第462話 令和2年8月10日(月)「天才の苛立ち」澤田愛梨

「どうしたの、イライラして」と部長の阪本に指摘されたボクは顔を歪めた。


「どうもしない。ほっといてくれ」とつっけんどんに返すと、「頭を冷やして来なよ」と彼女はクーラーボックスの置かれた一角を指差した。


 学校のグラウンドはまだ午前中だというのに焼けるようだ。

 昼前に練習が中止になってもおかしくない日差しだった。

 ボクは腕で額の汗を拭うと、ドリンクを取りに行くのではなく手洗い場に向かった。

 水道の蛇口を勢いよく捻り、頭から水をかぶる。


 昨日は散々な1日だった。

 日々木さんと碌に話ができなかったのだ。

 話し掛けようとするとことごとく日野が割って入った。

 思い返しただけでムシャクシャしてしまう。

 時間が経つにつれて苛立つボクに対し、高月はあっさりと白旗を揚げた。

 お昼の頃には日野の気を引くことを諦め、ボクや津野とばかりお喋りしていた。


 しかも、だ。

 帰り際に「日野のことが好きじゃなかったの?」と尋ねると、高月は「そんな訳ないじゃない」とボクを嗤った。

 この前は思わせぶりな態度を取っていたのに、あれはボクを騙すためだったようだ。


 ……バカにしやがって。


 水をかぶった程度ではこの怒りは収まらない。

 日野と高月の顔が頭に張り付いて離れない。

 昨夜は寝つけず、天才のボクを怒らせたことを必ず後悔させてやると何度も誓った。

 今日の陸上部の練習もこんな有様で、一向に集中できない。


 振り向いてグラウンドを眺める。

 そこでは男女の陸上部の練習が行われている。

 総監督の怒鳴り声以外では阪本の声がもっとも多く耳に入ってきた。

 技術的な指導ではなく、集中するようにだとか、暑さに気をつけるようにだとか、そんな注意の言葉がほとんどだ。

 この中学は県下ではそれなりの強豪として知られ、その女子のキャプテンを務めているのだから阪本の実力もかなりのものだ。

 ボクや宇野には見劣りするけど。

 それでも満場一致で部長に選ばれ、顧問の信頼も厚い。

 その阪本は自分の練習そっちのけでこうして部員の動きに気を配っていた。


 ……練習を頑張ったところで結果を出す大会があるかどうかも分からないしね。


 県内の大会は次々と中止になり、今後予定されている大会だって開催されるかどうか不透明だ。

 3年生はこの例年とは異なる状況で引退の時期の見極めが必要だった。


「どうしたのさ?」と阪本から声を掛けられた。


 もの思いにふけっているうちに阪本の側まで来ていた。

 彼女は特にボクを心配する様子でもなかったので、その横に立って「別に」と答えた。


 しばらく互いに声を出さなかった。

 ボクは口を開くのも億劫という感じだった。

 だから、沈黙を破ったのは阪本だ。


「いつもの醒めた顔をした愛梨より、いまの愛梨の方がいいね」


 ボクは驚き半分、なに言ってんだコイツという気持ち半分でギョッとした顔になった。

 だが、阪本はこちらを見ることなく言葉を続けた。


「愛梨っていつも力をセーブしていたでしょ。負けても悔しがらないし」


 こんなことを面と向かって言われたのは初めてだ。

 隠していたはずなのに、阪本に見抜かれていたとは。


「本気を出せば勝てるって顔をした愛梨じゃつまらないもの」


 ようやくこちらを向いた阪本は屈託のない笑顔だった。

 ボクはムッとする。

 実力を発揮すれば嫉妬の嵐が凄いからこういう風になったのだ。

 つまらないなんて言われる道理はない。


「私だって宇野の真似はできないって思っているよ」


 ボクがそう言うと阪本はボクの顔をのぞき込んだ。

 その視線が嫌で、ボクは顔を背ける。


「そうは言うけど、都古にだって勝てると思っているでしょ」と彼女は見透かしたように言う。


「イライラの原因は陸上のことじゃないのね。まあ、いろいろあるよね。そういう時は誰かに話すと楽になるよ」


 知った風な口をきく阪本をボクは睨んだ。

 話し掛けるなオーラを出していてもコイツは懲りることなくボクに話し掛け続けた。

 終いにはボクが折れてしまった。

 ボクが睨んだところで怯むような奴じゃない。


 フンと鼻を鳴らす。

 ボクは天才だ。

 他人の力なんて当てにしない。

 自分の力ですべてやり遂げてみせる。


 阪本に話せば、そんなプライドが打ち砕かれてしまうような気がした。

 自分が弱くなるんじゃないかと恐れた。

 一方で、この胸の中に蠢くものをどうすればいいかボクは途方に暮れていた。

 際限なくボクを苦しめそうだった。

 この真夏の日差しをも上回る業火にボクの心は焼け尽くされそうだった。


 阪本はボクの葛藤をヨソに時折後輩に声を掛けている。

 しかし、ボクの側を離れようとはしなかった。

 暑さのせいで魔が差したのかもしれない。

 ボクの口から「後輩からはキャーキャー言われるのに……」と不満が零れ出た。

 そんなことを言うつもりは全然なかったのに。


「愛梨は遠くから見ている分には格好良くて、憧れるのにちょうど手頃な存在だからな」


 それだけで何かを察したらしい阪本が応じた。

 ボクは手頃という物言いに眉をひそめる。


「15にもなりゃ、ソイツがどういう奴かだいたい分かるようになってくるものさ」


 前を向いたままそう語る阪本の顔は大人びて見えた。

 ボクは何も言えずに黙り込む。

 目の前の相手は何かを思いついたという顔でこちらを向き、「たまには後輩の指導でもしてみたらどうだ」とニヤリと笑った。


 いままでの話の流れと後輩の指導にどんな関係があるのか理解不能だ。

 だが、さすがのボクもここで部長の提案を断ることはできない。

 阪本なりに考えがあってのことだろうから。

 ボクは自分にメリットがないと思い後輩の指導なんて一切関わってこなかった。

 いきなりやれと言われてもうまくできるかどうか分からない。

 そんな不安をおくびにも出さず、ボクは「少しなら」と請け負った。


「手が空いている1年2年、集合!」と阪本が右手挙げて部員に呼び掛けた。


 声の大きさには定評のある部長だけあって、かなり遠くの生徒も気づいたようだった。

 ぞろぞろと下級生たちが駆け寄ってくる。

 その顔は何が起こるのかと不審がっているようだった。


「これから澤田大先生がみんなの指導をしてくださるそうだ。聞きたいことがある人!」


 阪本は面白がっていた。

 今更あとには引けないボクはムスッとした顔で横に立つ。

 最初は戸惑っていた下級生たちは顔を見合わせていたが、ひとりが挙手すると続けて何人かが手を挙げた。


「はい」と阪本が目配せすると2年生の部員が「フォームのことで……」と質問してきた。


 ボクは天才だ。

 後輩の指導なんて簡単にやってのける力はある。


 そんな思いがあったせいか、つい熱が入ってしまった。

 自ら手本を示しながら質問に答えていく。

 下級生たちも次々と質問してきた。

 こんなに話したのは初めてかもしれない。

 いつの間にか3年生部員もニヤニヤとこちらを見ていた。

 結局練習終了の時間までボクの指導は続いた。


「さすが愛梨。都古は言葉で説明できないから指導には向いてないんだよね」と阪本はボクの指導を評した。


 宇野ならまあそうだろう。

 そんなところで勝っても嬉しくない。


「また質問してもいいですか?」と後輩から声を掛けられ、ボクは「機会があればね」と答えた。


 阪本は「機会なんて作ればいくらでもできるだろ」と簡単に言う。

 指導に夢中になって日野や高月のことは頭から消えていたが、メリットなんてそれくらいだ。

 ボクがわざわざやる義理はない。


「何の意味があったの?」と問うと、阪本は「ホントは自分で考えなって答えるところだけど……」ともったいぶった上で、「優しい部長だから教えてあげる」と笑った。


「他人に真剣に向き合って欲しければ、自分も他人に真剣に向き合わなきゃいけない。それだけの話さ」




††††† 登場人物紹介 †††††


澤田愛梨・・・3年1組。陸上部。自称天才。実際頭も良く運動能力も高い。クラスメイトの日々木陽稲と仲良くなりたいと願っていたが前日のハイキングでは日野可恋に妨害されて望みを果たせなかった。


阪本千愛・・・3年2組。陸上部女子部長。面倒見の良さで知られている。


宇野都古・・・3年1組。陸上部のエース。陽稲と仲が良い。

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