて、どれほど苛酷な練習であっても極楽のように感じるだろう。
日野さんは笑みを浮かべて『私はマイペースでやりますよ』と答えた。
わたしは残念に思ったものの、さほど気にも留めなかった。
そして、ふたりの打ち合わせをただ眺めていた。
彼女の笑みの裏側にある思いなんてこれっぽっちも気づかずに。
話し合いが終わり、日野さんが先に退室した。
わたしは聞きたかったもうひとつの質問を姉に投げかけた。
『日野さんを指導したいと思わなかったの?』
姉は何とも言えないような顔をした。
そして、言葉を選びながら答えてくれる。
『興味はある。強くなり過ぎるかもしれないという不安もある。でも、それ以前の問題として、彼女の体質に寄り添いながら指導することは私には無理だと判断したの』
日野さんがこれほどトレーニング理論を必死で研究しているのも彼女の体質が影響していると姉は話した。
どうしても練習量が限られてしまうので彼女は効率を追い求めている。
技術について指導することはできるが、今回のように基礎のメニューも含めてとなると経験が不足している姉では手に負えない。
お互いにそれが分かっていたから言い出さなかったのだ。
『結が落ち込むことはない。あなたの明るさや前向きさは周りを力づけるのだから、その姿勢をなくさないようにね』
姉の気遣いに涙が出そうになった。
それを堪えて、姉の言葉通りに元気よく『分かった』とわたしは答えた。
以前のわたしは巨大な姉の存在と比べられることに引け目を感じていた。
日野さんと知り合って明確な目標が見つかった。
姉にも日野さんにもわたしでは追いつくことはできないだろう。
それでもわたしにしかない強みはあると思うようになった。
来年の7月23日、姉の入場行進を新国立競技場の観客席から胸を張って眺めたい。
1年後のわたしのために、わたしもまた日々頑張るだけだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。神瀬姉妹同様幼い頃から空手を続けているが大会出場は数えるほど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます