第619話 令和3年1月14日(木)「憧れの先輩」山口光月

 放課後の美術準備室でほたるとふたり、スケッチブックに向かって手を動かしているとドアが開いて高木先輩が顔を覗かせた。

 3年生の高木先輩は高校受験まであと1ヶ月ほどだ。

 しかし、その表情は明るかった。


「こんにちは、先輩」と顔を上げたわたしは声を弾ませる。


「こんにちは。頑張っているね」と微笑んだ先輩は立ち上がろうとしたわたしを手で押しとどめた。


 先輩は美術科高校を受験するので定期的に美術部の顧問から指導を受けている。

 今日もそれだったのだろう。


 座り直したわたしは「勉強はどうですか?」と尋ねた。

 美術部を引退したほかの3年生が顔を見せなくなって久しい。

 1年後にはわたしも高校受験だと思うと先輩たちの話が聞きたくなる。


「あたしはみんなのように必死になる必要がないからね……」と先輩は自分の後頭部に手を当てた。


「余裕ありそうですものね」とわたしが言うと、「黎さんから『あなたの技量なら合格間違いなし! むしろ学校側が頭を下げて入学してくださいって頼むレベルだから』なんて繰り返し言われていて、その気になっているのかも……」と先輩は照れ笑いを浮かべた。


 黎さんというのは先輩の親戚で、大手同人サークルを主催している人だそうだ。

 先輩の才能を見出し、磨き上げた人物でもある。


「先輩の絵は凄いですもの。最近ますますそれが分かってきたような気がします」


 先輩の絵は素人目にも上手いと分かるものだ。

 わたしはイラストやマンガを描くので、その実力差を嫌というほど感じている。

 そして、最近来年のファッションショーに向けてファッション誌の写真のトレースをするようになった。

 これまで描いてきたものとは勝手が違い苦戦中だ。

 だが、この挑戦を通して改めて先輩の絵の凄さが分かるようになった気がする。


「ファッションモデルのトレースをしていますが、服の質感は出せないですし、線の強弱がうまくできないですし……。わたしじゃ構図を変えたり、動きを加えたりすることも無理なんじゃないかって思いました……」


 先輩はマンガやイラストだけでなく美術的な絵画もレベルが高い。

 文化祭で展示される作品は毎回多くの人の注目を浴びるが、確かな技術があるからこそだと思う。


「大丈夫だよ。そういう問題意識を持って練習すれば。時間はまだあるのだから」


 先輩は簡単にそう話すが、それは才能があるからだろう。

 しかし、愚痴愚痴言っても仕方がない。

 受験生を困らせることを避け、わたしは「頑張ります」とこの話題を切り上げた。


「それで、どう?」と先輩がわたしの横に座る1年生部長に目を向ける。


 彼女、上野ほたるは前部長の高木先輩が来てからも自分のスケッチブックに目を向けたままだ。

 せめて挨拶くらいはと思うが、いつもこの調子だ。

 わたしは「先輩に見せるね」と声を掛け、返事を待たずに机に積まれた彼女のスケッチブックを何冊か先輩に手渡した。

 ほたるはよく飽きもしないと呆れるほどいつも絵を描いている。

 山積みとなったスケッチブックはその足跡だ。


 手渡したのは先輩が見ていない年末年始の分だ。

 古い方から一定のリズムでめくっていくのをわたしは眺めていた。

 その手が止まる。


「これって……」とこちらに見せたのは女性のバストを描いた絵だった。


「あー、なんだか1ヶ月ほど前から女性の胸を描くのにハマったみたいで……。いまもそんな絵ばかり描いています。ショーでは使えないので意味がないと言っているのですが」


「良い絵だと思うよ。興味を惹かれるものを描くって大事だしね」と語った先輩は絵と見比べるようにわたしの胸元に視線を向けた。


 セクハラです! という言葉を飲み込み、「わたしじゃありません! ……彼女のお母さんだそうです」とわたしは誤解を解く。

 先輩は「へー」と感心の声を上げている。

 わたしが「先輩もこういった絵を描いてみたいですか?」と質問すると、なぜか慌てた様子で「あ、まあ、そうだね、うん」と返答した。


 先輩は先ほどより興味深そうな顔でスケッチブックに目を通している。

 ほたるの絵の腕は確実に向上しているが、全体で見るとまだまだだ。

 ファッションショーのモデルを絵で描くというアイディアを聞いた時は素晴らしいと思った。

 しかし、それから3ヶ月近くが経ち、ここにきて実現の難しさを感じるようになった。

 多くの人の目を引きつける絵を等身大のサイズで描くというのは考えていたより大変だと気づいた。

 多少は腕に自信があるわたしでもいまの実力なら力不足だろう。

 高木先輩だったら描けるだろうが彼女はもうすぐ卒業する。


「間に合うでしょうか……」と不安が口を衝いて出る。


 先輩は手元のスケッチブックから視線をこちらに向けた。

 そして、少し考えてから口を開いた。


「たぶんあたしが山口さんの立場だったら同じように不安がっていたと思う。いまは距離がある立場だから言えることなんだけど、うまくいかなくてもいいんじゃないかな。きっと良い経験になるから」


 予期せぬ言葉にわたしはハッとする。

 すぐに納得することはできないが、そういう考えもあるのだと。

 やはり先輩は凄い。

 わたしが尊敬の眼差しを向けていると、わたしの横から反論の声が上がった。


「それは間違い」


「ほたる!」


 わたしは先輩への口の利き方を叱ろうとしたが、それよりも早く「失敗してもいいなんて考えていたら成功はしない」とほたるは言葉を続けた。

 声に抑揚はなく攻撃的な口調ではないが、先輩に対する態度ではない。


「わたしの不安を和らげるために言ってくれたことだから」と先輩を庇うと、「光月みつきが不安に思う必要はない。必ずやり遂げるから。光月も描ける。そう信じてる」とほたるはわたしを真っ直ぐに見据えて力強い言葉を並べた。


 わたしは初めて愛の告白をされたような気分になってしまい頬が赤らんだ。

 ほたるの顔を正面から見ることができず、視線を逸らす。

 いまグッと引き寄せられたら、なんでも許してしまいそうだった。


 盛り上がった空気を打ち破ったのは「あたしが間違っていたんだろうね」という先輩の言葉だった。

 一瞬、先輩まだいたんだという思いが頭をよぎったが、眉間に手を当てて失礼な考えを振り払う。


「あたしが黎さんに自身をもらったように、あたしも後輩たちにちゃんと自信を与えないといけなかった。ごめんなさい」


 後輩の無礼な物言いにも真摯に向き合う高木先輩は本当に良い人だ。

 凄い才能を持った、わたしの憧れの人だ。

 ただ、手を取り合いたいのは……。


 わたしが先輩からほたるに視線を戻すと、彼女はまだわたしを見つめていた。

 その表情からは気持ちが伝わってこない。

 それでも心は通じ合えるようになった気がする。

 わたしはほたるにだけ聞こえる声で「うん。頑張るよ」と囁いた。




††††† 登場人物紹介 †††††


山口光月みつき・・・中学2年生。美術部。すみれに頼まれ部長になったほたるに絵を教えることとなった。すると、なぜかほたるからつき合おうと言われつき合うことに。


高木すみれ・・・中学3年生。元美術部部長。デッサンなどの基本のレベルが非常に高く、上手さに関しては美術系の予備校でも一目置かれている。本人はテーマ性やオリジナリティなどについて悩みを抱いている。


上野ほたる・・・中学1年生。現美術部部長。文化祭で見たファッションショーに衝撃を受け来年は自分の手で開催しようと決意した。衣装集めの困難さを聞き、絵に描いて行進させるというアイディアを生み出す。その実現に向けて部長に立候補した。ただし、絵は下手。

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