第676話 令和3年3月12日(金)「大人の階段」日々木陽稲

「もう高校生なんだから、かなり大人に近づいたよね」


 昨日わたしは3年間通った中学校を卒業した。

 卒業式で、みんなの前に立ち答辞を読み上げた時は自分の成長が感じられて誇らしかった。

 いまは緊急事態宣言が出たままなのでクラスメイトのみんなと集まってお祝いをすることはできないけれど、いつか落ち着いたら集まろうと声を掛け合った。

 その時までにはもっと大人びたわたしになっていたいものだ。


「自分のことは自分でできる。ひぃなは十分大人だよ」


 可恋は優しい表情でそう言ってくれる。

 わたしは顔をほころばせ、「そうかな」と照れた。


「だから、後片付けお願い」


 艶のある黒髪に吸い込まれるような黒い瞳。

 その顔に可恋は黒い笑みを浮かべた。


「もー、普通に頼んでよ」とわたしは頬を膨らませる。


 基本的に自分が使ったものは自分で片づけるのが共同生活のルールだ。

 今日の可恋はリビングのソファでいろいろやっていて、わたしは邪魔をしないようにダイニングでノートパソコンを使っていた。

 わたしは可恋がお仕事モードなのか休憩モードなのかを感じ取れるので、彼女が休憩モードに入ったところを見計らってソファのところにお喋りをしに来たのだ。


 わたしは空になったコップや小皿をトレイに載せてキッチンに運ぶ。

 踏み台に乗って流しにそれらを置きササッと洗う。

 簡単なものなら料理もできるようになったとはいえ、炊事は可恋任せだ。

 それに紅茶を淹れる技術はまだまだ及ばない。

 だから、わたしが片付け担当でもバランスは取れていると思う。


 それに、あの程度で疲れることなんてないよと言っていたが、昨日可恋は卒業式に出席した。

 天気が良く体調も良かったからと理由を挙げたが、おそらくわたしが答辞を読むのを心配して見に来てくれたのだろう。

 コミュニケーションなら人前でも全然平気なわたしなのに、型にはまったことを注目される中でするのは苦手だった。

 過去にピアノの発表や学芸会で酷い目に遭っている。


 可恋は答辞の直前に「アドリブで良いよ」とわたしに耳打ちした。

 驚いて顔を見上げると、悪戯っぽい笑みを見せてくれた。

 あれで、間違えてはいけないという緊張感が少しほぐれた。

 わたしは壇上で可恋の顔をちらちら見ながら、彼女に話し掛けるつもりで答辞を読み上げた。

 無事にできたのは可恋のお蔭だ。


「何か欲しいものある?」と聞くと「いまはいいかな」と返事が来た。


 わたしは手ぶらでソファに戻る。

 高校が始まるまでの長い休みの間に紅茶の淹れ方をマスターしたいなと思いながら。

 可恋に教わるのとお姉ちゃんに教わるのとどっちがいいだろう。


「本当に中学を卒業したんだね」


 可恋の対面に座るとわたしは昨日から何度も繰り返しているセリフを口にした。

 卒業式が終わったのにまだ実感が湧かない。

 繰り返し言葉にしても。

 高校に通い始めるまでこの感覚は続くのかもしれない。


 1年以上授業に出ていない可恋には共感してもらえないだろう。

 だから返答は求めていない。

 可恋は温もりのある視線でわたしを見つめるのが常だった。

 それなのに今回は様子が違う。


「急な話なんだけど」と口を開いた。


 可恋が目を細めると雰囲気が一変した。

 表情は変わらないのに感情が読み取れなくなる。

 おそらく意図的なものだろう。

 わたしは細心の注意を払いながら彼女の言葉の続きを待った。


「明日アルバイトに行くことになったのよ」


「えー!」


 驚きで声が抑えられなかった。

 まったく予想していないことだったから。

 中学はよほどの事情がない限りアルバイト禁止だ。

 可恋はすでにNPO法人で働いているので今更アルバイトというのも腑に落ちない。

 それにしもて明日というのは急過ぎる。


「明日と明後日、それと来週の週末もかな。進捗によってはもう少し掛かるかもね」


 せっかく可恋と過ごせる時間がたくさんあると喜んでいたのに……。

 可恋は多忙だ。

 仕事のほかにも休む暇がないのではと思うくらい勉強しているし、トレーニングも欠かさない。

 いろいろな人とも連絡を密に取り合っている。

 その上、アルバイトまでとは……。


「大丈夫なの? えーっと、外での仕事だよね?」


「うん。だから、ひぃなも準備しておいて」


「えっ?」とまたも声を上げた。


「わたしも行くの?」


 もちろん初耳である。

 これまでお手伝い的なことはしたが、正式なアルバイトなんて経験がない。

 それを前日になって突然言われるとは。


「頼りにしているから」と可恋に言われては断る訳にはいかない。


「それで、何のアルバイトなの?」


「臨玲高校の臨時職員」


「は?」


 臨玲高校とはわたしたちが春から通う高校だ。

 その職員っていったい……。


「目的はふたつあってね」と可恋は指を二本立てる。


「臨玲に新館ができたんだ。校舎じゃなくて学食なんかが入った建物。内装もすでにできているみたいだけど、最終確認をわたしたちでするの」


「わたしたちが?」


「新館建築にひぃなのお祖父様が多額の援助をしてくださったのよ。あ、私が言ったのは内緒よ。合格祝いと誕生祝いを兼ねたサプライズプレゼントにすると仰っていたから」


 わたしは開いた口が塞がらなかった。

 確かに臨玲に進学するのはお祖父様のたっての願いを聞き入れてのことだったが、ここまでするなんて。


「私も一口乗って1フロアをトレーニングルームにしたの。シャワーやジャグジーを併設した。新館に住み込むこともできるよ」


 可恋は体質の問題があってマンション内に引き籠もっている時間が長いが、今度は高校の校内に引き籠もるつもりだろうか。

 その発想はなかったよ……。


「もうひとつは生徒や教職員の個人情報を盗み見るのに、臨時職員になった方が都合が良いからね」


「それって犯罪じゃ……」


「問題ないよ、バレなきゃ」


 可恋は平然としている。

 理事長やその腹心の北条さんがついているのだからその辺は心配しなくてもいいのだろう……たぶん。

 逆に考えれば、ここまでやらなければ可恋といえど簡単ではないということかもしれない。

 なにせ相手は現職総理大臣の実娘である。

 理事長ですら手が出せない生徒会を牛耳っているらしい。


「アルバイト、頑張るね」


 わたしは気持ちを切り換えることにした。

 生徒会長との対決なんてわたしには無理だ。

 可恋に任せるしかない。

 わたしはわたしにしかできないことをする。

 いまは可恋が指示してくれたことを全力で取り組むだけだ。


「で、明日は何を着ていくの? 制服じゃないよね? 可恋はスーツ? わたしもスーツに合わせた方が良い?」




††††† 登場人物紹介 †††††


日々木陽稲・・・中学3年生。前日に中学を卒業したばかり。現在は可恋とふたりで暮らしている。”じぃじ”と呼んでいる祖父は一代で財を築いた傑物。同じロシア系の外見を持つ陽稲を溺愛している。


日野可恋・・・中学3年生。中学生になってから父からの養育費を元手に株式への投資を始めてその分野でも才能を発揮している。伝統あるお嬢様学校でありながら近年評判が落ちている臨玲には陽稲を守るために進学する。

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