第349話 令和2年4月19日(日)「暇つぶし」久藤亜砂美

 私が近藤家に来て間もなく2ヶ月となる。

 ようやくここでの暮らしにも慣れてきた。


「ヒマね」と近藤さんが呟いた。


 4月に入ってから午前中に家の掃除を行い、午後は近藤さんに勉強を教わっている。

 それまでは夜に勉強していたが昼間の疲れからすぐに眠くなり効率が悪かった。

 家事の手伝いがそれなりにできるようになったことや近藤さんが勉強の時間を増やしたいとお祖母様に訴えたことで肉体労働からある程度解放された。


 近藤さんは公立では県内トップの高校に進学し、先日入学式を終えた。

 その後は休校となり、ずっと家にいる。

 オンライン授業の準備が進められていて、2、3年生はすでに一部実施されているそうだ。

 新入生は郵送された課題をするように言われていて、近藤さんは午前中を自分の勉強の時間に充てている。


「高校の課題は難しいですか?」と尋ねると、ジロッと私を睨んで「まだ授業が始まっていないから中学の復習だけよ」とつまらなそうに答えた。


「そういえばお姉様は苦手な科目はあるのですか?」


 5教科満遍なく高い点数を取るので苦手なんかないという答えが返ってくると思っていた。

 しかし、予想に反して近藤さんは「国語ね」と告白した。

 私はその返答にわずかに眉をひそめる。

 得意科目だと思っていたからだ。


「試験ならコツをつかめば安定して点は取れるわ。だけど、本質を理解しているかは心もとないわね」


 私も学校の成績は良い方だが、近藤さんの言葉は理解に苦しむ。

 科目によって好き嫌いはあるし、それと点数の取りやすさは一致しないことは分かる。

 近藤さんの話はそこから更に踏み込んだものだろう。


 答えようがなかった私は「得意科目だと思っていました」と本音を口にする。

 近藤さんはふっと鼻で笑い、「苦手意識があるからコツをマスターしたのよ」と自嘲気味に話した。


 私は中学2年生になった。

 クラス替えの結果2年1組となり、親友であるハルカは4組となってしまった。

 予想はしていたことだ。

 1年生の時に悪目立ちしすぎた。

 もう少しうまくやれたら良かったが、不良のハルカはどうしても警戒されてしまうのでどうしたって引き離される結果になっていただろう。


 グループの中で同じクラスになったのはマホひとりだった。

 ハルカ抜きでクラスの中心になれるかどうか不安だったが、ハルカの相棒という周りの認識が思った以上に浸透していて何とかなりそうな気配だ。

 中学も始業式だけで休校に突入したが、何人かと連絡先を交換し、新たなグループを作ることができそうだった。


 小学生の頃、私はクラスの中でいるかどうか分からないようなおとなしい少女だった。

 近藤さんのアドバイスとハルカのお蔭で私の学校でのポジションは一変した。

 近藤さんは、自分は友だちを作ろうとしない人なのに、クラス内の人間関係を観察して、どう振る舞えば他人を支配したり優位な地位を築いたりできるかに興味を抱いていた。

 それを、私を使って実験した。


 一方、ハルカとは初対面からなぜか気が合った。

 ハルカは手がつけられないような不良だ。

 たぶん私が普通とはかけ離れていたから話が噛み合ったのだろう。

 彼女の友だちというだけで私に反抗的な態度を取る学生はいなくなったし、その立場を利用して私は好き放題できた。


 私の部屋の引き戸がスッと開いた。

 お祖母様の姿がそこにあった。

 いつものようにピッタリと和服を着こなしている。


「買い物に行って参ります」


 私はすぐに立ち上がり「お供しましょうか?」とお伺いを立てるが「結構です」と断られた。

 お米やお酒は配達してもらっているが、それ以外は基本的にお祖母様が買い物に行く。

 何度かお供したが、ほとんどはお祖母様ひとりで行っていた。


 お祖母様の姿が見えなくなると、近藤さんがおもむろに立ち上がった。

 フラッと部屋を出て行く。

 しばらくして戻って来ると、いつもの私の対面ではなく私のすぐ横に腰を下ろした。


 この家で鍵が掛かる部屋はトイレくらいだ。

 近藤さんの部屋ですら鍵がついていない。

 そんな息が詰まる環境を逃れて近藤さんは私のボロアパートによく来ていた。

 だが、もうそこに部屋はない。

 お祖母様の目を盗むにはこの時間しかなかった。


 近藤さんが身体を寄せてくる。

 今日は暑いくらいだったので私はブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織っていた。

 近藤さんはスウェットの上下。

 彼女は強引に私のカーディガンを脱がせ、ブラウスのボタンに手を掛ける。

 私はなすがままにされていた。


 ブラウスのボタンがすべて外されたところで、ドタドタと廊下を歩く足音が聞こえた。

 私は慌ててはだけた胸を両手で押さえる。

 近藤さんは私の肩に手を置いて、ゆっくりと立ち上がった。

 容赦なく体重を掛けてくる。

 かなり腹を立てているようで、爪を立てられなくて良かったと私はこっそり息を吐いた。


 近藤さんは廊下に出た。

 私もあとを追う。

 そこにはお祖父様がいた。

 近藤さんにしがみついて何かブツブツと呟いている。


 お祖父様は認知症を患っている。

 近藤さんによると、もう少し早く治療を始めていたらよかったのにお祖母様がなかなか首を縦に振らなかったそうだ。

 お祖母様がいる時にはそう目立つ行動はないのに、お祖母様がいないと不安なのかあちこち歩き回ったり、大きな声を出したり、予想のつかない行動をしたりする。


 近藤さんが子どもをあやすようにお祖父様に話し掛けている。

 お祖父様の部屋に連れて帰ろうとしているが嫌がっているようだ。

 私は近づこうとしたが、それに気づいた近藤さんが自分の部屋に戻るように視線を送った。

 考えてみれば私のブラウスがはだけたままだ。

 私は急いで部屋に戻り、ボタンを留め、乱れた服装を直す。

 まだお祖母様が帰ってくるまで時間はあると思うが、用心に越したことはない。


 私はこの家に来て2ヶ月近く経つが、お祖父様とふたりきりになったことがない。

 お祖母様も近藤さんも私をお祖父様から遠ざけていた。

 以前、近藤さんからお祖父様とお祖母様の介護目的で私を引き取ると言われたが、いまのところそうした仕事は皆無だった。


 それにしても……。

 私は元気だった頃のお祖父様の記憶がほとんどない。

 何度か顔を合わせていたはずだが、あまり記憶に残っていなかった。

 だから、この家に来てしばらくは認知症がどんなものなのか分からなかった。

 普通に元気そうに見えていた。

 たいていのことはひとりでできていたし、普通に会話もできているように感じていた。

 一緒に暮らすうち、徐々にそうではないことに気づいた。

 私や近藤さんをお祖母様や自分の実の娘と間違うことが多い。

 同じ会話を何度も何度も繰り返す。

 私が誰だか分かっていない。

 近藤さんのことだって分かっていないようだった。

 そして、急にカッとして手を振りほどいたりする。

 正直、私ではどう対処していいか分からなかった。


 身なりを正し、トイレに向かう。

 トイレを出たところで近藤さんと会った。

 彼女は私の顔を見て大きな溜息をつき、ガックリと肩を落とした。

 すれ違う時に近藤さんは「今度ラブホ行こうか」と私の耳元で囁いた。

 ギョッとして彼女の顔を見ると、「冗談よ」と苦笑してトイレのドアを閉めた。




††††† 登場人物紹介 †††††


久藤亜砂美・・・中学2年生。貧しい母子家庭だったが近藤家に引き取られることになった。


近藤未来・・・高校1年生。両親が離婚後、母方の祖父母に育てられている。早くこの家を出たいと願っている。


小西遥・・・中学2年生。普通のサラリーマン家庭だが家族関係は機能していない。

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