第656話 令和3年2月20日(土)「あついおもい」小谷埜はじめ

 はじめの合図と共に、両者が気勢を上げた。

 その声が鳴り止まないうちに相手の巨体が突っ込んでくる。

 猛牛の突進を思わせる圧力だ。


 女子の中では体格が良い彼方かなただが、対戦相手は規格外のサイズだった。

 あれで歳下というから呆れるしかない。


 彼方は躱すことなく反撃を試みる。

 鋭い膝蹴りで出足を止めると、接近して激しい連打を繰り出す。

 どんな間合いでも戦える彼女だが、真骨頂は接近戦だ。

 すぐに相手が後ろに大きく弾け飛んだ。


 彼方が追撃する。

 独特の体重移動で間を詰めると、虚を突く前蹴りを見せた。

 それを払われた勢いで身体を捻り、相手の顔に裏拳を飛ばす。

 しかし、それも彼方の本命ではない。

 相手が低い姿勢からかち上げるように彼方の懐に入ると、そこに彼方の右肘が振り下ろされた。

 相手の動きが止まったところへ次々と拳を打ち据える。

 左右正面と予測不能な攻撃に相手はガードするしかできなくなった。

 最後は右の膝蹴りから頭一つ大きな相手を投げ飛ばし、戦闘能力を奪ったところで勝負が決まった。


 フェイスガードを付けているので彼方の表情は読み取れないがまだ余裕がありそうだった。

 対戦相手のキャシー・フランクリンは立ち上がると何か叫んだ。

 どうやら再戦を求めているようだ。

 彼方は頷き、すぐに試合を再開する。


 キャシーは様子を見るように構えたまま動かない。

 今度は彼方が先に動いた。

 一瞬で間合いを縮め、待ち構えていたキャシーの攻撃を軽い手さばきで力を逸らす。


 あたしは昨年キャシーと戦ったことがある。

 彼女がうちの道場に武者修行に来たのだ。

 その威圧感、一撃の重さ、スピードを前にあたしは何もできなかった。

 道場には外国人も多いので通訳してもらったところ、彼女、キャシーはあたしより歳下ということだった。

 これまで歳下に負けたことがないのが自慢だったのに、あっさりと鼻を折られてしまったのだ。


 その日は学校行事の都合で彼方は休みだった。

 彼女は通う学校は違うが、道場では数少ない同世代の女子ということで仲が良い。

 そして、強い。

 わたしからキャシーの話を聞いて自分も戦いたいと言いだした。

 しかし、キャシーは東京のいくつかの空手道場に修行に来ているようだが、誰も彼女の連絡先を知らなかった。

 おおらかと言えばおおらか。

 いい加減と言えばいい加減。

 いまも空手界にはそんな雰囲気がある。


 いつかまたやって来るだろうと思っていたのに、年末頃からは修行の話も聞かなくなってしまった。

 あちこちに話を聞いて回り、ようやく繋がる糸にたどり着いた。

 なんと東京オリンピック代表内定の神瀬舞の知り合いだという。

 流派が違うし、神瀬道場と言えば形のイメージだったので、キャシーとはまったく結びつかなかった。

 なんとかキャシー本人と連絡が取れたのが2月に入ってからのことだ。

 対戦の許可を得るために彼女の忍術の師匠だという日野さんにチョコレートを贈って籠絡するという作戦がはまり、こうして神奈川まで出向いて練習試合を行うことができた。


 接近戦は不利と見たキャシーがジリジリと後ろに下がるが、彼方が前に出て間合いを空けることを許さない。

 キャシーは大きく飛んだり、トリッキーな動きを見せたりするが、彼方は動じることなくその動きについて行く。

 彼方も決して楽勝という感じではない。

 普通の相手であればすぐに勝負を決める力がある。

 だが、キャシーは驚異の身体能力で有効打を避け続けている。


 キャシーがたたらを踏むようにして尻餅をついた。

 彼方がいつものように勝負を決めに行くかと思ったら、警戒して構えを崩さない。

 キャシーは跳ね起きる。

 これも駆け引きの一環だったようだ。


 勝負は長引いているが、力の差は明らかだった。

 キャシーはほとんど攻撃の手を出せていない。

 有効打こそ食らわないが、ヒットは受けているのでダメージは蓄積しているはずだ。

 それでも彼方に油断の色はない。

 左半身の構えからの左正拳撃ちが決まり、2戦目も彼方が勝利した。


 ギャラリーから「いまの何?」というざわめきが起きた。

 この道場に所属する中高生が見学に来ている。

 女子の多さに羨ましく思う。

 この年齢まで空手を続けている女子は本当に数少ないのだ。


「初見であれは避けられないよな」とあたしは呟いた。


 初見どころかいまだにあたしはアレを避け切れないことがあった。

 彼方の奥の手のひとつであり、絶対の自信を持つ武器だ。


 彼方は中学まで小笠原諸島で育った。

 ほとんど島から出たことがなかったらしい。

 そこで師匠から空手を学んだ。

 なんとその師匠は御年96歳になるそうだ。


 彼方によると、師匠は沖縄生まれ沖縄育ちで空手の筋が良く期待されていたらしい。

 しかし、戦争中は従軍して台湾で戦ったそうだ。

 戦後帰国したものの沖縄にいた家族は亡くなっていて親戚を頼って小笠原に移り住んだ。

 その小笠原諸島も沖縄同様連合軍の占領下に置かれた。

 彼は軍相手に商売をしたり、農業を営んだりする傍ら細々と空手の道場を開いた。

 教えたのは普通の空手だったそうだが、自身は銃を持った兵士相手に勝てる空手を追究していた。

 最後の弟子である彼方にその奥義を活人のために託したらしい。

 彼方は「師匠は100歳になっても私より強いよ」と笑っているが……。


 キャシーは負けても負けても挑んでくる。

 そこからは戦うことの喜びが伝わってきた。

 彼方も受けて立つことを厭わない。

 彼女にとってもやり甲斐のある相手のようだ。


 経験の差は大きい。

 キャシーは確実に彼方との対戦を通じて成長しているが、彼方もまたキャシーとの戦いを通じて成長を果たしている。

 むしろ彼方の方が強くなっていると感じるほどだ。

 徐々にキャシーのどんな動きに対しても見切ったような動きができるようになってきた。

 攻めも的確になり、1戦当たりの試合時間が短くなっている。


「ここまでにしましょう」


 日野さんが日本語と英語でそう告げた。

 年齢は知らないが高校生にしては貫禄がありすぎるので大学生だろうか。

 キャシーと彼方はまだ続けたいと抗議しているが、「休憩の必要を感じます。しばらく休憩したあとで再開するか考えましょう」と言われ渋々頷いていた。


 彼方がフラフラとあたしのところに戻って来た。

 彼女は「疲れたよぉ」と言ってあたしにのし掛かる。

 結構本気でもたれ掛かってきたので、彼女の体重を支えきれずにあたしは後ろに倒れた。

 咄嗟に彼方が身体を支えてくれたので身体を打ちつけたりはしなかったが、仰向けになったあたしの上に彼方が寝そべる形になった。

 周りに見られて恥ずかしい。


「重い」と言って振り払おうとするが、「えー」と口を尖らせる彼方は全体重を預けてくる。


 肉体的だけでなく精神的にも疲れたからこうして甘えていると理解はするが、こんな人前でやることではない。

 あたしが「重い。汗臭い。暑い。死にそう」と言っても彼方はどこうとしない。

 フェイスガードとか付けたままだからかなり痛いんだけど……。


「大丈夫ですか?」と頭上から声を掛けられた。


 声の方を向くと日野さんとキャシーが立って見下ろしている。

 キャシーは何か言いながら自分の元気さをアピールしている。

 日野さんは「保科さんちょっといいかな?」とギャラリーのひとりを呼んで、何か指示をした。


「ちょっと失礼します」と呼ばれた中学生くらいの女の子が彼方の足をつかんだ。


 どうやらストレッチをするようだ。

 しかし、彼方はあたしの上にいる。

 これまで以上に体重が掛かり、あたしは「重い! もう無理」と悲鳴を上げた。


 キャシーは命の恩人だ。

 彼女が彼方の身体をあたしの上から持ち上げてくれたのだ。

 彼方は「はじめちゃんの上が良い!」と言っていたが、すぐに保科さんという子のストレッチを気に入り「気持ちいい」とうっとりした顔で言い始めた。

 あたしは立ち上がり、今日の練習試合の機会を与えてもらったことにお礼を述べた。


「良いものを見せてもらいました。こちらこそ感謝しています」


 日野さんはあたしに対しても非常に礼儀正しい。

 緊張気味のあたしと違い、横になってストレッチを受けていた彼方は緊張感のない声で「日野さんって忍者なんですか? 現代にも忍者がいるなんて知りませんでした」と口にした。

 彼方は田舎育ちで恐ろしく常識に疎いが、この発言はあんまりだろう。

 あたしは顔から火が出る思いだった。


 日野さんは周囲を見回したあと、あたしからタオルを、キャシーから飲みかけのペットボトルを借りた。

 そして、フタをしたペットボトルの上にタオルをかぶせる。

 何が起こるのかと見守る中で、日野さんがペットボトルを上から押さえるとそのままタオルは下に沈んだ。

 呆気に取られていると、日野さんがタオルを外してそこに何もないことを見せる。


 あたしは似たような手品をテレビで見たことがあった。

 それでも実際に目の前で見ると不思議すぎて言葉が出ない。

 一方、彼方は「スゴいスゴいスゴい!」と大はしゃぎだ。


 キャシーは自分のペットボトルが消えたことに怒っているようだった。

 驚くよりそこかよと思うが、キャシーは日野さんがそれくらい簡単にできると信じているのかもしれない。

 すると、ニコッと笑った日野さんがキャシーの手元を指差した。

 そこには先ほど消えた飲みかけのペットボトルがあった。


「ギャッ!」と叫んでキャシーが握っていたそのペットボトルを放り投げる。


 その反応はとても芝居とは思えなかった。

 宙に浮いたペットボトルを軽々と日野さんがつかむ。


「日野さん! 私も弟子入りしていいですか!」


 彼方が飛び起きていた。

 あたしも弟子入りしたい気分だった。

 もちろん忍者うんぬんは信じていない。

 だが、先ほどのペットボトルは……。

 あの時、キャシーの手元はあたしの視野のうちにあったのだ。

 それなのに気づかなかった。

 この技術が空手の試合で通用するかどうかは分からないが、知っておいて損はないと思う。


「ただの手品ですよ」と日野さんは微笑んでいる。


 それでも彼方はキラキラした目で日野さんを見ていた。

 こうなると彼女はてこでも動かないとこの1年の経験から知っている。

 どうしたものかと考えるあたしの横で、彼方のストレッチを手伝ってくれた少女が両手を胸元で合わせながら興奮気味に問い掛けた。


「弟子入りって、やっぱり戦って決めるんですよね。キャシーさんの時のように」




††††† 登場人物紹介 †††††


小谷埜はじめ・・・高校1年生。中学時代に東京代表として全中に出場した実力者。現在は極真系の空手道場に通っている。


大島彼方・・・高校1年生。小笠原出身。大会等への出場経験はない。師匠の知り合いが経営する空手道場ではじめと知り合った。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。令和元年の夏に来日し、それ以降空手に励んでいる。190 cm近い長身と黒人特有のバネを生かした身体能力の高さが武器。


日野可恋・・・中学3年生。空手・形の選手。手品を手品と思わない人間がキャシーのほかにもいるとは思いもよらなかった。


保科美空・・・中学1年生。この空手道場に通っている。トレーニングやストレッチについては可恋から仕込まれている。

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