令和元年7月

第56話 令和元年7月1日(月)「家庭訪問」小野田真由美

 今週1、2年生は家庭訪問が実施される。

 1日目の今日、最後の訪問先は日野さんの自宅だった。


 中学校の正門前に聳えるマンション。

 入り口で来訪を告げると、日野さんが応じてくれた。


 公立中学校の教師を30年続けていれば、家庭訪問に訪れたお宅は数え切れないほどに及ぶ。

 かなりの豪邸もあったし、貧しい家庭もあった。

 親の職業も千差万別であり、おおっぴらに人に言えない職の方もいれば、こちらが気後れしてしまうような肩書きの方もいる。

 そういう人はたいてい私立に通わせるが例外もいるものだ。


 これから会う相手は一流の私大で教授の職に就いている女性だ。

 テレビで見かけることはあまりないが、フェミニズム等に関心を持っていればその名を知らない人はいないだろうという存在である。

 著述も多く、研究や支援などの実績も多彩。

 私よりも年下だが、こうした活躍に対し尊敬に値すると思っている。


 それでも玄関をくぐると、どんな相手でも生徒の親だと気持ちを切り替える。

 広い居間に案内され、日野さんの母親と向かい合って着席する。

 日野さんは熱いお茶を淹れると、自分の母親の隣りに腰掛けた。


 簡単な挨拶を交わした後、「娘がご迷惑を掛けていると思いますが……」と母親が切り出した。

 謙遜の言葉というより、確信に近い言い方だった。


「いえ、学級委員として積極的にクラスを運営してくれていますし、学校行事にも熱心に参加してくれて助かっています」


「前の学校では他の子たちとあまり関わりを持とうとせず心配していたんですが、こんな風に関わったら関わったで心配が増えて困ります」


 母親が娘を見ながら憂い顔で言った。


「お母様にあまり心配を掛けないようにしてください」


 私は日野さんにそう声を掛けたが、それが気休めのようなものだと感じている。

 彼女自身事を大きくしたいと望んでいなかったと思うが、彼女が優秀なだけに事が大きくなってしまうという側面がある。

 キャンプの件も盗撮だけを辞めさせれば大事おおごとにはなっていなかったが、谷先生にまで累を及ぼそうとしたがゆえに大事おおごとになった。

 本当なら彼女に存分に力を振るわせた方がいいのかもしれない。

 しかし、日本の公教育の中でそれは難しいと言わざるを得ない。


「気を付けます」と日野さんが淡々と答える。

 大人たちの心配など彼女にとっての優先順位は低そうだ。


 日野さんの家での生活振りを伺うと、「私より日々木さんのご両親の方がこの子と接する時間が長いかもしれません」と言われた。

 知り合ったのは2年生になってからと聞いているので、1つの学期が終わらないうちにここまで急速に親密になったのかと思った。

 もちろん、子どもの世界ではよくあることだし、今のところふたりにとってプラスの影響の方が大きいだろう。

 親御さん同士も交流があるようだし、日々木さんの家庭訪問でもふたりの交友関係の深化は取り上げておくべきだろう。


「高校進学については考えていますか?」


「臨玲に行こうと思います」


 中2のこの時期の家庭訪問でもっとも重要な話題が高校進学であり、志望校についてだ。

 聞かれると予想していたのだろう、日野さんは即答した。


「よろしいんですか? 彼女の実力ならもっと上の高校を目指せますが」


 臨玲は歴史や伝統しか売りがないと言われる女子高だ。

 宗教系ではなく、小中や大学との連携もない。

 昔はお嬢様学校としてのステータスで人気を誇ったが、今では授業料の高さに入れる家庭が限られているから選択されるなどと言われている。

 最近ではそれすら怪しくなってきたが……。


「本人が決めたことですから」と母親は意に介しない。


 臨玲から母親の大学に進むのは相当厳しいだろうと思うが、日野さんなら難なくやってしまいそうなのでそこは言及しない。


「最近、臨玲はいい噂を聞きません。ここだけの話ですが、上層部が権力闘争をしているだとか、親の権力を笠に着ている生徒がいるだとか」


「だからこそ、行くんです」


 日野さんがニコリと微笑んで言った。


 日々木さんが臨玲を志望していることは私も聞いている。

 祖父との約束だそうだ。

 この程度の噂話で約束を違えることは難しいだろう。

 日野さんと日々木さんとの関係が変わらない限り、日野さんの気持ちが変わるとも思えない。


「お母様はよろしいのですか?」


 それでもあえて母親の気持ちを確認しておく。


「この子が幼い頃、何度も何度ももうダメかと思う時があったんです。今まで生きてくれたことが奇跡だと思えるほどに。時々、この子が生きているのが夢なんじゃないかって思うんですよ」


 そう語る母親の顔は、様々な悩みの果てに到達した悟りの表情に見えた。


「今は、互いに好きに生きていこうと思っています。陽稲ちゃんとの出会いはこの子にとって一生の宝物みたいなものだと思うので、それを大事にしてくれたらいいですね」


 この母子の関係を放任主義と非難するのは容易い。

 だが、ここまで積み重ねてきた重みを私は感じた。

 家族の形なんて本当にそれぞれだ。

 そこに正解はない。


「ホント生意気に育っちゃって」と母親が笑うと、日野さんがむくれた顔を見せる。

 普段めったに見せない子どもっぽい表情に私の頬も緩んだ。


 家庭訪問自体はそれで終わりだったが、日野さんは自分が考えている今後の計画について語ってくれた。

 私が彼女を評価している最大のポイントがここだ。

 過去にも優秀な生徒は何人も見て来た。

 しかし、そのほとんどは自分の力でやり遂げようとした。

 友だちを頼ることはあっても大人の力を利用しようとする者はほとんどいなかった。


 彼女は積極的に情報を出してくれる。

 それであとは大人に任せるというのではなく、必要なサポートを求めてくる。

 キャンプの時も教師ができたサポートはわずかだったが、彼女からの情報があったから事後対応の準備を整えることができた。


 それだけに情報共有される大人側の責任は重大だ。

 信頼に応えられなければ、いつか見切られてしまうかもしれない。

 私や校長が学校を去る来年度にどう備えておくかが私の大きな課題だ。

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