第120.5話 令和元年9月3日(火)「笑顔」日々木陽稲

 昨日のオーディションが終わって、わたしは着替えを終え、可恋を待っていた。

 可恋は夏休み中の筋トレの課題をサボった三人を熱心に指導していた。

 その様子を眺めていたら、珍しく笠井さんが声を掛けてきた。


「ちょっといいかな?」


 わたしは笑顔で頷いた。

 可恋とは少し距離があるので、話している内容は聞こえないだろう。

 でも、可恋のことだから、わたしが笠井さんと話したことには気付くはずだ。


「日野も安藤もさすがだった」と笠井さんはオーディションで見せたふたりのダンスを褒めた。


 わたしは嬉しそうに「そうだね」と同意する。


「ダンスは文句の付けようがない。安藤も本番までにはもっと安定するだろうし。問題は、もう少し笑顔が欲しいってことだよな。日々木さんもそう思うだろ?」


「あー、そうだよね……」とわたしは同意した。


 可恋は空手の時のような真剣な表情だった。

 もう少し楽しそうな雰囲気があってもいいと思う。

 純ちゃんはもともと無表情だし、いつものことだと思ってしまうが、本番では確かに笑顔があると見栄えがいい。

 せめてもう少し表情が柔らかくなればいいんだけど……。


 過去にも友だちが少ない純ちゃんのために、わたしはいろんな手を尽くした。

 そのひとつが笑顔の練習だった。

 かなりムキになってやった覚えがある。

 わたしにとって若気の至りというか黒歴史というか、純ちゃん改造計画は様々な試みに挑み、ことごとく失敗した。

 その大半はいま思い返せば恥ずかしい記憶だ。

 純ちゃんが黙ってくれているからいいものの、もし指摘されたらわたしの顔面が真っ赤に染まるのは間違いない。

 いまは、このままの純ちゃんで良いと思えるようになったけど、そこまでは随分と回り道をしたものだ。


「日々木さんでも難しそうだね」と笠井さんが、考え込んでいたわたしを見て呟いた。


「可恋は問題ないと思う。純ちゃんは無理かもしれない……。でも、頑張るよ!」とわたしは気合いを込める。


 創作ダンスではわたしはただのお飾りだ。

 ニコニコと笑って手を振っていればいいと言われている。

 もっとできるよと反論したものの、余計なことをしないのがひぃなの仕事だなんて可恋に言われてしまった。

 そんな訳で、創作ダンスでやることがないわたしにふさわしい役目が与えられたと思った。


「無理しなくていいからね」なんて笠井さんは言うが、無理じゃない、これは努力だとわたしは心の中で独りごちた。


 去って行く笠井さんの背中を見送り、わたしはずっと隣りに立っている純ちゃんを見上げた。


「純ちゃんのことだよ」とわたしが苦笑して言うと、彼女は相変わらずの無表情のまま頭をかいた。


 スイミングスクールでの彼女はもう少し感情が顔に出ていたように思う。

 学校だといついかなる時も表情が変わらないからなあと、わたしはため息をついてしまった。




 それから丸一日が経った。


「可恋は、わたしが笠井さんと何を話したのか気にならないの?」


 いつものように寄り道した可恋のマンションでわたしは尋ねた。

 聞かれると思っていただけに、聞いてこないとちょっと嫌な気持ちになってしまう。


「別に」と可恋は素っ気なく答えた。


 わたしはつい「なんで!」と大きな声を出してしまう。


「私が聞く必要があれば、ひぃながちゃんと言ってくれるでしょ」と可恋は穏やかな声でわたしを諭した。


「それはそうだけど……」と口籠もったが、それでも「可恋の話も出たんだよ」と関心を誘った。


「だいたい想像がつくしね」と可恋はニヤリと笑う。


 わたしは頬を膨らませて、「言ってみてよ」と口にする。

 こんな時の可恋が間違う訳もなく、「ダンスの時の笑顔のことでしょ」と正解を言い当てた。

 ムスッとして「なんで分かるのよ」と問い詰めると、「そのあとで笠井さんから麓さんの笑顔の話をされたからね」と可恋は種明かしをした。


 八つ当たりだと分かっていても、「笠井さん!」と心の中で叫んでしまう。


「それで、対策はどうするの?」と可恋に聞かれるが、わたしは首を振った。


「純ちゃんを笑顔にさせる方法は思い浮かばないの。昔も頑張ってみたことがあったけど、上手くいかなかったしね……」とわたしはうなだれた。


「私の対策は?」と可恋は満面の笑みを浮かべて聞いてきた。


「その顔で十分でしょ」とわたしが指摘すると、「ダメだよ。ひぃなが対策をしてくれないと、ダンスの時は無表情のままだよ」と可恋はニヤニヤする。


「もしかして、わたしが純ちゃんのことばかり考えるから妬いてるの?」とからかっても、「そうだよ。妬いてるのよ」と可恋は受け流す。


 少し考えて、「純ちゃんを笑顔にできたら、可恋のことも考えてあげる」と微笑むと、可恋はわずかに顔色を変えた。


「それじゃあ、協力しないといけないね」と可恋が微笑む。


 その微笑みは思いのほか優しげで、わたしはとても暖かく感じた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・2年1組。笑顔には自信がある。


日野可恋・・・2年1組。作り笑顔をひぃなに指摘されてから少し訓練中。


安藤純・・・2年1組。笑顔の練習中は陽稲に顔中いじられまくった。


笠井優奈・・・2年1組。作り笑顔は可恋と良い勝負。

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