第103話 令和元年8月17日(土)「愛の力」日々木陽稲
突然、肩をつかまれた。
ドキッとして、慌てて振り向く。
見上げると、そこに立っていたのは可恋だった。
「えーっ! 驚かせようと思っていたのに……」
「ひぃなは目立つからね」
わたしの叫びに可恋が苦笑する。
今日はキャスケットをかぶり、地味目なサマーカーディガンを羽織っていたのに。
どうして可恋が先にわたしを見つけてしまうのか。
だって、わたしがここにいるなんて知らないはずなのに……。
「まさか、誰かから聞いたの? わたしが来ること」
「いや」と可恋は首を横に振る。
「じゃあ、どうして見つけられるのよ! 絶対におかしいよ」
会場に来て、可恋を発見するのは難しいと思っていた。
それだけ観客が多かった。
可恋を必死に探すわたしが見つけるより早く、わたしの存在を予測していない可恋が見つけるなんてありえないでしょ?
「愛の力だよ」なんて可恋がわたしの耳元で囁く。
いつもと同じからかうような口調なのに、わたしの顔は赤く染まる。
可恋はわたしの祖父である”じいじ”の家にいる間、札幌で行われるこの大会を見学に行くかどうか決めかねていた。
わたしは、彼女が通う道場の師範代である三谷先生から背中を押すように頼まれていた。
とはいえ、空手のことはわたしは門外漢だし、可恋に無理はさせたくなかった。
ただ、三谷先生と連絡を取り合う中で、わたしが札幌に行けば一緒に行くのではという話になった。
わたしは7月末に札幌の親戚の家に行ったばかりだったけど、魅力的な提案だと思った。
結局、先生はこの奥の手を使わずに可恋に決心させてしまったが、それなら現地で可恋を驚かしてやろうとわたしは考えた。
わたしは”じいじ”や両親を説得し、お姉ちゃんに付き添ってもらって、新幹線で北海道までやって来た。
幸い、下りの新幹線は混雑のピークを過ぎていた。
ただ、これまでは飛行機を使っていたので陸路での北海道行きは想像よりも大変だった。
朝出発したのに、札幌に到着したのは夕方で、可恋の宿泊する道場に押しかける体力が残っていなかった。
そして、この総合体育センターで、驚かせようと思ったわたしは逆に可恋に驚かされてしまった。
いったいわたしの苦労はなんだったのか。
いや、無事に会えて良かったんだけどね。
「しかし、よく来たね」と可恋が笑う。
「大変だったのよ」とわたしは可恋に力説するが、可恋はわたしの隣りにいるお姉ちゃんに「付き合わされて大変だったでしょ」とその労をねぎらっている。
「元はと言えば、可恋が行くかどうか迷っていたからなんだよ」と言うと、「師範代の口車に乗っちゃダメだよ」とたしなめられてしまった。
あの先生も人を利用するのが上手いからなあ。
しかし、何も言っていないのに三谷先生が絡んでいると見抜いているとは。
わたしは話題を変えようと「キャシーは?」と尋ねる。
彼女は目立つので、キャシーといたら可恋を見つけられたかもしれないのに。
「あそこ」と可恋が指差した先にキャシーの姿が見えた。
1階の最前列付近の席だ。
「札幌の道場にはアメリカやオーストラリア出身の人がいたから今日は任せた」と可恋はニヤリと笑った。
確かにキャシーの周りに何人かの外国人の姿がある。
あれだけ目立つキャシーもこの人混みの中だと見つけ出すのは難しいと感じた。
そう思うと、なぜわたしが見つけられたのかが謎である。
キャシーにもわたしが札幌に来たことは話していないので、せめて彼女だけでも驚かせたい。
わたしたちは三人並んで座って試合を観戦する。
可恋に「もっと近くで見なくていいの?」と聞いたけど、「ここからで十分だよ」と彼女は答えた。
8つのコートを使い同時進行で競技が行われるので、高いところの方が全体が見渡せていいらしい。
遠いので顔は分からないが、それぞれの選手の動きはなんとなく見て取れた。
わたしは先日小学生の大会をキャシーと見学したのでどういう競技なのか少しは分かる。
初めて見るお姉ちゃんに可恋は説明し、わたしにもあの選手を見てごらんなんて教えてくれる。
知っている選手なのかと尋ねると、ひとめ見れば分かると言われた。
わたしが面識のある唯一の選手、
わたしでは演武の出来は分からないので、「どうだった?」と可恋に尋ねると、「なかなかだね」と感心する声を上げた。
三谷先生によると、可恋が出場すれば優勝を狙えるらしい。
これだけの実力を持ちながらもったいないよねとよく聞かされた。
わたしから可恋に働きかけて欲しいという先生の願いもあるのだろう。
「可恋は出場したいと思わないの?」
可恋は目を細め、少し間があってから口を開いた。
「まったくないとは言わないけど、リソースを割いてまで出たいとは思わないかな」
可恋らしい言い回しだと感じた。
淡々とした口調だけど、いろんな感情が籠もった言葉だった。
お昼前に女子個人形の準決勝が行われた。
決勝進出をかけて結さんがコートに立つ。
知っている人だけに、見ているわたしもドキドキしてしまう。
「勝てる?」と聞くと、「実力は互角かな」と可恋は冷静に分析していた。
ミスをすれば終わりとなる勝負だ。
ひとつのミスで取り返しがつかない状況にわたしは弱い。
わたしなら緊張して何もできなくなってしまうだろう。
可恋のお蔭で少しマシになったけど、いまも失敗してはいけない場面は大の苦手だ。
「大丈夫かな……」と心配してしまう。
「集中してるから大丈夫でしょ」と可恋は気にも留めていない。
きっと一流の選手はそういう次元で悩まないのだろう。
可恋の言葉通り、目立ったミスもなく演武が終わった。
それでも僅差の判定だそうだ。
結果をハラハラしながら待つ。
結さんの勝利。
観客席からも大きなどよめきが起こり、わたしも思わず立ち上がって喜んだ。
小学生の大会では思い入れのある選手はいなかったので、こんな気持ちにならなかった。
一度会っただけの結さんでこれだ。
もし、可恋が出場していたらわたしは心臓が飛び出していたかもしれない。
昼食休憩になった。
お姉ちゃんを手伝って、可恋やキャシーの分のお弁当を作ってきていた。
わたしはそれをキャシーに伝えるために可恋と一緒に彼女の席に向かった。
『キャシー』と彼女の背後から声を掛けると、『おー、ヒーナ! どうしてここに』と大げさに驚いてくれる。
これだよ、この反応を望んでいたのよ。
キャシーは再会を喜んでくれた。
感情豊かでそれを態度で示すキャシーはとてもチャーミングだ。
『可恋にもこんな風に驚いて欲しかったわ』と愚痴を零すと、『次はワタシも協力するよ』とキャシーは言ってくれる。
でも、キャシーに教えると、可恋に筒抜けになる可能性の方が高い。
気持ちだけ受け取ることにしておく。
キャシーと一緒にいる外国人の方々に挨拶してから、彼女を連れて席に戻ろうとすると、可恋が「先に行ってて」と告げた。
わたしが首を傾げると、「結さんからメッセージが届いたから、ちょっと会ってくる」とのこと。
「わたしも応援しているって伝えてね」と言って、足早に去る可恋を見送った。
わたしが一緒だと移動に時間がかかるし、キャシーまで一緒だと騒がしくて迷惑を掛けてしまいそうだ。
わたしはキャシーとお姉ちゃんのところに戻り、可恋を待つことにした。
しかし、キャシーはお弁当を食べたがってうるさい。
仕方なく先に食べ始めることにした。
しばらくして可恋が戻って来た。
「結さん、どうだった?」
「リラックスしてたよ。応援のお蔭だと感謝してた」
結さんの話だと気付いたキャシーが会話に加わる。
『ユイは勝てそうか?』
『相手は昨年のチャンピオンだから、実力は向こうが上だね』
『そうか。でも、ユイの形をみんな褒めていたぞ』
『基本がしっかりしているからね。スタイルは彼女の姉の舞さんとは違うけど、基本を大切にする姿勢は共通しているよ』
『マイは強いのか?』
『強いよ。世界で一二を争うレベルだから。本当に凄いよ』
舞さんの話になると可恋の口調に熱が帯びる。
そして、彼女の強さについて語り始めた。
可恋は時々こうして熱く語り出すことがある。
空手やトレーニングの話になると心の底から楽しそうに話すので、少し妬けてしまう。
午後の競技が始まった。
団体の形はマスゲームみたいで素人にも興味深く見える。
小学生の大会ではなかったので、わたしも見るのは初めてだ。
「可恋はこういうのはやらないの?」と聞くと、あっさりと首を横に振った。
「空手の形って踊りに近い面もあるんだけど、舞踏と武闘の両方がバランス良く噛み合ってるところにわたしは惹かれてる。舞踏は自分の身体をいかにコントロールするか、武闘はいかに相手と戦うか、ね。団体の形の場合、わたしには舞踏に偏りすぎているように見えるのよ。個人的な意見だけどね」
可恋は武闘派なので、なんとなく納得してしまう。
夕刻、いよいよ決勝戦だ。
最初に女子の個人形が行われる。
結さんが舞台に上がり、観客の視線がそこに集まる。
ここからでは表情まではうかがえない。
先に結さんが演武を行う。
礼をして、気合いの籠もった声を出す。
わたしは祈るような気持ちで応援する。
拳を握り締め、息を潜めて彼女を見守る。
「良い出来だったよ」と演武が終わると可恋が笑顔で言った。
その言葉にわたしはホッとする。
勝ち負けよりも、大きなミスをせずにやり遂げたことに拍手を送りたい気持ちだった。
続いて対戦相手がコートに立つ。
始まった演武は遠い観客席にもその迫力が伝わって来るようなものだった。
ミスしたらなんて考えていないんだろうな。
全身全霊を込めた動きに、思わず頑張れと応援してしまった。
「見事だね」と可恋が絶賛した。
可恋の言葉通り、その三年生が大会連覇を果たした。
「優勝した選手はおそらく舞さんを目標にしてる。逆に結さんはお姉さんとは違う空手を目指してる。その違いがよく表れた良い試合だったね」
そんな可恋の分析を聞きながら、わたしは結さんに「感動しました」とメッセージを送った。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。わたしには「愛の力」が足りてないの! と憤慨している。
日野可恋・・・中学2年生。ひぃなもキャシーも自分がどれほど目立つか理解してないと思う。
キャシー・フランクリン・・・14歳。もうカレンもヒーナもサッポロで一緒に暮らそうぜと思っている。
日々木華菜・・・高校1年生。ヒナとのふたりでの旅行はとても楽しかったけど、死ぬほど疲れた。
三谷早紀子・・・可恋の通う道場の師範代。子どもたちが切磋琢磨する姿を見るのは良いね。特に言う通りに動いてくれる子は好きよ。
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