第340話 令和2年4月10日(金)「情報の取り扱い」藤原みどり

「オンライン授業の実施に向けて準備を進めることを許可していただけませんか?」


 校長室で私は頭を下げる。

 一斉休校の実施以来、私はオンライン授業について勉強していた。

 4月から学校が普通に再開できたらいい。

 しかし、それができなかったら……。

 その不安は的中した。


 一斉休校は突然すぎて3月中は準備が間に合わなかった。

 ようやく私の中である程度の目処が立った4月に入り、学校は年度替わりで体制が変わった。

 新しい校長が赴任し、いろいろなことが一から作り直しになる。


 オンライン授業の件は学年主任の桑名先生を通じて校長に打診してもらっていた。

 だが、まったく回答が来ず、こうして私は直談判を試みたのだ。


「公教育に求められているのは公平性です」


「それは分かります。しかし、現実には教育熱心な家庭ではオンラインを使った学習が行われています。学習塾でも同様です。それに対して共働きなどで家庭に放置されている生徒は学習機会が与えられていません。この2ヶ月で教育格差の拡大は火を見るより明らかです」


 私の熱弁に望月校長は鋭い視線を向けた。

 かなり背筋が冷たくなるものの、こうした視線は日野さん相手で慣れている。


「オンライン授業が無理なら、テレビ会議を利用したオンラインでのホームルームの実施だけでも許可をお願いします」


「ですが、すべての家庭で行う環境が整っていないでしょう?」


 本来であれば始業式の日に私が担任をする3年1組だけでもその調査を行う予定だった。

 ところが、副担任の君塚先生とちょっとしたトラブルが発生し、それすら行えなかった。


 私は言葉に詰まったが、それでも「調査から始めようと思います」と前向きに答えた。

 休校期間はまだ1ヶ月近くある。

 分散登校も中止となり、この間に生徒たちと顔を合わせる機会はほとんどない。

 しかも、本当に5月6日に学校が再開できるとは限らないのだ。


「分かりました。始める前には必ず報告するように」と一瞬微笑みを見せた校長は、「他の業務を疎かにしないように」と釘を刺してから私に退出するよう促した。


 私は一礼して校長室をあとにする。

 誰も見ていないのを確認してから、私は壁に寄り掛かり、はーっと長い息を吐いた。


 ……疲れたあ。


 その時、いきなり校長室のドアが開き、校長が顔を出した。

 へたり切っていた私は慌てて姿勢を正そうとしたが、たぶんバッチリ見られてしまったと思う。


「これを君塚先生に渡してください」と校長は何も見なかったかのように私に書類を渡した。


 私がそれを受け取るとすぐにドアを閉めた。

 私はそのドアをじっと見つめながら、油断大敵と心の中で呟いた。


 私がオンライン授業の直訴までしたのは君塚先生の存在があったからだ。

 彼女は校長と同じ中学から転任してきた。

 そして、私が担任を務める3年1組の副担任となった。

 初対面の挨拶の時から私を見下すような雰囲気があった。


 彼女は教師歴20年近いベテランで、こちらは4年目で初めての担任となる。

 私のサポート役として副担任に就いたはずなのに始業式の時から自己アピールが凄まじく、ホームルームではどちらが担任か分からないほどだった。

 私が抗議をしても聞く耳を持たない。


 そこでオンライン授業である。

 彼女に相談したときに「そんなの無理よ」とまったく相手にされなかったが、おそらく機器の扱いなどができないのじゃないかと私は睨んだ。

 差をつけるチャンスだ。


 教師の評価で授業の巧拙はあまり重きを置かれない。

 生徒指導や部活動などの目に見える部分が重視され、クラス運営や授業は減点方式で、問題を起こさない無難な対応が良しとされてしまう。

 私が教師として評価されるにはオンライン授業のような分かりやすい実績が欲しいところだ。


 職員室では君塚先生が椅子に座り、マスクをずり下げた状態で大声を出して電話をしていた。

 近寄りたくはなかったが、「これ、校長先生からです」と預かった書類を彼女の机の上に置く。

 君塚先生は私の方をチラリと見ただけだ。


 私は一度着席したが、すぐに立ち上がった。

 向かった先は校庭だ。

 見頃を過ぎた桜は葉の緑が目立つようになってきている。

 逆に地面には花びらが数多く散っていた。

 ベンチにハンカチを敷いて腰掛け、私は青空を見上げた。


 私は視線を学校近くのマンションに移す。

 この辺りではちょっと浮いた感じがするような高級マンションだ。

 私はスマホを取り出し、そこに住む生徒に連絡を入れる。

 生徒に頼るのは本意ではないが、いまは家庭訪問すらままならない状況だ。


 私は日野さんに校長との会話を伝えた。

 彼女は『協力しますよ』と即答してくれた。


『そうですね、クラス全員のスマホ、パソコン、タブレットの所有状況、インターネット回線やWi-Fiの有無、本人や家族にシステムを導入する能力があるかどうかの確認を行いましょう』


 持つべきものは優秀な生徒だ。

 一を聞いて十どころか百くらい知りそうな日野さんは、私が頼む前にこう請け負ってくれた。


『朝のホームルームだけでもやりたいのよ。いまは生活のリズムが不規則になりがちだし、家族以外の他人と顔を合わせるなら身だしなみにも気を使うでしょ?』


『スマホがあればクラス全員同時は無理でも小グループ単位でできそうですね』と日野さんは私の意見に同意してくれる。


 これで一安心と思っていたら、『藤原先生からの調査ということで、あとひとつふたつ質問を追加してもいいですよね?』と日野さんは付け加えた。

 私は焦りながら『あとひとつふたつって?』と確認するが、『たいしたことじゃないですよ』と答えてくれない。


『本当に?』と念を押すと、『本当に大丈夫です』と日野さんは言い切った。


 私は渋々承諾した。

 そりゃ土日も休まずに頑張れば私ひとりでもできるかもしれないが、教師だって土日くらいは休みたい。


『君塚先生はどうですか?』と日野さんが話題を変えた。


『本人は校長の右腕なんて言っているけど、そこまで校長から信頼されている訳でもないみたい』とつい友だちと話すように気軽に答えてしまう。


『結婚してから人が変わったみたいだと噂されているそうですが、何があったんでしょうね』


『え、なにそれ』と私は驚きを口に出す。


『昔は生徒指導より授業優先だったそうですよ』と日野さんはこともなげに話すが、いったいどこから情報を集めているのだろう。


 それを尋ねてみても『企業秘密です』と愛想がない。

 スマホにはしかめっ面となった私の顔が映り込んでいる。

 ふと、嫌なことに思い至った。


『日野さん、私のこともそんなに詳しく調べたの?』と恐る恐る尋ねると、『それほどでも』という答えが返ってきた。


 それほどってどれほどよ。

 そう聞き出したかったが、恐ろしくて聞けない。

 彼女の口からならどんな私の秘密が出て来てもおかしくないと思ってしまう怖さがあった。

 いや、まさかね。

 いくら何でも相手は中学生だ。

 私がなんとか気持ちを切り替えたところで、日野さんは『お母様によろしくお伝えください』と口にした。


 待って!

 何よそれ!


『え、ちょっと待って!』と私は慌てたが、すでに通話は切れていた。


 母は専業主婦で、子どもが巣立ってからは寂しいのかたまに電話するとやたら長話をして切らせてくれない。

 それが嫌で電話する機会がめっきり減ったが、私の教え子と名乗る中学生が礼儀正しく電話してきたら調子に乗って喋りまくってしまいそうだ。

 母に確認すべきところだが、私は必殺技の「聞かなかったことにする」を繰り出すことにした。

 生徒が自分の黒歴史をあれこれ知っているなんて、おちおち教師をやってられないじゃない!




††††† 登場人物紹介 †††††


藤原みどり・・・3年1組担任。国語担当。保護者は学校に文句の電話はガンガン掛けてくるくせに、こちらからの電話には出ないのよ!


望月寿子・・・4月に赴任した校長。「生徒のため」が口癖。


君塚紅葉・・・3年1組副担任。英語担当。風の噂によると若い頃は美人教師と持てはやされたらしい。現在はひっつめ髪にジャージ姿とオシャレには無縁。


日野可恋・・・3年1組。常在戦場が信条で、戦闘の基本は情報収集という考え方。中学生離れしたスペックの持ち主ゆえ制御が困難。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る