第657話 令和3年2月21日(日)「驚きに満ちた世界」大島彼方

「弟子は取りませんが、明日で良ければお相手しますよ。予想最高気温が20℃を越えるそうですから」


 後半の言葉の意味は不明だが、日野さんとお手合わせができるとウキウキ気分で二日連続神奈川の空手道場に向かった。

 弟子の件に関しては、昨日の帰りにはじめちゃんから忍者は存在しないと耳にたこができるほど言われた。

 私が日野さんの手品を見てキャシーさんと同じように弟子にして欲しいと飛びついたことを恥ずかしく思ったようだ。

 私だって半信半疑だった。

 この現代に本物の忍者がいるなんて。

 ただ、東京のあの人の多さを見ると忍者のひとりやふたりいたっておかしくないように感じたのだ。


 そして、今日は空手道場で天使を発見した。

 天使だよ、天使。

 白のワンピースを着てそこに立っているだけなのに、周りの空気が澄んでいた。

 小笠原の大自然を前にしたときの神々しさのような……。


 兎にも角にも日野さんが忍者かどうか自分の目で確かめたいと思っている。

 世界は驚きに満ちていて、摩訶不思議なことだらけなのだから。


 その日野さんは現在はじめちゃんと対戦中だ。

 試合ははじめちゃんの優勢。

 日野さんはほぼ私と同じ体格だから女性にしては大柄だ。

 一方、はじめちゃんは小柄な部類に当たる

 これはパワーやリーチという点でかなり不利だ。

 それでもはじめちゃんは手数で押しまくり、相手に反撃の機会を与えていない。

 勝利まであともう少しなのに、その最後の一撃を日野さんは巧みに防いでいた。


 今日の練習試合は時間無制限で行われている。

 ほかは寸止め空手の組み手のルールだ。

 私はフルコンタクトのルールでもうまく戦えなくて、反則を気にして反応が遅れることがあった。

 はじめちゃんは中学までこのルールを経験しているので特に問題はないようだ。

 彼女は中学時代に東京代表に選ばれたほどだからかなりの実力の持ち主である。

 勝負に執着するタイプで、勝つためにフルコンタクトに転向したと話していた。


 日野さんの空手は形の選手らしく基本に忠実だ。

 覇気を前面に出すタイプではないようで、攻めよりも守りに強い印象を受ける。

 試合は長引き、焦れたはじめちゃんの強引さが目立ち始めた。


 ……あ、ダメ!


 見え見えの蹴りを受け止められ、がら空きとなった胸元に突きを決められた。

 押していただけにもったいない。


「はぁー。疲れた」


 戻って来たはじめちゃんは床にへたり込む。

 これだけ体格に差があるとどうしても小柄な側が疲労しやすい。

 優勢でも一撃で逆転がある空手だから油断できないためだ。


「お疲れ様。どうだった?」


「もっといろいろやって来ると思ったんだけどね。意外とオーソドックス」


 当然と言えば当然だが、忍者っぽさはどこにも見当たらなかった。

 空手の試合中に忍術を使われたらたまったものではないが……。


「彼方なら余裕でしょ」と言ってはじめちゃんが右手の拳を私の方に向ける。


「仇を取るね」と私はその拳にグータッチする。


 しばしの休憩のあと、私と日野さんの対戦だ。

 東京――いや、小笠原も一応東京だけど――の道場では男性を相手に練習試合をすることが多いが、女相手ということで手加減されているように感じる。

 私が勝利しても相手は悔しい素振りを見せない。

 師匠は子ども相手でも――自ら制約は課していたが――常に本気で戦ってくれた。

 女子は競技人口が少ないので本気で戦う機会が少ない。

 まして体格が互角な相手とは……。


 ルールは昨日のキャシーさんとの対戦同様かなりいい加減だ。

 この道場の師範代である三谷先生が審判を務め、空手として逸脱しない範囲ならOKという私にとってはとてもありがたいものだった。

 私は気息を整えはじめの合図を待つ。


 気合を込めた声と共に、私は正面に立つ日野さんに詰め寄る。

 小手調べに数度攻めを試みるが、どうやらはじめちゃんとの対戦と同じように彼女は自分からは仕掛けてこないようだ。

 練習であってもこうして対戦すると心が浮き立つ。

 昨日と違って1戦限りと聞いているので、すぐに終わってしまうと残念だ。


 とはいえ、いつまでも様子見を続ける訳にはいかない。

 集中を高め、一気に決めようと思う。

 いくつも手が浮かぶが、私らしくと思い奥義を繰り出す。


 ……縮地!


 相手との距離を一気に縮める移動法だ。

 古武術にいくつか種類があるそうで、私の縮地は師匠直伝だ。

 予備動作なしに前方に移動し、相手が手を出したところでカウンターを狙う。

 一気に距離を詰められると、相手の反応は数種類に制約される。

 それを逆手に取った戦法だ。


 しかし、日野さんの対応は私の予想を超えた。

 私の前から姿を消したのだ。

 慌てて誰もいなくなった前方に大きく飛ぶ。

 カウンターを狙うということは相手の動きをほんのわずかな時間ではあるが待つことになる。

 その狙いを察して日野さんは私の前から移動した。

 横か背後に回ったのだろう。

 その攻撃を避けるために私は距離を取るしかなかった。


 確かに昨日キャシーさん相手にも使ってみせた。

 それを一度見ただけでどんな意図か見破ってしまうとは。

 背筋に冷たいものが走る。


 距離を置いて向かい合う。

 日野さんからは仕掛けてこない。

 私は左足と左手を前に出した半身の姿勢を取る。

 これはこちらに来てからポイントを取るために私が編み出した技だ。

 一撃必殺の威力はないが、相手の虚を突くのでまず避けられない。

 ジリジリと距離を詰めていく。


 間合いに入った。

 この技を出せば勝てるはずだ。


 空手の試合とは思えないほど静かだった。

 互いの手を読み合うような頭脳戦。

 それに終焉を告げようと私は動く。


 だが、最後の最後に決断できなかった。

 もし見切られたら……。

 この技も昨日見せてしまっている。

 縮地は技の性質を読み解かれた。

 だから、純粋な攻撃であるこれは大丈夫だと思うのだが、躊躇ってしまう。


 私が仕掛けなかったことで日野さんが積極的に攻めに出た。

 力強さや速さは昨日のキャシーの方が遥かにある。

 しかし、力みがないので彼女の行動を予測することが難しい。

 技も正確で不用意に受けると簡単に1本を取られてしまいそうだ。


 この劣勢を挽回する奥の手はいくつかある。

 とはいえ、いまここで投入できるほどの練度ではない。

 それよりも私らしい戦いをしようと思い至った。


 日野さんの攻撃をギリギリで躱すと一気に懐に飛び込む。

 身体が触れ合うほど密着するこの距離こそ私の、いや師匠の空手の真髄だ。


 師匠はアメリカ兵相手に勝つことを極めようとした人だ。

 当然相手は銃を携帯している。

 火器を持つ相手、しかも巨体に勝つためにこの超接近戦を生み出した。


 この距離では相手の身体は一部しか見えない。

 私が注目するのは肩だった。

 足を上げれば肩は傾く。

 日野さんは試合中左肩がほんのわずかだが前目の位置にある。

 私はその左肩をつかんで押し倒そうとした。


 日野さんの右からの攻撃だけ警戒していた私は足を払われて前のめりに倒れた。

 どこからその足が飛んで来たのか分からない。

 私は彼女の肩をつかむことができなかった。

 たたらを踏む私は強引に仰向けに床に叩きつけられ、見上げた視界に日野さんの姿があった。


 ……完敗だ。


 悔しさに涙が溢れる。

 反則負け以外で生まれて初めて女の人に負けた。


 礼をして別れたあと、わたしははじめちゃんの胸を借りてわんわん泣いた。

 道場の中央では自分も戦うと昨日からずっとまくし立てていたキャシーさんが日野さんと対戦している。

 勝負はキャシーさんの一方的な勝利に終わった。

 肉を切らせて骨を断つといった感じだった。

 日野さんの攻撃は身体能力の高さを利用して有効打にさせず、その隙に反撃するという考えられたものだった。

 普通の人にはできない芸当だ。


 それでも日野さんが本気を出せばキャシーさんにも勝ったんじゃないかと思ってしまう。

 私との対戦中でもどこまで本気なのか分からない部分があった。

 はじめちゃんも私が縮地を使ったときに日野さんが攻めていればそこで勝負がついたかもしれないと訝しんでいた。


 3戦を終えた日野さんが天使を伴って私たちのところに来た。

 彼女は「落ち着かれましたか?」と気遣ってくれる。


「……あの」と私は口を開く。


「忍者の弟子ではなく、空手の弟子にしてくれませんか? 師匠……はもういるので、えーっと……先生はちょっと違うし、うーん……お姉様と呼んでいいですか?」


 適切な言葉が浮かばなかったので適当に言ったら周囲がざわめいた。

 特に天使は目をまん丸くしている。


「それはどうでしょう。……歳下ですから」


 日野さんが苦笑を浮かべる。

 ……えっ、いまなんて言った?


「歳下!?」


 私だけでなくはじめちゃんも声を合わせた。

 はじめちゃんは高校生か大学生じゃないかと推測していたけど、私はもっと上だと思っていた。

 だって、もの凄く落ち着きがあるし、貫禄だって……。

 とりわけ道着の上からでも分かる胸元は”お姉様”と呼びたくなる代物だ。


「これこそ忍術なんじゃない?」という私の呟きをはじめちゃんも否定しなかった。


 とにかく。

 都会は驚きに満ちた世界だ。

 私は改めてそれを感じた。




††††† 登場人物紹介 †††††


大島彼方・・・高校1年生。小笠原諸島出身。師匠は大正生まれだがいまも元気。『師匠! 東京には忍者と天使がいました!』と早速LINEを送った。


小谷埜はじめ・・・高校1年生。普段は策士なのに試合になると頭が空っぽになって攻めまくるタイプ。


日野可恋・・・中学3年生。買いかぶられているが、彼方に勝ったのは相性が良かったからだと自己分析している。


キャシー・フランクリン・・・G8。15歳。このあと彼方に再戦を挑んだが、負け続けた。


日々木陽稲・・・中学3年生。わたしとはデートに行かないのに同じ女性と会うために2日連続で道場に行くなんて! ということで今日はついて来た。

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