第444話 令和2年7月23日(木)「日野可恋の現在位置」日々木陽稲
わたしは腰に手を当て「あのね、可恋」と呼び掛けた。
今日から4連休だ。
本来であれば今頃東京オリンピックの幕が開いて盛り上がっていたはずだった。
それが1年延期された。
代わりに、夏休みが短縮された学生にとっては貴重な休日となった。
今年は梅雨が長引き、今日も朝から雨模様だ。
このところ新型コロナウイルスの感染者数が急増していてとても外出を楽しむという状況ではないだけに、おとなしく家でのんびりしていようと思っていた。
昼食後、リビングのソファに仰向けに寝そべりスマホを見ていた可恋がわたしを見た。
わたしは立って可恋を見下ろしている。
目で続きを促す彼女に「不公平な気がするのよ」と膨れっ面で言った。
「わたしは学校であったことを事細かに可恋に伝えているじゃない。それなのに可恋は自分のことを全然話してくれないよね?」
可恋は起き上がることなく「そう?」と問い返した。
わたしは「そうよ」と一歩も引かない。
期末テストが終わって今後の予定について考えていたら、最近可恋から方向性が示されていないことに気づいた。
彼女はわたしの何倍もの計画を練っているのにそれを教えてもらっていない。
「それなりに報告しているつもりなんだけど」と可恋は弁解する。
毎日の出来事は簡単に説明してもらえるが、それは細切れの断片のようなものだ。
そこから全体像を読み解くのは難しい。
可恋のようなミステリマニアなら嬉々としてやってのけるのだろうが、わたしには到底無理だ。
今日はちょうどいい機会だ。
現状と今後について、いろいろと質問しよう。
「受験生ではあるけど、もうすぐ夏休みでしょ。可恋のいまの状況をちゃんと聞いておきたいの」
わたしの懇願に、可恋はソファにキチンと座り直した。
その上でわたしに着席を勧めてくれる。
わたしは可恋の目の前の椅子に腰掛けた。
「まずは、体調のことだけど……」とわたしが口を開く。
「暑さに強い訳じゃないけど寒いよりはマシだから」と可恋は微笑む。
彼女は生まれながらに免疫系に障害を持ち、病院暮らしが長かったと聞いている。
少しずつ体力をつけ少しずつ健康になったが、それでも寒い時期は体調を崩しやすい。
ひと冬を友人として過ごしてみて、最初はずる休みのように感じることもあった。
だが、インフルエンザが命の危険に直結することを知ったり、少し無理をするとすぐに寝込んでしまう彼女を見たりすると何も言えなくなった。
「いまは新型コロナウイルスの問題があるからリスクは避けているつもりだよ。ゼロリスクまでは考えていないけどね」
そう語る可恋の顔には真剣さがうかがえた。
可恋にとって新型コロナウイルスはハイリスクだろうと強く警戒している。
それでも安全な場所に引き籠もっているだけではなく、できる限り通常の生活をしようと心がけている。
リスクについて常に考え、彼女は自分で決断を繰り返す。
その苛酷さはいつも側にいるわたしがいちばん見て知っている。
わたしが彼女のためにできることは、彼女に移さないために一瞬たりと油断しないことだろう。
「旅行や買い物は感染状況を見ながら決めていくしかないよね」とわたしは肩を落とした。
夏休みといえば、わたしは毎年北関東にいる父方の祖父のところに帰省している。
今年は春休みに帰っていないので、”じいじ”はわたしに会いたがっているそうだ。
とはいえ、高齢なので可恋同様感染すれば大変なことになる。
お金持ちで、言い出したら聞かないところがあるので心配しているが、いまのところ無茶なことは言っていないようだ。
買い物は先週末やこの連休中に出掛ける予定だった。
だが、天候や感染状況の悪化に伴い先延ばしにしている。
パーッと買い物をしてストレスを発散したいところだが、いまはジッと我慢する時だろう。
「学校の方は、何か考えていることはあるの?」
わたしの質問に可恋は人差し指を顎に当て「いますぐ何か動くってことはないかな」と答えた。
学校が再開されても可恋はずっと欠席していた。
当初は7月を目処に登校すると話していたが、東京やここ神奈川の新規感染者数が減らないため踏み切れないでいる。
それでも全校集会の時にダンス部の側面支援をしたり、先の期末テストを受けに来たりはした。
「この前の期末テストは点を取りに行ったからね。今後校長先生や君塚先生と対立するようなことがあった時に、成績は発言力に繋がるから」
「わたしも成績は上がったのに可恋との差が縮まったようには全然思えないな……」
わたしが愚痴を漏らすと可恋は肩をすくめた。
こと勉強に限っては彼女の背中が遠すぎる。
次元が違うことは分かっているつもりだが……。
「校内でイベントはできそうにないよね?」と確認すると、可恋は頷いた。
実は期末テスト明けの今週前半、学年ごとに球技大会ができないかと小鳩ちゃんたち生徒会が先生たちと交渉していた。
先生の中には前向きな意見も多かったものの、結局時間切れのような形で開催することがでなかった。
わたしが学級委員として力不足な点はあるにしても、このような行事の力を借りないとクラスをまとめることが困難だ。
来週には三者面談が始まるのでイベントごとは無理だろう。
「生徒だけでなく教師も疲れ切っているのかもしれないね」と可恋は指摘する。
新型コロナウイルス対策は初めての出来事なだけに先生たちも大変だ。
生徒の感染も警戒しなければならないが、自分たち大人も警戒が必要だし、重症化のリスクは高齢なほど高い。
部活動も再開されたいま、生徒以上に疲労が溜まっているような気がする。
「そういえば手芸部が、新入部員が入らないって嘆いていたけど」
ダンス部や陸上部は新入部員を確保できたそうだが、手芸部はいまだにゼロだと聞いている。
創設に関わっただけに心配しているが、1年生に心当たりがないのでわたしでは手伝えることが少ない。
「生徒会も苦労しているみたいだよ。まあ、自力で頑張ってもらうしかないね」
可恋は他人事のように話す。
手伝う気はないということだろう。
もう少し様子を見て本当にピンチの時にはわたしから可恋に口利きをすることも検討しよう。
「あとは空手関係?」とわたしが話題を切り替えると、「空手に限らず、NPO法人のF-SASやトレーニング理論などスポーツ系の仕事が最近の活動の大部分を占めているね」と可恋は話した。
「空手・形の高校の大会は動画で採点して順位をつけたのに中学ではやってくれなかったのが残念ね。それだったら参加したのに」
可恋は中学生活最後の大会に出場の意向を示していたが、全国大会は中止になった。
基本的にそういう大会に出たがらない可恋だけに勇姿を見てみたかった。
来年については口を濁している。
東京オリンピックも来年開催できるかどうか見通しが立たない。
いまから考えるのはなかなか難しいことなのだろう。
「F-SASはどうなの?」
「最悪の状況下の中ではうまくできているんじゃないかな」
F-SASは昨年秋に可恋が設立したNPOだ。
今年4月には法人化し、可恋は共同代表を務めている。
女性の学生アスリート支援を柱にしていて、医学、法律などの面からサポートする一方、アスリート同士の交流にも力を入れようとしていた。
しかし、外出自粛があって配信している動画の視聴数は伸びているものの、ほかの活動が全然できていないと可恋は嘆いていた。
「新しい生活様式の中での競技のあり方を考える勉強会がオンラインで開かれているんだけど、どこまでリスクを許容するかは人それぞれだから難しいね」
可恋は中学生なので移動に制約があり、このNPO設立時から極力オンラインで運営できるように設計されていた。
それは幸いしたようだ。
だが、インターネット上だけだと積極的に動画を見ようとするアスリートにしか情報が届かない。
本来はスタッフが学校を回って女性アスリートの基礎知識について説く予定だったそうだ。
世間では、可恋の母親で大学教授として名が知られている陽子先生が背後にいると認識されている。
現実は可恋が責任者としてかなりの時間と労力を割いて運営している。
活動の方向性が予定と異なるため、集めたスタッフを活かし切れていないと可恋は話す。
その分、可恋に皺寄せが行っているのだろう。
「その合間を縫ってしているのが論文執筆なのよね?」
「想像以上に大変で楽しいわ」と可恋は微笑む。
「論文なんて簡単に書けると思っていたのにシャルロッテに助けてもらうばかりよ。でも、F-SASは誰かに託して研究に専念してもいいかもって思うくらい面白いよ」
そして、可恋は研究内容を饒舌に語り出した。
何度も聞いた話だが、細部がアップデートされたからと一から話そうとする。
空手道場に通う小学生を対象にした比較実験だそうで、可恋は自分が持っているトレーニングに対する感覚を実験結果に反映させたいと意気込んでいる。
ちなみに論文は英語で書かれているのでわたしの英語力ではサッパリ読むことができない。
「このまま研究を続けるのならドクターの称号が欲しいわね」
「可恋、お医者さんを目指すの?」とわたしが驚くと、「この場合のドクターは博士号という意味だけど、分野的には医学の可能性もあるから当たらずとも遠からずかな」と可恋は訂正した。
わたしがファッションデザイナーを目指すと熱く語ることはあっても、可恋が何かになりたいと言葉にすることはこれまでなかった。
頭の良さや事務能力を生かせる仕事がいいかなと話すことはあっても、それはなりたい仕事ではない。
トレーニング理論の研究者というのは可恋にうってつけの仕事のように思えた。
「応援するね!」とわたしはすぐに前のめりになるが、可恋はいたって冷静だ。
「あまり先のことを考えてもね。いまは布石を打つだけで十分だよ」
可恋は過去にお医者さんから二十歳まで生きられないと言われたことがあった。
可恋自身それを”呪い”と表現する。
彼女は長生きできないかもしれないから人一倍濃密な時間を過ごしている。
それがいまの彼女を造り上げた。
だが、将来の展望が描きにくいのも事実だ。
「きっと神様は見ていてくれるよ」
彼女はこれまでたくさんの辛い思いをしてきた。
これ以上の不幸はいらない。
わたしは神様に祈ることしかできない。
ただ、何があろうと可恋と共に歩んでいくと決意している。
「今日はキャシーが暴れそうだったから生贄に麓さんを差し出したんだよね。神様的には減点かもしれない」
そう言って可恋はニヤリと笑う。
そんな腹黒い一面も可恋なら許されると考えるのは身びいきしすぎだろうか。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学3年生。志望校のレベル的にそれほど受験勉強が必要ないためできれば夏休みは遊びに行きたい。
日野可恋・・・中学3年生。学校に行っていないため連休のありがたみが一切ない。今日も仕事、研究、勉強、読書、トレーニングで時間が埋まる。
シャルロッテ・ファン・ハール・・・アスリートにして若手研究者。現在日本の大学に在籍し練習と研究を続けている。
キャシー・フランクリン・・・G8。夏休みなので可恋が通う空手道場にホームステイ中。可恋と一緒なら朝稽古に参加できるが今朝は雨なので可恋がサボった。その不満の矛先を久しぶりにやって来た麓たか良にぶつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます