第45話 令和元年6月20日(木)「微熱」日野可恋

 朝、いつものように5時に目が覚めた。

 枕元にある体温計で熱を測る。

 微熱。

 私はひとつ息を吐く。

 気を取り直して、横になる。

 私はすぐに眠りに落ちた。


 7時過ぎ、再び目を覚ました。

 熱っぽさは変わらず、倦怠感も消えていない。

 容態は昨日と変わっていない印象だ。

 普通の子なら問題なく学校に行けるレベルだろう。

 私の場合はただの風邪でも致命傷になりかねない。


 ひぃなと大学病院の担当医にメッセージを送る。

 気合いを入れてベッドから起き出す。

 薄暗いダイニングで軽く食事を摂る。

 食欲はあまりないが、最低限必要な量を口に押し込む。

 支度を済ませ、ひぃなを待つ間、今日の試験に向けて教科書を確認する。

 いま勉強しても成績が上がるとは思わないが、テストに向けてスイッチを入れる必要があった。


「おはよう! どう? 可恋」


「おはよう。ぼちぼちってとこね」


 開口一番心配するひぃなに思ったままを伝えた。

 ひぃなは昨日の連絡通りに昼食を持って来てくれた。

 正確に言えば、持って来たのは安藤さんだが。

 それを冷蔵庫に入れて学校へ向かう。


「晩ご飯はどうするの? うちに来れるならいいけど、無理ならうちから持って行くよ」


「午後から病院に行くから、その時の体調次第かな」


 正直、食事の支度をしてくれるのはありがたい。

 食欲がないと作る意欲も湧かず、身体的だけでなく精神的にも負担に感じてしまう。

 ただ大勢と一緒の食事も疲れる。

 ひぃなに来てもらいたいところだが、明日までテストが続くのであまり負担は掛けたくない。


「わたしは平気だから。勉強もちゃんとしてるし、頼ってくれた方が心配しなくて済むし」


 私の気持ちを察してひぃなが言ってくれた。


「病院出る時に連絡入れるね。……来てもらえると嬉しい」


「分かった」とひぃなが微笑んだ。


 こうして少し体調を崩しただけで、私の生活は立ち行かなくなる。

 ままならない病気との付き合いには慣れているつもりでも、このやりきれなさには慣れることがない。




 発疹や下痢などの症状がないことから、明確な診断は下されなかった。

 いくつかの検査を受け、疲労感が増す。

 新しくなった担当の医師は月経前症候群を疑っていた。

 これまで生理は軽く済んでいたのに、こんなことが毎月続くのなら女性であることをやめたくなってくる。

 ストレスを避けるようにと言われても、この症状が大きなストレスになってしまいそうだ。


「可恋、どうだった?」


「原因は特定できてない。すぐに分かるとは思ってなかったけどね」


「そっか……」


 病院を出てすぐにひぃなに連絡を入れた。

 外は蒸し暑く、不快で顔が歪む。


「悪いけど、夜、来てくれる?」


「うん」


「ありがとう。マンションに戻ったらまた連絡するね」


 帰りのタクシーの中で、私は気持ちを切り替えようとする。

 考えても仕方がないことは考えない。

 あくまでも疑いであって、病名がはっきり分かった訳ではない。


 帰宅してだだっ広いリビングダイニングに灯りを点す。

 ため息をつくのを押しとどめ、自分の部屋へ入る。

 部屋着に着替えてようやく人心地つく。


 ……スーパーマーケットに寄ってくればよかった。


 今頃になってそう思うほど頭が回っていないようだ。


「こんばんは! お父さんが送ってくれたの。女の人の部屋に入る訳にはいかないから、またわたしが帰る時に迎えに来てくれるって」


 ひぃなが来てくれた。

 お姉さんの華菜さんも一緒だ。


「わざわざ来てくださってありがとうございます。それに気を遣ってもらって……」と華菜さんに頭を下げると、「困った時はお互い様だから」と笑顔で応じてくれた。


 オープンキッチンに案内すると、「すごい! 素敵! いいなあ!」と華菜さんが絶賛してくれる。

 ひぃながなぜか「すごいでしょ」と自慢しているが見なかったことにする。


「ふたりは晩ご飯は?」と聞くと、「まだだけど、ヒナの分も作るからふたりで食べて」と華菜さんが答えた。


「華菜さんは?」


「わたしが一緒だと気を遣うでしょ?」


「そんなことないですよ。そうだ、食材が少し余ってるので何か作りませんか? このままだと傷んで処分することになりそうなので」


 処分という言葉に反応してくれた。

 もったいないという気持ちが通じて嬉しくなる。

 私は冷蔵庫から使えそうな食材を取り出した。


「少し多めに持ってきてるから、私の分も足りるとは思うけど、本当にいいの?」


「もちろんです」


 大人相手ほど気を遣わなくて済むのは大きい。

 華菜さんが予定していた献立を聞き、どうアレンジするかふたりで考えた。


「可恋、休んでなくて平気?」とひぃなは心配するが、「買った食品を捨てるショックよりは平気」と私は笑った。


 夕食は華菜さんとキッチンの違いの話で盛り上がった。

 どんな良いキッチンでも使い慣れてる方が良いよねという結論になった。

 ひぃなは夏休み中に料理の腕を上げると息巻いた。

 学校の家庭科レベルはできるようなので大丈夫だろう。


「レシピさえあれば作れるんじゃないの?」


「包丁を使うのが苦手。あと、微妙にうまくいかないの」


 私の疑問にひぃなが眉間に皺を寄せて答える。


「ヒナは感覚的なところがあるよね。キッチリ計ったり、時間や順番を守ったりすればいいのに、そういうところを適当にするから」


 感覚的というのはよく分かる。


「こっちの方がいいと思ってやるとうまくいかないの」


「基本ができてないのに応用に走るタイプね」


 ひぃなは私に反論できずに固まっている。

 いるよね、そういう子。


「スパルタで基礎から叩き込むからね」という華菜さんの言葉に喜ぶひぃなを見て、姉妹の仲の良さを羨ましく感じた。


 迎えに来てくれたひぃなのお父さんに連れられてふたりが帰って行く。

 明るいままのリビングに戻る。


 ……ストレスというより人恋しさなのかなあ。


 いつの間にか体調は回復していた。

 微熱と倦怠感程度だから、安静にしているだけで治ったかもしれない。


 試験前に文化祭の一件で多くの人に会い、色々とお願いした。

 思っていた以上のストレスがあったのは確かだろう。

 こうした団欒がストレスを解消してくれるから、人は家族を求めるのかもしれない。

 私はリビングの灯りを消して、自分の部屋に入った。

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