第348話 令和2年4月18日(土)「相談」辻あかり
「家出……しようか」
あたしがそう言ったときのほのかの表情はよく見えなかった。
薄暗がりだったし、彼女が視線を落としていたから。
ただ、あたしの腕にしがみつく力はハッキリと分かるほど強くなった。
しかし、そうは言ったもののすぐに家出なんてできる訳じゃない。
何の準備もしていない。
ダンス部の自主練という体裁だから学校のジャージのまんまだし、持っているのはスマホとハンドタオルくらいだ。
何よりお腹が空いていて、いまにもお腹が鳴ってしまいそうだった。
「とりあえず、いまは帰ろう」
あたしの提案にどんな反応をするか気が気ではなかったが、ほのかは小さな子どものようにコクリと頷いた。
あたしがほのかの手を引くと今度はおとなしく従った。
あたし以上に苦しんでいることに気づいてはいた。
だけど、ここまでとは。
あたしはどうしていいか分からず、ひたすら「部長、どうしたらいいですか?」と心の中で叫びながら歩いた。
そして、一夜が明けた。
昨夜から降り続く雨がいまも激しく降っている。
昨夜はLINEでほのかと家出の計画を練り上げた。
とは言っても、行く当てはない。
全国に非常事態宣言が出されていて、フラフラと歩いているだけで補導されてしまいそうだ。
いかにも中学生ってふたりが泊まれる場所はないだろう。
こんな状況だから友だちの家に泊めてなんて言えるはずもない。
ネットカフェも営業自粛という話だ。
……八方ふさがりだよなあ。
夜は寝つけなかったので、かなり寝過ごした。
お母さんと顔を合わせたら嫌味のひとつも言われるだろう。
ずっと布団の中に潜り込んでいたいけど、お腹が空いた。
こんなに大きな悩みを抱えているのに、どうしてお腹は空いてしまうのだろう。
「あれ、お母さんは?」
居間に行くとお母さんの姿が見えなかった。
狭い家なので、いたら分かる。
「ああ、美容院に行った」と炬燵に座りスマホをいじっていたお父さんが顔を上げて答える。
こんな土砂降りの中を?
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。
「サービス券の有効期限が切れそうだと言って慌てて出て行った。こんな天気だし、朝一なら空いているだろうって」と教えてくれた。
「……ふーん」と口の中だけで呟く。
あたしは肩まで伸びた自分の髪に無意識に触れた。
進級に合わせて切るようにお母さんから言われていたけど、そんな気分になれず伸ばしたままだ。
小学生まではよくお母さんに髪を揃えてもらった。
いまはそれでもいいかなと思う。
「あかりは背が伸びたな」と突っ立ったままのあたしにお父さんが言った。
ここ半年ほどでかなり急激に伸びている。
成長痛を感じることもあった。
「どうだ、昼過ぎにでもみんなで服を買いに行くか?」
こんな時でなければ飛びついた提案だろう。
実際に着れなくなった服が結構ある。
昔は家族でデパートによく行った。
その時の楽しかった記憶が蘇る。
「うーん……、いまは……」とあたしの返事は歯切れが悪かった。
お父さんは「そうか」と言って視線を落とす。
あたしは台所へ行き冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。
深めの皿にグラノーラをたっぷりと入れ、牛乳を注ぐ。
それとお母さんが作り置きしてくれたサラダを炬燵へ持って行く。
更に、食パンにスライスチーズを載せてトースターに放り込む。
これだけ食べても満足できないくらいだ。
体重は増えたが、身長も伸びているのでバランス的にはギリギリセーフのはずだ。
黙々と朝食をお腹に収め、自分の部屋に戻る。
居間と違い、ここは雨の音がうるさいくらいに聞こえてくる。
うちは壁が薄いので話し声が筒抜けになるが、この雨音ならかき消えるだろう。
あたしはスマホを睨みつける。
正直、自分ひとりではほのかの件は荷が重い。
相談する相手が欲しかった。
とはいえ、そんな相談ができる相手は限られる。
親友と呼べる存在はほのかが初めてだった。
真っ先に浮かぶのは部長の顔だ。
もっとも信頼できる相手。
しかし、部長に相談したら大問題になってしまうような気がした。
いや、家出がバレても大問題になるんだろうけど……。
二の足を踏んだあたしは別の人物に電話を掛けた。
「いま、いい?」
「ええけど、どうしたん? 電話なんて珍しいやん」
琥珀ならほのかのこともよく知っている。
まずは同学年で対処しようとあたしは考えた。
「実はさ……」
あたしはこれまでのいきさつを話した。
ほのかの父親が会社を解雇され、家にずっといて、ほのかに暴言を吐いていること。
夜は夫婦喧嘩が絶えないこと。
落ち込んでいて、家に帰りたくないと思っていること。
「それで、昨日、家出しようって話になって」と本題に入ったところで、琥珀は「アホちゃう?」と声を上げた。
あたしが口を閉ざすと、「家出して何が解決するん? 何も解決せえへんやん」とバカにした口調で琥珀は告げる。
あたしが反論しようと「でも」と口にしても、「あかりはともかく、ほのかはもっと賢い子やと思っとったんやけどなあ」とサラッとひどいことを言う。
「ごめん、アホで」とちょっとムッとして言葉を返しても、「ほんまアホやわ」と琥珀は相当頭にきているようだった。
「じゃあ、どうするのさ」と訊くと、「そうやなあ、第三者……子どもやと相手にしてもらわれへんやろから大人に入ってもらうんがええんやない?」と考え考え琥珀は話す。
「うーん、とりあえず顧問の岡部先生に相談してみようか。うちらの担任でもええけど、岡部先生の方がほのかのこと分かってはるやろうし」と琥珀はどんどんひとりで話を進めていく。
「ほのかに言わなくていいの?」とそれに焦りを感じてあたしは口を出した。
「本人は嫌がるやろけど、必要なことやん。まあ最悪あかりが絶交されるくらいで済むんちゃう?」
「それは……」とあまりの言葉に口を挟もうとしたが、「家出やったら最悪ふたりで死のうとか言い出すんちゃう? あかり、それにつき合う気なん?」と琥珀は舌鋒鋭くあたしに迫る。
昨日のほのかを見ていると本当に死のうと言い出しかねなかった。
それほど血の気のない顔をしていた。
それを見たくなくて、元気づけようと家出と口にしたが、琥珀の言う通りそれで事態が良くなるとは思えない。
「聞いた以上、勝手に動くから」と言って琥珀は電話を切った。
おそらくすぐに岡部先生に連絡するだろう。
あたしは……。
どこかホッとしている自分がいる。
ああは言ったものの、本当に家出なんてできるとは思わなかった。
あたしもお母さんに対して色々と不満はある。
でも……。
あたしはなんとなく居間に行った。
お母さんはまだ帰ってきていなかった。
ついでに何か食べ物はないかと冷蔵庫を漁る。
残念ながら何も見つからなかった。
カップ麺でも作ろうかと思ったら、棚のところにバナナを発見したのでそれを食べることにする。
バナナを1本手に持って部屋に戻ろうとしたらお父さんが顔を上げて呼び止めた。
「あかり、……あまりお母さんに心配をかけないようにしなさい」
それだけ言って、もう話し終わったと言わんばかりに視線を手元のスマホへと向ける。
あたしはたぶん不満げな顔をしていると思う。
でもとか、だってとか喉元まで出掛かったたが、結局「ん」と肯定するような返事をしてあたしは部屋に戻った。
††††† 登場人物紹介 †††††
辻あかり・・・中学2年生。ダンス部。2年生部員のまとめ役。平日はほのかと自主練を一緒にやっている。
秋田ほのか・・・中学2年生。ダンス部。2年生の中では実力トップ。学業も優秀だが口が悪く友だちは少ない。
島田琥珀・・・中学2年生。ダンス部。塾や習い事があり練習はあまりできないのでBチームに所属。学級委員になったので更に忙しくなりそう。
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