第53話 令和元年6月28日(金)「振り回される私」藤原みどり

 ちょうど昼食が終わったところで田村先生に呼ばれた。

 丸まった身体の後に続くと、そこは会議室だった。

 中には日野さんがひとり立っていた。


「わざわざお時間を取っていただきありがとうございます」


 日野さんが綺麗なお辞儀をする。

 それを横目に田村先生は奥に進み、椅子に座った。

 私は奥に行くのが憚られたので、出入り口付近の椅子に腰掛ける。


 これって日野さんからの暴力対策だよね?

 女性教師と女子生徒が面談するのにここまで警戒するという発想がなかった。

 いや、相手が麓さんなら別だろうけど。

 それにしても、こんなところにいきなり連れて来ないで欲しい。


「キャンプでは申し訳ありませんでした」


 日野さんが深々と頭を下げた。

 わたしはキャンプの詳細をそれほど聞かされていない。

 田村先生は日野さんに顔を向けてはいるが無反応だ。


 数秒で日野さんが頭を上げた。

 田村先生が「それで、話って」と話し掛ける。

 普段は気の良い世話好きのおばちゃんという姿を生徒の前では見せているが、いまはその仮面を脱ぎ捨てている。

 射すくめるような厳しい視線が日野さんに向けられていた。


「文化祭での協力をお願いします」


 日野さんの顔はこちらからは見えない。

 しかし、その声からいつもの澄ました表情だと想像する。


「いろいろ仕事を増やしてくれてるわね。それで、協力って?」


「お忙しいようなので、そちらに集中していただければ幸いです」


 要は、こちらには手を出すなと面と向かって言っているわけだ。


「あなたたち次第ね」


「お手を煩わさないように努力いたします」


「これ以上引っかき回さないでくれる?」


「ご期待に添えないとは思いますが、できる限り情報を共有したいと思います」


 田村先生は不機嫌極まれりといった面持ちだ。

 文化祭での合唱禁止は谷先生の件があって仕方ないと思う先生方も少なくない。

 ここ数年文化祭の合唱指導は谷先生が一手に引き受けていたからだ。

 性格的には問題があったが、指導能力は高く評価されていた。


 2年1組のファッションショーの企画はすでに多くの生徒が知るところとなり、他のクラスも奇抜なアイディアを出そうと頭を振り絞っている。

 3年生は受験勉強の傍ら有名私大との共同作業ということで先生方はてんてこ舞いとなっている。

 これ以上仕事を増やしたくないという田村先生の思いは切実だ。


 ここでガツンと日野さんを叱り飛ばして欲しいと思って見守っていたのに、田村先生はため息をひとつ吐いただけだった。

 せめて教師に敬意を払うように釘を刺して欲しい。


「話はそれだけ?」


「谷先生の件で……」と日野さんが私の方を振り向いた。


「藤原先生、戻っていいわ」


 不機嫌さは変わりないが、田村先生に日野さんを恐れるような雰囲気が消えていた。

 意外な感じがするが、問いただせるような立場ではない。


「放課後は動きやすい服装で来てください」


 立ち上がった私に日野さんが言った。

 放課後に文化祭の練習がある。

 私はその練習に行くと言っていないし、ましてや練習に参加するなんて言っていない。


 前回の練習のことを小野田先生に報告し、その際に相談したら、「参加すればいいじゃない」と言われてしまった。

 この様子では、田村先生に相談したところで解決しそうにない。

 学生の頃なら先生に言いつけるだけで良かったのに、ままならないものだ。

 私は日野さんに返答することなく会議室を出た。




 私はソフトテニス部の顧問のひとりなのでジャージ姿になることも少なくはない。

 そのジャージ姿でトボトボと2年1組の教室に向かった。

 ああ、筋トレするんなら田村先生にやらせて、あのお腹回りを絞ってあげればいいのに。


 教室には麓さんを除く女子が体操着姿で集まっていた。

 放課後なのにみんな元気だ。

 私だってほんの数年前まで学生だったのに、遠い昔のように感じてしまう。


「今日はウォーキングではなく、スクワットをやります」


 教師のように堂々と日野さんがみんなに言った。

 高校生以降ダイエットと称して私も色々とやった。

 大学時代はジムにも通ったことがある。

 しかし、どれも長続きしなかった。


「ウォーミングアップは身体が冷えていたり、ずっとじっとしていて固まっていたりする感じの時にほぐす程度の運動ね。軽く歩いてみるとかそのくらい」


 本人の希望は知らないが、日野さんは教師に向いていると感じる。

 というか、自分が負けているんじゃないかと焦る気持ちの方が強い。

 きっと生徒と同世代だから分かりあえるんだ。

 そう思わないとやっていられない。


「次は動的ストレッチ。スクワットをやる前の準備運動に当たります」


 日野さんはみんなの顔を見回した。


「運動は正しい姿勢、正しいやり方でやらないとケガをしたり、身体を痛めたりすることがあります。また、そうでなくても、効果がほとんど出なかったりすることもあります。折角時間を掛け、苦しい思いをしても、効果がなかったり、マイナスになったりしたら嫌でしょ? だから、ちょっとでも疑問に思ったら訊いてください」


 普段の淡々とした感じと異なり、とても感情の籠もった声だった。


「難しく考える必要はありません。最初にしっかりと正しいやり方を身に付ければいいの。夏休みまでの1ヶ月をかけて、ちゃんと覚えましょう」


 日々木さんが率先して「はーい」と声を上げ、他の子たちも続いた。


「動的ストレッチは身体を温め、関節をほぐすことが目的です。反動をつけずに行うことを意識してください」


 立っていた日野さんが腰を折ってつま先を掴んだ。

 そして、そのまま腰を落とす。


「え、無理!」と声が上がる。

 できたのは半数くらいかな。

 私は、つま先に手が届かなかった。


「できない人は足首を持って、できるだけ腰を落としてね」


 足首なら届く。

 日野さんのお手本を見ながら実践する。

 数回でOKが出た。


「次はもう少し簡単なものを」


 日野さんは立ったままお尻に手を添え、両足を交互にお尻につける。

 胸を張ってねと声を掛けながらリズミカルに足を後ろに上げた。

 生徒たちもこれは簡単にできている。

 私も少しバランスを崩しかけたがなんとかできた。


「いよいよ、スクワットです」


 日野さんがニコリと笑顔を作る。


「いちばん負荷が掛かるものだから、いちばんしっかり覚えてね」


 みんなが真剣に日野さんを見ている。

 反動をつけないことなど、注意点を述べながら手本を見せた。


「ひとりずつ指導するね」


 ひとりずつやっているのを見ると、意外なほどバラツキが大きかった。

 そのひとりひとりに日野さんが修正を入れていく。

 できない子はできるように、できる子は更に難易度を高めたものを。

 私は「膝を前に出さないで、もっと後ろに体重を掛けて」と言われた。


 実践だ。

 私はすでに少し疲れているけど、生徒たちはまだまだ元気そうだ。

 体力別に3組に分けられ、体力のある1組からスタートした。

 1回6秒を10回で1セット。

 日野さんと安藤さんが「もっとゆっくり!」と声を掛けながら見て回っている。


「インターバルは60秒ね」


 1セット目は余裕だった子たちが2セット目から苦しそうな表情を見せる。


「ゆっくり! 深く! 膝は伸ばし切らないで!」


 日野さんの声が教室に響く。


「あと少し! 最後まで頑張ろう!」


 その声に支えられるように全員が2セット目を終えた。


「お疲れ様ー、よくできたね! 笠井さんと渡瀬さんはあと1セットね」


 まだ余裕のあったふたりが「マジ!」「えー!」と絶望的な声を上げる。

 それを見て、「まだ元気あるじゃない」と日野さんが笑った。


「2組目も始めるよ。安藤さん、ふたりを見てて」


 1組目と2組目のストレッチは見るからに違いがある。

 腰を下ろす高さが違うし、立った時に「2組目は膝を伸ばしていいよ」と日野さんから声が掛かる。

 それでも1回6秒と時間を掛けるスクワットに2組目は苦戦していた。


「笠井さん、渡瀬さん、凄かったよ!」


 10回終わって床にへたり込んだふたりを日野さんが賞賛する。

 笠井さんの口からは「鬼だ」という言葉が零れていた。


「2組目、どう? もう1セット行ける?」


 2組目の面々が顔を見合わせる中で、松田さんが胸を張って「やります」と言い切った。

 他の子たちもそれにつられるように「じゃあ」と続く。


「無理だと思ったら止めていいからね」


 日野さんの言葉に頷いてスタートした2組目の子らは、高木さんが途中でリタイアした以外は完走した。


「3組目、行きます。行けるところまででいいから、頑張ろう!」


 私もスクワットを始める。

 6秒というのが思った以上にキツい。

 慣れている日々木さん以外は、体勢を日野さんや安藤さんに指導されながら続ける。

 立ったまま、腰を落としたくない。

 このまま床に座り込みたい。

 そう思うのに、日野さんの声に励まされて続けてしまう。

 誰かがやめたら私もと思いながら。


 ついに、森尾さんと伊東さんが崩れ落ちた。

 私もと思うのになけなしの体力で腰を落とす。

 田辺さんもリタイアし、10回終わらせたのは日々木さんと私だけだった。


「みんなご苦労様でした。日々木さんも1ヶ月前は全然できなかったけど、1ヶ月で10回はできるようになりました。みんなも1ヶ月あれば、ここまでできるから」


 日々木さんは知名度があるので、その体力不足もよく知られている。

 1年の時の体育での逸話にも事欠かない。

 本当かどうかは分からないが、走り幅跳びで踏み切りから砂場まで飛べなかったという噂もあった。


「では、次は静的ストレッチをやりますね」


 静的ストレッチは難易度は低く、私でもすぐにできた。


「1組の人は筋力の向上も目的ですが、正しい知識を身に付けて3組の補助ができるようになるといいね」


「頑張る!」と三島さんが気合いを入れている。

 塚本さんも「藤原先生を補助できるように頑張りますね」と笑っている。

 教師の面目を守るためには早く2組に行かないと……。

 グループ分けは様子を見て変えると言っていた。


「あと、いちばん大事なことは習慣づけです」


 日野さんがこちらを見る。


「勉強も一緒ですよね? 藤原先生」


「え、あ、そうね」


 不意打ちでうまく答えられない。


「運動の記録アプリがあるので、みんなに入れてもらおうかなって思ってます。グループで利用できて、勉強の記録にも応用できるので」


「夏休みを見越してだね」と日々木さん。


「うん。アプリにも慣れておいて欲しい。筋トレやストレッチのやり方を覚えること、習慣づけ、記録を付ける、この3つを夏休みまでにマスターしよう!」


「おー!」と日々木さんが手を挙げると他の子も続いた。


 もしかして私もやるの? と思っていると、「生徒の勉強の進捗が分かりますよ」と日野さんが耳元で囁いた。

 悪魔の囁きだ。

 私が断れるはずがなかった。

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