第384話 令和2年5月24日(日)「ただの買い物」山瀬美衣
「死ねよ、このクズ」
苛立った表情の姉が今日も暴言を吐く。
わたしが姉の方に顔を向けると「こっち見んな、クズが」と言われ、俯いたままだと「聞いてんか、クズ」と罵られる。
わたしは嵐が去るのをただじっと耐えて待つ。
「あー、もう日曜も終わりか」と姉が嘆く。
わたしは休校中で曜日の感覚がほとんどないが、私立中学に通う姉は土日以外はオンライン授業がある。
授業がある間わたしはこの子ども部屋を追い出され、ひとり廊下で過ごす。
それは平穏な時間ではあるが、オンライン授業が始まってから姉の機嫌が悪くなることが増えたので痛し痒しだ。
最近の姉はずっとこの調子でピリピリしている。
成績優秀で外面の良い姉は両親のお気に入りだ。
しかし、その両親は在宅ワークになってから喧嘩ばかりするようになった。
些細なことで怒鳴り合い、その矛先がわたしたち姉妹に向くこともある。
わたしは出来が悪いので「なんでお姉ちゃんのようにできないの」と散々言われてきた。
時には「お前なんか生むんじゃなかった」と溜息を吐かれることもある。
わたしはこの春から地元の公立中学に進学した。
と言っても入学式の日に行ったきりだ。
人見知りなわたしは小学生の時から友だちがほとんどいなかった。
中学でも学校がこんな状況では友だちなんてできないだろう。
「おい、クズ。飲み物」
姉の言葉にわたしはゆっくりと立ち上がる。
そんなわたしを見て、「ほんとトロいよなあ」と姉が顔をしかめる。
「さっさと行けよ」という言葉を背に受けて、子ども部屋を出て台所へ向かう。
ダイニングには母が座っていて、ひとりでお酒を飲んでいるようだった。
母はわたしをジロリと睨んだ。
わたしはビクッとして足をすくませる。
母は眉間に皺を寄せ、「早く寝なさい」と尖った声で言った。
わたしは「うん」と頷いてから、台所の冷蔵庫のところまで行ってそれを開ける。
しかし、姉の好きな飲み物は入っていなかった。
手ぶらで戻り、「なかった」と姉に告げると、「バカなの? 買ってこいよ」と怒鳴られた。
わたしが「でも、ダイニングに……」と言い訳しようとしたら、姉は机の上にあった自分の教科書をわたしに投げつけた。
届かなかったものの、わたしは恐怖のため両手を交差させて胸元を押さえた。
もう一度「さっさと行けよ」と、わたしは部屋を追い出された。
ポケットの小銭入れを確認すると、ギリギリジュース1本分のお金があった。
わたしはホッと息を吐き、そろりそろりと慎重に玄関に向かった。
スニーカーを履いて、音を立てずにドアを開ける。
なんとか気づかれずに済んだようだ。
わたしは近くのコンビニに向かって歩き出した。
夜の10時を過ぎている。
街灯が明るいので怖さは感じない。
それでも、悪いことをしていると思うせいかビクビクしてしまう。
わたしは辺りをうかがいながら静かな街中を歩いた。
コンビニには駐車スペースがあり、そこに中高生らしい男女が輪になって座っていた。
なるべくそちらを見ないようにしながら店の中に入る。
最近姉がよく飲んでいるジュースを手に取り、レジへ向かう。
見たところ店員はひとりだけで、お客さん相手にちょうどレジを打っているところだった。
わたしは少し離れたところに立ち、小銭入れからお金を取り出そうとした。
チャリーンと小さな音を立てて、小銭が落ちた。
運悪く、落ちた10円玉はコロコロと転がっていく。
これがないとお金が足りなくなると焦ったわたしは、急いで追い掛けようとして前のめりにドスンと転んだ。
ジュースを持っていた左手を庇うように左肘から落ちたので激痛が走った。
そのショックで右手に持っていた小銭入れもひっくり返してしまう。
……どうしよう。
わたしは床に寝そべったまま泣き出してしまった。
どんどん涙が零れてきて、起き上がる気力が湧かない。
レジを終えた客は足を止めることなく店から出て行った。
わたしはその足下だけを見ていた。
入れ替わりに客が入って来た。
その客のスニーカーがまっすぐわたしの方へ向かってくる。
「そんなとこで寝てると、店員に襲われるぞ」
頭の上から女の人の声が聞こえた。
すぐさま「誰が襲うか」と若い男の人の声が聞こえる。
わたしが上を見ると、レジから身を乗り出している男性の店員とわたしの横に立つ中高生くらいの女の子がわたしを見下ろしていた。
店員は「大丈夫?」と聞いたが迷惑そうな顔をしている。
女の子は「立てないなら表の連中に売り渡そうか」と笑い、店員は「たか良ならやりかねない」と一緒になって笑い出した。
ふたりが助けてくれそうにないと分かったわたしは、ぐずりながら立ち上がる。
著ていたスウェットは埃まみれだ。
顔も床についたので汚れているだろう。
右手の袖で目元をぬぐい、気持ちを落ち着ける。
わたしはずっと握り締めていたジュースをレジに置く。
そして、「お金が……」と蚊の鳴くような声で呟いた。
小銭入れをのぞき込むと100円玉もなくなっていた。
女の人が「そこ」と指差したところを見ると、100円玉が落ちていた。
わたしは慌ただしくしゃがんで拾う。
……でも、まだ足りない。
最初に転がっていった10円玉を探すけど、見当たらない。
わたしの目からは再び涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ツケにしとけよ」と女の子が言い、「できるか」と店員が返す。
「しゃーねーな」と言った女の子は「返せよ」と言ってポケットから10円玉を2枚手渡してくれた。
「……ありがとう」
勇気を出して小声で言うと、「貸しただけだ」と言って彼女はそっぽを向いた。
「ワルがほんの少し良いことをしたら、ものすげー良いことになるってヤツだな」と店員のお兄さんが笑っている。
「うるせえ、殺すぞ」と突然凄んだ声が少女の口から出た。
店員は一瞬で表情を変え固まった。
わたしは自分が言われた訳じゃないのに、怖くて足がガクガクと震えた。
この人に死ねと言われたら、本当に死ぬことができるんじゃないかと思うほどの声だった。
わたしは彼女から「さっさと帰れ」と言われるまで呆然と立ち尽くしていた。
お金を払い、ジュースを手に家へと急ぐ。
ジュースが温くなっていたことに気づかなくて姉にまた罵倒されたけど、さっきの人に比べたらとマシだ。
自分で死ぬ勇気がないわたしは、あの人に殺されたいと心から願った。
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