第284話 令和2年2月14日(金)「バレンタインデーの涙」日野可恋

 春めいた気温が続き過ごしやすい。

 久しぶりの登校はあいにくの曇り空だが寒いより百倍マシだ。


 学校の正門前に私が暮らすマンションがあるため、ひぃなと一緒に登校することはない。

 クラスではだいたい1番か2番というくらい早く教室に着く。

 ひぃなも早い方なので、朝のひとときは大切なコミュニケーションの時間になる。

 今日は私が登校すると事前に伝えていたので、ひぃなはいつもより早くやって来た。


「おはよう、可恋」


「おはよう、ひぃな、純ちゃん」


 今日はバレンタインデーなので、もっとウキウキした姿を予想していたが、ひぃなの表情は曇っている。

 ひぃなの隣りにいる純ちゃんは普段から感情を顔に出さないが、雰囲気がどこか沈んでいるようだった。


「何かあったの?」と私はあえて軽い感じで尋ねた。


「それがね……」とひぃなは言い淀み、チラッと純ちゃんの顔を窺う。


 それから意を決したように口を開く。


「純ちゃんの妹の翔ちゃんが学校でいじめられているみたいなの」


 ひぃなのひそひそ声を聞いて私は顔をしかめた。


「可恋と同じタイミングでインフルエンザに罹ったのは知っているよね。それで、一昨日から登校を再開したんだけど……。いま新型肺炎が話題になっているじゃない。そのせいか、コロナって呼ばれたり、みんなに避けられたりしているみたい……」


 先週の月曜日、キャシーが来たので手巻き寿司パーティーを開いた。

 その時に彼女も姉と一緒に参加した。

 そこで感染したのか、それ以前から感染していたのかは分からないが、私と彼女のふたりが発症した。


「昨日の夜に小学校の先生が来て、そういう状況になっているって翔ちゃんのお母さんに説明したんだって」とひぃなは言葉を続けた。


「それで、今日は?」と私が尋ねると、「本人は学校に行きたくなさそうにしていたけど……。今朝、純ちゃんのお母さんからお話を聞いたの。お母さんも心配はしているみたい。ただ、学校を休むほどじゃないって考えている感じだった」とひぃなは心配そうに語った。


「今日、帰りに純ちゃんの家に行ってもいい?」と私は純ちゃんに尋ねる。


 その返事が来る前に「可能なら小学校にも行きたいな。ふたりの通っていたところだよね?」と更に確認すると、ひぃなは目を丸くして驚いていた。


「うん」と頷きながらも、「わたしたちが口を出して平気かな?」と不安そうに言う。


「何か問題でも?」と私が聞くと、「余計にいじめがひどくなったりしない?」とひぃなは答えた。


 私はひとつ呼吸を置いてから努めて冷静に「放置した方がマシ?」と問う。

 ひぃなは慌ててかぶりを振り、「そうじゃないけど……」と口籠もる。


 私は不敵な笑みを浮かべて、純ちゃんの顔を見据えた。


「お姉さんとしてどうしたい?」


 相変わらず表情は変わらないが、真剣な目で「……助けてあげたい」と彼女は答えた。


 ひぃなには手助けする私たちが落ち込んでいてはダメだと伝え、翔ちゃんに元気のパワーを分け与えられるようにと話しておいた。

 納得してくれたひぃなは懸命に普段通りにしようと振る舞っていた。

 今日はいつも以上に彼女の周りに人が集まってくる。

 私はひぃなを励ましながら学校での一日を過ごした。




 純ちゃんの家はひぃなの家のすぐ近くにある。

 中までは入ったことはなかったが、場所は私もよく知っている。

 私は鞄だけ自宅に置いて、制服のまま向かうことにした。

 小学校や場合によってはいじめている相手の家へ行くことも考えている。

 私服より中学生だと分かる制服の方が都合が良いだろう。


 純ちゃんが暮らす長屋には翔ちゃんがひとりでいた。

 彼女は小学5年生で、4年生までは放課後は学童保育に通っていたそうだ。

 姉同様に無口で、姉と違って部屋の中にいるのを好む女の子だ。


 三人で奥の子ども部屋に入ると、翔ちゃんは床の絨毯の上に座ってマンガを読んでいた。

 ひぃなが「こんにちは」と微笑みかけると、顔を上げて会釈をした。


「今日は……、どうだった?」とひぃなが彼女の前に座って優しく尋ねると、翔ちゃんは俯いてしまった。


 学校はいじめを把握しているが、彼女の態度を見るとまだなくなった訳ではないようだ。

 ひぃなは正座して話し掛けても目線の高さは翔ちゃんと変わらないが、私だとどうしても見下ろしがちになってしまう。


「ちょっと立ってもらえるかな」と私は半ば強引に翔ちゃんを立たせた。


 私と何度も会っているとはいえ、こうして一対一で話す機会は多くなかった。

 怯えた表情の翔ちゃんに、私はしゃがみ込んで下から見上げるようにする。

 笑顔を浮かべながら私は彼女に語った。


「私もひぃなも、あなたのお姉さんの純ちゃんも、みんなあなたの味方だから。何があってもあなたの力になるから」


 私はゆっくりと彼女の手を握る。

 彼女のギュッと握り締められていた拳が少し緩んだ気がした。

 彼女は私の横にいるひぃなを見て、それから実の姉の顔を見上げた。

 しばらく姉を見ていた彼女が再びこちらに視線を向けてから、私は口を開いた。


「翔ちゃん」


 呼び掛けると、私と彼女の視線が合った。


「翔ちゃんは何も悪くないわ」


 私が目に力を込めると、蛇に睨まれた蛙のように彼女は身を竦めてしまう。

 私は改めて笑顔を意識して作り、微笑みかける。

 子どもの扱いは苦手なのでひぃなに任せた方が良かったと後悔したが、後の祭りだ。


「翔ちゃんは大丈夫。私たちがついているのだから」


 私がそう言うと、ひぃなが感極まったような声で「絶対に大丈夫だよ!」と励ました。

 翔ちゃんはひぃなを見て、わずかに頷いた。

 感動的な場面のようだが、私は次の言葉をどうするか悩んでいた。

 私は理屈っぽいと自認している。

 小学5年生相手に理屈を並べてはいけないと理解はしているが、実践は難しい。


「私がこれから言うことは分かりにくいかもしれない。あとで、ひぃなに翻訳してもらうね……」と予防線を張ってから、「学校と対策の強化を話し合ってもいいし、相手の生徒に止めてもらうように注意してもいい。あと、あなたのお母さんにどんなに辛いか伝えてもいい。ただ、どうしたいのか翔ちゃん自身に言って欲しいの。いますぐじゃなくていいから」と整然と語った。


 案の定、翔ちゃんは戸惑った表情を見せている。

 私がひぃなの方に顔を向けると、彼女は呆れたような顔をしていた。

 私は「任せる」と口の動きだけで伝えると、ひぃなは私が握っていた翔ちゃんの手を奪い、「大丈夫だよー、可恋お姉ちゃんは怒っていないからね」と微笑んで諭した。


 私は空いた右手を自分の頬に当て、自分の笑顔の効力のなさに愕然とする。

 ひぃながいるから私に優しいイメージは必要ないと考えていたが、いつでもひぃな任せにはできない。

 大人相手なら他の手を使えばいいだけだが、子ども相手は打つ手が限られる。


 ひぃなは瞬く間に翔ちゃんを安心させ、彼女の気持ちを聞き出していた。

 母親を心配させてしまったことへの辛さと、一方でもっと母親に構って欲しい気持ちが混じり合っているようだった。

 心に溜め込んだものを吐き出した翔ちゃんは涙ぐみ、ひぃなに慰められている。


「妹を守りたい気持ちがあるなら、もう少し言葉で思いを伝えるように心がけよう」とひぃなたちを見守りながら、私は純ちゃんに促した。


 3年になればひぃなと純ちゃんはクラスが別れる可能性が高い。

 高校は別になることがほぼ確定している。

 いまは言葉にしなくてもひぃながすべてを察してくれているが、彼女もまた独り立ちする必要があった。


 純ちゃんはやはり無表情で、私の言葉が伝わったかどうか分からない。

 彼女に対してもひぃなの方が効果的だから、ひぃなに任せるしかないかと私は肩をすくめた。




††††† 登場人物紹介 †††††


日野可恋・・・中学2年生。学校でもらったチョコレートは須賀さんからの1つだけだった。そもそも可恋が登校すると思っていなかった生徒が大半だった。


日々木陽稲・・・中学2年生。昨年よりはわずかに下回ったが、今年も大量のチョコレートをもらった。お返しが足りなくなるんじゃないかと心配したとのこと。


安藤純・・・中学2年生。チョコレートは陽稲と可恋からもらいすぐに胃袋に収めた。


安藤翔・・・小学5年生。姉ほど極端な無口ではなく、友だちも数人いるが、元々クラスの中心メンバーとはそりが合わなかった。


 * * *


可恋「相手の家に乗り込むつもりだったのに止められちゃったじゃない」


陽稲「うん。(可恋は喜び勇んで行きそうだったから翔ちゃんが止めてくれて良かったな)」


可恋「次善の策として、小学校に翔ちゃんの姉が中学校の裏番と繋がってるって噂を流すのはどうだろう?」


陽稲「あー……、とりあえず翔ちゃんに聞いてみるね……」

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