第188話 令和元年11月10日(日)「勉強」志水アサ

 今日は可恋ちゃんからお招きがあった。

 昨日の記者会見の感想が聞きたいらしい。

 彼女と知り合って以来、メールでは頻繁にやり取りをして来た。

 彼女の母親である日野先生に紹介してもらい、先生とは大学でお会いすることが多かった。

 彼女の自宅を訪問するのはこれが初めてとなる。


 NPOの立ち上げに協力したことへの感謝を込めてお昼ご飯を作ってくれると、可恋ちゃんは私を誘う時に言った。

 独り暮らしを始めた頃は意気込んで自活をしていたが、最近はすっかりずぼらになってしまった。

 これからの学費のことを考え節約暮らしを続けているので、食事は近所のお弁当屋さんに頼り切っている。

 こんなにありがたい申し出はないと心から感謝しながら私はいそいそと出掛けて行った。


 マンションでは可恋ちゃんが出迎えてくれた。

 広々としたリビングダイニングには、彼女の他に日々木さんと安藤さんがいた。

 私が初めて可恋ちゃんと出会った時にもいて、とても目立つ三人組だった。

 まるで天使という容貌の日々木さんは、エスニックな重ね着スタイルでとても魅力的だ。

 ジャージ姿の大柄な安藤さんは、目の前の食事を「待て」と言われてじっと我慢している大型犬のような雰囲気を醸し出していた。

 トレーナーにスウェットというシンプルな服装の上にエプロンを付けた可恋ちゃんが、私を席に案内してすぐに食事を用意してくれる。


「エプロン姿が板に付いているね」と褒めると、「可愛いエプロンでしょ」と日々木さんがニッコリと笑った。


 お昼というには豪華な料理が食卓に並ぶ。

 温野菜のサラダ、ポタージュ、ブロッコリーと鶏肉の炒め物、ブリの照り焼き、豆腐の卵あんかけ、どれも見栄えが良く、美味しそうだ。


「おかわりもありますから、存分にお召し上がりください」と可恋ちゃんが笑顔で勧めてくれた。


 私たちは「いただきます」と唱和して食事を始める。

 久しぶりに食べる家庭的な味わいに、私は「美味しい」を連発する。

 ジャーナリストとして語彙の不足は失格だが、どんな言葉を並べるより「美味しい」の一語にすべての思いが籠もる気がする。


「ごめんなさいね、がっつくように食べてしまって」と会話より食事に夢中になってしまったことに気付き、私は謝った。


「いえ、喜んで食べてもらって作り甲斐を感じますから」と可恋ちゃんが微笑む。


「いつでもお嫁に行けるわね」と昭和の時代のオヤジのような発言をしそうになって思いとどまる。


 いけない、いけない。

 こういう性別役割的な言葉がダメだと頭では分かっているのに、つい口をついて出てしまいそうになるところに問題がある。

 自分に向けられるハラスメントには敏感でも、自分が発するハラスメントには鈍感になりやすい。

 私は自分を戒めながら、最近の生活振りを語って今日の食事がどれほどありがたいかを強調した。


「そんな風に努力して大学に入り直すなんて凄いですね」と日々木さんが感心してくれた。


「日本人は社会に出ると勉強をしなくなると言われているわ。現場のノウハウやスキルは確かに大事だけど、勉強してベースを引き上げないことが日本の停滞の原因かもしれないわね」と私が勉強の大切さを説くと、「目先の利益を追い求めるだけでなく、そういった意欲的な人材を重用することが長い目で見れば利益になると理解する経営者がどれだけいるかでしょうね」と可恋ちゃんがとても中学生とは思えない感想を述べた。


 彼女の中学生離れした思考は読書の賜物だろうと以前日野先生が指摘していた。


「私が教えたことなんてほんのわずかで、ほとんどは自力で身に付けたものよ。空手で培った集中力は私よりも遥かにあるし、一を聞いて十を知るような読解力もある。人の何倍もの速度で知識や理論を吸収しているわ。人間としてアンバランスだったところも陽稲ちゃんという友だちができて改善されたし、この先どうなっていくか私も興味津々よ」


 先生はそう言って少し寂しそうに微笑んでいた。

 私の専門分野ではまだ一日の長があると思うが、可恋ちゃんの関心は多岐にわたっている。

 そのどの分野でも大人顔負けの知識と能力を誇っている。

 今回のNPOの立ち上げも、昨日集まったほぼすべての記者が日野先生主導のものだと勘違いしていたが、可恋ちゃんが描いた構想を周囲の大人たちが協力して作り上げたものだ。


「可恋ちゃんにとってはまだ先の話という感じでしょうけど、可恋ちゃんなら大学ではどんな勉強をしてみたい?」


 私はちょっとした興味からそんな質問をしてみた。

 彼女は冗談めかして、「数学」と答えた。


「数学?」と日々木さんが驚きの声を上げる。


「最近読んだ本の影響かもしれませんが、純粋に思考や論理の世界に浸るのは楽しそうですね」と微笑んだ。


「社会の役に立ちたいと思わない?」と少し意地悪な質問をしてみた。


 数学が社会の役に立たないという訳ではないが、彼女ほどの頭脳はもっと社会に還元できるところで使って欲しいという気持ちがあった。


「そういうのは、そういうことがやりたい人に任せますよ」と可恋ちゃんはキッパリと言い切る。


「NPO活動はそういうものじゃないの?」と尋ねると、「あれは私がやりたいことの延長として、他の人にも有意義になりそうだから始めたことです。最初から人のためにだなんて思ってません」と平然と言ってのけた。


 昼食が終わり、私の手土産のケーキが振る舞われた。

 可恋ちゃんが紅茶を淹れてくれる。

 もうお腹いっぱいだったが、デザートは別腹だ。

 さあ食べようとした時に、訪問者を告げるチャイムが鳴った。


「失礼」と言って立ち上がった可恋ちゃんはインターホンで来訪者とやり取りをしている。


 そして、肩をすくめる仕草をしたあと、玄関まで迎えに行った。

 私が日々木さんと「お客さんかな」と話していたら、可恋ちゃんが長身の黒人の子を連れてダイニングに戻ってきた。


『キャシー、こんにちは。どうしたの、急に』と日々木さんが自然な英語でその黒人の子に話し掛けた。


 キャシー・フランクリン。

 名前は可恋ちゃんから聞いていた。

 空手の選手で将来は格闘家を目指しているといった話も。


「すいません、急に彼女が押しかけてきて」と恐縮する可恋ちゃんに「気にしないで」と私は答えた。


「彼女、英語しか話せないんですが、大丈夫ですか?」と言われ、「簡単な英会話なら……」と私は口にした。


 英語は読み書きは大丈夫だが、話したり聞いたりはそれほど得意ではない。

 これまでの日本の英語教育の典型例だと自覚している。


『感謝祭のホームパーティの招待状を届けに来た』とキャシーさんは日々木さんに話し掛けている。


 キャシーさんはジャンパーのポケットからぞんざいに折った紙を取り出し、『カトリーヌとリナが作ってくれた』と言って日々木さんに手渡した。

 受け取った日々木さんは『ありがとう』と言ってその紙を一枚一枚確認する。


『ちゃんとお姉ちゃんたちの分まで作ってくれたんだね。カトリーヌたちもパーティに来るの? 来るならお礼を言わないと』


『もちろん来るぞ。あと、届けた私にもお礼を言ってくれ』


 そう言ったキャシーさんはそこでようやくテーブルの上のケーキに気付き、『カレン、ワタシの分は?』と聞いた。


『すぐに用意するから、その席に座って待ってて。彼女のお土産だからキチンと感謝の言葉を伝えなさい』


 可恋ちゃんの命令口調にキャシーさんが素直に従う。


『ありがとう。ワタシはキャシーだ。キャシーと呼んでくれ』


『初めまして。私は志水アサです。フリージャーナリストです』と自己紹介をした。


『ジャーナリスト? カレンを取材するのなら、ワタシも取材しろ』


 私が何と答えればいいか悩んでいると、ケーキをトレイに載せて戻って来た可恋ちゃんがダメ出しを始めた。


『そこで命令形は相手に失礼よ。あと、ちゃんと自己紹介をしなさい』


『カレンだって命令形じゃないか』と口答えをすると、『私はあなたを指導する立場だから命令することができる。あなたと志水さんはそういう関係じゃないでしょ』と可恋ちゃんは説明した。


 私が訳が分からないという顔をしていると、日々木さんが補足を加えながらふたりの言葉を通訳してくれた。

 それを見て、可恋ちゃんが英語で説明を続ける。


『キャシーは年齢の割に幼い言葉しか使えません。単語は語彙が少なく、スラングやボディランゲージに頼りがちです。文法も仮定法がうまく使えず、理解も苦手。アメリカにいれば周囲の環境から少しずつは成長していけますが、日本に来たせいで成長が完全に止まっています』


 可恋ちゃんはケーキをまだ配膳していないので、キャシーはムスッとした顔付きでじっと待っている。


『日本語だって大人が小学生のような喋り方をすれば笑われますよね。欧米は階級社会だった歴史を色濃く反映しているせいか、いまも使う言葉によって社会的なステータスが決まる部分があると言います。キャシーは格闘家を目指すのでそこまで高度な英語力は必要ありませんが、小学生程度の英語のままではさすがに恥ずかしいでしょう』


 可恋ちゃんの英語の堪能ぶりもさることながら、それを同時通訳する日々木さんにも舌を巻く。


『キャシーはインターナショナルスクールに通っていますが、同世代の生徒にとって小学生並みのキャシーと付き合うメリットがありません。英語も振る舞いも小学生のままですからね』と可恋ちゃんは大げさに溜息をついて見せた。


『それで、同学年の友だちをパーティに招待できそうなの?』と可恋ちゃんはキャシーに視線を送った。


 キャシーは可恋ちゃんの方を向くことなく、『なんとかする』とだけ答えた。


『リサが用意した英語のカリキュラムに手をつけてないって聞いたわよ。やらないのなら空手の練習を禁止するわ』


『待て! それはダメだ』とキャシーが焦って大声を上げた。


『勉強の大切さを理解させることから始めるべきなのかもしれないけど、それを理解するためにはある程度論理的な思考を身に付けなければならない。そして、思考するためには母国語をしっかりと身に付ける必要がある。論理的思考を身に付ければ格闘技の能力が向上するなんてことはないわ。それでも、一生格闘家を続けられないのだから、ある程度の言語能力を身に付けるべきなの』


 可恋ちゃんの言葉――日々木さんに通訳してもらったもの――を聞いて、「学習障害なのかしら」と私は口にした。

 可恋ちゃんもすぐに「そうだと思います」と日本語で答えた。


「彼女の姉のリサさんに学習障害を前提としたカリキュラムを組んでもらってます。ただこれまで勉強ができなかったせいでやる気がないという問題があり、ある程度の強制力が必要かなと思っています」


 日々木さんも、彼女の家族はみんな頭が良くて、自分だけ勉強できないことに引け目を感じているのではと教えてくれた。


「格闘技だけは周りから実力を認められ、彼女はそこに傾倒していきました。彼女の両親はそんな彼女をいまのまま認めています。ただ、やり方を工夫して勉強すれば、いまなら同世代の子にも追いつけると思うので、なんとかやる気を引き出したいと思っています。私のエゴなのかもしれませんが……」


 可恋ちゃんの言葉の最後は歯切れが悪くなった。

 私は「それは友だちを思う気持ちだと思うよ」と肯定してあげた。


『ほら、ケーキをあげるからパーティまではリサの言う通りに勉強するって約束して。練習禁止なんて言わないから』と可恋ちゃんが折れてみせると、キャシーも『分かった』と怒りを収めた。


 確か日本では発達障害の可能性がある児童生徒は6.5%という。

 30人学級だと2人いる計算だ。

 昔なら勉強ができない子や問題児として扱われていたが、周りの理解が進むことで少しずつ環境が改善されている。

 とはいえ教師でさえ十分な理解に及んでいないケースも少なくない。

 こうしたことを広く世に知らしめることが私たちジャーナリストの役割だ。


 そして、勝手な思いと知りながら、可恋ちゃんには教育の世界に身を置いて欲しいと願った。

 教師では器として可恋ちゃんは収まり切らないだろうから、文科省に入って出世して事務次官にでもなってくれないかしら。

 そんな思いを託したくなる少女だ。




††††† 登場人物紹介 †††††


志水アサ・・・アラサーのフリージャーナリスト。ゴシップを扱うこともあるが、教育や女性といった社会問題を専門にしていた。来年4月から大学の修士課程へ進学する。


日野可恋・・・NPOの代表に就任したばかりの中学2年生。最近はキャシーの姉のリサから電話等で英語の指導を受けている。


日々木陽稲・・・中学2年生。通訳ぶりを志水さんに褒められ、ファッションデザイナーになれなかったら通訳もいいなと思った。ただ可恋からは通訳にしては目立ちすぎとツッコミが入ったが。


安藤純・・・中学2年生。今日は朝から陽稲の下で試験勉強をしていた。


キャシー・フランクリン・・・14歳。G8。キャシーの方も同級生たちの持ってまわった言い回しが好きになれず(理解できず)、距離を取る傾向にあった。

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