第289話 令和2年2月19日(水)「幼子」日野可恋
家に帰ると赤ちゃんがいた。
「ママァ」
私たちがリビングに入るとその子は大きな声を上げた。
赤ちゃんと呼ぶには少し大きいかもしれない。
リビングの奥のソファに私の母とひとりの女の人が腰掛けていた。
「可愛い!」
私の隣りで目をキラキラ輝かせて子どもを見ているひぃなではなく、そのひぃなを見た女の人の発言だ。
「先生のお子さんですか?」
「私の娘は可愛げのない左の子よ」と母が笑って答える。
ひぃなを真ん中に挟んで私と純ちゃんが立っている。
女の人は私と純ちゃんの顔を見比べて首を傾げていた。
私はスッと近付き、「いらっしゃいませ。娘の可恋です」と挨拶する。
彼女は胸元でポンと手を叩き、「初めましてー、大槻出雲です!」と名乗った。
近くで見るとかなり若い感じがした。
おそらく二十歳前だろう。
服装も高校生の私服という感じで大人っぽくはない。
ひぃなが「この子、構ってあげていいですか?」と尋ね、母親の承諾の下、「こんにちは~」と声を掛けている。
私はその様子を横目で見ながら、母の説明を待った。
「以前、話を聞いた子で、今度こっちで暮らすって聞いていたのよ。仕事の面接やサポートしてくれるNPOの引き継ぎに来たんだけど、彼女が泊まる予定だった友だちのところに男が居着いていて、しかもすぐに手を出す感じだったようなの」
宿泊と少しの間子どもを預かってもらう予定だったのだが、怖くなって母に助けを求めたそうだ。
母は女性の社会問題を扱っており、フィールドワークが専門のためこうした女性たちと関わる機会が多い。
しかし、余程のことがない限り仕事を家に持ち込むことはしない。
「今回はどこも手が空いてなくて、明後日までうちに泊まってもらうことにしたの。悪いわね」
「分かった」と短く答える。
「ホント、ごめんね!」と大槻さんが両手をすりあわせて拝むように謝ってくれた。
「気にしないでください。ただ子どもの世話は……」と不安を口にすると、「明日は先生の知り合いの方に預かってもらえることになっているのよ! ホントに先生には何から何までお世話になって……」と彼女は恐縮した姿を見せた。
「お子さんのお名前はなんて言うんですか?」とひぃなが大声で尋ねた。
「
しかし、それを聞いた母の表情には陰りがある。
大槻さんが自分の娘のところに行った間に母から事情を聞いた。
15歳の時にあの子を産み、大槻さんは現在18歳になったばかりだそうだ。
娘は二歳半。
父親は高校の先輩で、最初は結婚して面倒を見ると話していたが、何かと理由を付けて逃げるように自分の実家に戻ったらしい。
「暴力を振るわないだけマシだったけどね。いまは一浪して大学生になったと聞いているわ」
向こうの親から一時金のようなものは支払われたが、彼女は高校を中退して親元で子どもを育てていた。
地元では悪い噂が立っているので、こちらで就職を希望したという。
こういう話は母から山ほど聞いているが、当事者を目の前にすると複雑な思いに捕らわれる。
私ももうすぐ15歳になる。
自分のDNAを残すことが人の存在理由だとしたら、子どもを産めない可能性が高い私より彼女の方が優秀だ。
大槻さんとひぃなが子どもをあやす様子を眺めていた。
ひぃなは時間を忘れて子どもに夢中になっている。
学年末テストが今日から始まり、主に純ちゃんの勉強をみるために帰りに私のマンションに立ち寄ったのだが、すっかり忘れているようだ。
純ちゃんはひぃなの側に突っ立ったままだ。
そろそろ口を挟もうかと考えていたら、ひぃなの容姿に強い関心を持ちいろいろと質問していた大槻さんが自分のスマホを取り出した。
自分の娘をあやすひぃなにスマホを向けたタイミングで私が動いた。
「すいません、撮影は禁止です」
私はふたりの間に割って入った。
笑顔を作り、同じ言葉を繰り返す。
「え?」と彼女は私を見上げ、次いで母の方に視線を向けた。
「ここに居る間は可恋の言葉に従ってね。彼女がこの家のボスだから」
最近、ボスだの番長だの魔王だのと厳めしい呼び方をされることが多い。
否定せずに放置していたら、また変な噂が流れているようだった。
それはさておき、私はニッコリとした笑顔で「片手でスマホを握りつぶすパフォーマンスをご覧になりたいですか?」と語った。
大槻さんは驚いた顔で首をブンブンと横に振り、「ごめん、悪かった! もうしない」と言ってスマホをポケットにしまった。
さっきの様子だと、自分の娘の写真などをSNSに投稿しているのだろう。
それがすぐに大きなリスクになる訳ではないが、ある程度の自覚は必要だ。
個人が特定されたら周囲に迷惑を掛けたり、場合によっては仕事を失ったりすることも考えられる。
幼い子どもの笑顔ですら、不快に感じる人がいないとは限らない。
他人の幸せに妬みや嫉みを抱く人は少なからずいるのだから。
「申し訳ありませんが、マンション内での写真撮影はご遠慮ください。SNSをご利用ならお子さんのためにリスクなどを勉強されるといいですよ」
上から目線かとも思うが、忠告しておく。
「さすが先生の娘さんだねー」と変な感心のされ方だったが、「お世話になるんだからルールは守るよ」と請け負ってくれた。
「ひぃな、勉強は?」と声を掛けると、ひぃなはハッとして顔を上げたが、私を見て「純ちゃんのこと、お願い!」と丸投げしてきた。
どうやら幼子と関わるのが楽しくて仕方がないようだ。
試験期間中だが自分の勉強なら夜に頑張れば問題ないだろう。
私は肩をすくめ、純ちゃんをダイニングのテーブルに連れて行き勉強を教える。
リビングではひぃなが赤ちゃんになったかのような言葉で話し掛けている。
その微笑ましさの一方、ソファに戻った大槻さんはまたスマホを取り出してその画面に視線を落としていた。
家の中で子育てに追われていた彼女にとってSNSは大切な外との繋がりなのかもしれない。
ただ危うくは見える。
母も同じ気持ちなのだろう、少し心配そうに大槻さんを見つめていた。
ひぃなに懐いたように見えるこの可愛らしい幼子が不幸な目に遭いませんようにと私は祈ることしかできない。
私も母も彼女たちの人生に関われることはごくわずかで、してあげられることなんてほとんどない。
ひぃなの悲しむ顔は見たくないから、大槻さんのSNSを確認してダメ出しくらいはしておこうと私は心に決めた。
††††† 登場人物紹介 †††††
日野可恋・・・中学2年生。4月上旬に15歳の誕生日を迎える。子どもは苦手。
日々木陽稲・・・中学2年生。日本人離れした容姿の持ち主。3月下旬に14歳になる。
安藤純・・・中学2年生。長身の可恋よりも背が高く、筋肉をまとった競泳選手。陽稲の幼なじみ。
日野陽子・・・可恋の母。某超有名私立大学教授。昨年度までは関西の大学にいた。
大槻出雲・・・高校を中退し親元で娘を育てていた。周囲の視線が厳しいことなどを理由に上京を希望した。泊まる予定だった友人はSNSで知り合った人。
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