第341話 令和2年4月11日(土)「スパーリング」麓たか良
ワタシの左ジャブが相手のボディにヒットする。
ヒットアンドアウェイに徹しながら、勝負をかけるチャンスをうかがう。
相手の巨体が動く。
ウェイトのかけ方から見て、右のハイキック……これはきっとフェイントだ。
ワタシはハイキックに備える振りをしながら相手の攻撃へのカウンターを狙う。
やはりハイキックはフェイントで、二階から振り下ろすような拳がワタシの目の前を通っていった。
その隙をついて左ジャブからワンツー。
久しぶりに右がヒットしたが、相手はビクともしていない。
それでも手数で勝負するしかない。
体当たりのように身を寄せてきた相手にバックステップで距離を取る。
しかし、これが裏目に出た。
そこで生じた距離はキャシーの長い足の間合いにピッタリ合っていた。
「そこまで!」
三谷先生の声が掛かったときには、ワタシの顔のすぐ横にキャシーのつま先が到達していた。
ワタシが日野からここに来るように言われたのは1週間前だ。
ワタシだけでなく一緒に街をうろついている仲間たちも連れて来いと連絡してきた。
男子を含め十人ほどで道場に行くと、日野とキャシーが待ち構えていた。
キャシーがしばらくここで暮らすので、練習相手になって欲しいということだった。
その時に紹介されたのがこの道場の師範代である三谷先生だった。
何度か顔は合わせていたが、キチンと紹介されるのは初めてだ。
うちの母親と同じくらいの年齢に見えるが、つかみ所のない恐ろしさを感じた。
「家の中でじっとしていられない気持ちは分かるわ。私も学生の頃はそうだったしね」と彼女は第一声でそうワタシたちに声を掛けた。
「社会の中にあなたたちの居場所がないのは大人の責任。だから、休校中はこの道場をあなたたちに開放するわ」
そう言って親しげな笑みを浮かべた。
そこらにいる大人たちとは違い、肝が据わっているのが伝わってくる。
「ここに来ても来なくてもあなたたちの自由。ただひとつ約束して。ここに来ないのなら家でじっとしていて」
三谷先生はワタシたちの顔を見回した。
威圧感はないが、頷かなければいけないと思うような圧があった。
ワタシもつい小さく頷いてしまう。
ワタシたちのそんな反応に満足したのかニッコリ微笑むと、「約束ね。あなたたちの顔は覚えたから、街で見かけたらここに連れて来て死ぬほどしごいてあげる」と嬉しそうに語った。
仲間内からムッとした空気が湧き上がった。
それを察した先生は男子三人を指差し、本気で掛かってきてと余裕を見せた。
三人は互いに顔を見合わせ、一斉に飛びかかる。
だが、次にワタシの目に飛び込んできた光景は三人が床に転がっている姿だった。
一人目は体さばきで躱し、二人目は手で振り払ったように見えたが、三人目が転ばされたのはワタシの目でも追いきれなかった。
それを見て目を輝かせたキャシーが大声を出して先生に飛びかかろうとする。
けれど、一瞬の踏み込みでキャシーの鼻先に蹴りが入り、キャシーは完全に動きを止めた。
「オマエより強いのか?」とワタシは日野に尋ねた。
「私とキャシーのふたりがかりで、先生は寸止め、私たちは何でもありなら勝負になるかもね」
その日野の回答を耳にした三谷先生は「いいわよ、それでも」と日野に笑い掛ける。
日野は即座に「遠慮しておきます。私がキャシーを蹴り飛ばす未来しか見えませんから」と苦笑した。
その後、稽古という名のしごきがあり、翌日には道場に来る人数が半分に減っていた。
そして、1週間が経ち、道場通いが続いているのはワタシと遥だけになった。
遥は1年後輩で、身体能力は男子に引けを取らない。
容赦のなさからケンカにはめっぽう強い印象だ。
ただ気分屋なところがあり、こんなに続くとは思っていなかった。
ワタシが「よく続くな」と感心すると、「ヒマだから」と遥は答えたがそれだけが理由ではないだろう。
道場では毎日過酷な練習とキャシーとのスパーリングを行っている。
ワタシの場合、練習はボクシングジムで慣れていた。
ジムはいま休業中なので丁度良い練習環境だと言えた。
スパーリングはワタシと遥が交互にキャシーに挑む。
ワタシたちはどんな攻撃をしてもOKだが、キャシーは寸止めという条件だ。
ワタシは当然ボクシンググローブをはめてのボクシングスタイル。
遥は三谷先生から教わった空手をベースにケンカスタイル。
キャシーはこの条件でもまったくワタシたちを相手にせず、ほとんど疲れすら見せない。
キャシーがいま取り組んでいるのがフェイントで、最初の頃は見え見えなものが多かったが、メキメキ上達している。
フィジカルは人間離れした怪物だが、テクニックもあるし、技術を身につけるスピードも速い。
そんな才能の塊が目の前にいると、いろいろと思わないでもない。
「キャシーはどこまで強くなるんスか?」
キャシーが遥相手に遊んでいる姿を見ながら三谷先生に質問してみた。
「本人次第だけど、世界最強女子だって夢じゃないかもしれないわね」
180 cmを優に超える長身、磨き上げられたバネのような黒い肉体、信じられないようなスタミナの量。
これらを目にしていると世界最強という言葉が大げさに聞こえない。
三谷先生はチラリとこちらを見て、「あなただって世界チャンピオンくらいなら狙えるわよ」と言った。
その言葉にワタシの心臓がドキンと跳ね上がる。
「空手だって偉そうなことは言えないけど、女子のボクシングは競技人口が少ないわ。階級制だからキャシーみたいなのとは戦わなくて済むしね」
ジムでも冗談めかして世界を狙えと言われることはあった。
三谷先生の言葉にはそれ以上の重みが感じられた。
「日野はどうなんスか?」と自分の動揺を隠すために別の質問をした。
「彼女は体質的な問題がなければ世界の頂点を狙えたかもしれない。でも、その問題がなければいまの彼女にはならなかったでしょうね」とこちらを見ずに先生は答えた。
「それに何を目指すかという価値観が違うと思うの。日野さんにとっての空手はおそらく自分が生きるための武器なのよ。空手のために何かを犠牲にしたいとは思っていないでしょうね」
その言葉はなんとなく分かる。
日野の目はいつも遠くを見ている。
将来のためにいろいろな備えをしていて、空手もその中のひとつなのかもしれない。
「キャシーは単純に強くなりたいと思っている。だから、いつかは空手から離れて行くでしょうね。その単純さが強みであり、その想いが続けば大きな成功をつかむかもしれないわ」
それはワタシにも伝わってくる感覚だ。
戦うことが好きで好きでしょうがない。
彼女と対戦しているとそんな気持ちが痛いほどよく分かる。
「好きという気持ち、誰かに勝ちたいという気持ち、有名になりたいという気持ち、なんでもいいわ。それは優劣じゃなくて、ただの違いなんだから。その気持ちを持ち続けられるかどうかだけなのよ」
三谷先生はそう言うと、スパーリングを止めるために前に歩み出た。
ワタシは両のグローブを胸の前で合わせ、精神を集中させる。
ワタシだって強くなっている。
ウエイト差があって与えるダメージが微々たるものでも砕けないとは限らない。
「よっしゃ! 行くぜ!」
ワタシは気合いを込めて大声を出し、キャシーを睨みつけながら足を踏み出した。
††††† 登場人物紹介 †††††
麓たか良・・・中学3年生。兄もこの辺りで有名な不良だった。日野の勧めで昨夏からボクシングジムに通い出した。
キャシー・フランクリン・・・14歳。G8。昨夏来日し、それ以降空手を習っている。米国ではレスリングを経験していた。
日野可恋・・・中学3年生。病弱だった幼少期に少しでも体力をつけるために空手を始めた。大会にはほとんど参加していない。
小西遥・・・中学2年生。姉の恵はたか良の友人。その繋がりで小学生時代からたか良とはよく顔を合わせていた。
三谷早紀子・・・選手時代から空手界ではかなり有名だった。その後アメリカで指導者としての経験を積んだ。可恋より強いかどうか実際のところは不明。
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