第531話 令和2年10月18日(日)「ヌード?」高木すみれ

 あたしは走っていた。

 重い鞄は肩に食い込み、すぐに息が切れ始める。

 それでも焦る気持ちが足を止めさせない。

 薄曇りで昨日より暖かいとはいえ、あたしはもう汗びっしょりになっていた。


 駅から学校まで、おそらく人生最速のタイムで駆け抜けた。

 日野さんに言われた筋トレをずっとサボっているから運動なんて体育の時間だけだし、苦手科目のひとつだ。

 それでもピチピチの中学生なのだから大丈夫だろうと思っていた。

 結果は立っているのがやっとで、あたしは膝に手をついて息を整える。


 ……時間は?


 慌ててスマホを取り出し時間を確認する。

 16:59とあった。

 あたしは「ヤバい」と叫んで学校の正門前にあるマンションのインターホンを押した。

 何度来ても緊張してしまう高級マンションだが、いまはそんなことを感じる余裕すらなかった。


「無理して急がなくても良かったのに」


 玄関で迎えてくれた日野さんがクタクタになったあたしを見て言った。

 あたしは精一杯姿勢を正し、「いえ、あたしがお願いしたことですから!」と強がってみせた。

 日野さんの背後にいる日々木さんはあたしを見てなぜか驚いた顔をしていた。


「来客があるって、高木さんだったんだね」


 ダイニングテーブルに着くなり、日々木さんがそう口にした。

 日野さんは「ひぃなには私から伝えておく」と話していたから、てっきり知っているものだと思っていた。

 その日野さんはキッチンからトレイを運んできた。

 自分たちにはホットティー、あたしには「こちらの方がいいでしょ?」と冷たいミルクティーを出してくれる。

 あたしは遠慮なくグラスを手に取るとゴクゴクと飲み干した。

 火照った身体に冷たいドリンクが染みわたるようで、あたしはフーッと大きく息をつく。


「時間通りだったんでしょ?」と日々木さんに聞かれて、「本当は5分前には着くつもりだったんですが、授業が延びて……」と理由を説明した。


 気の小さいあたしは集合時間に遅れないように常に5分前に到着するよう心がけている。

 だが、今日の美術予備校で終了間際に受けた指導が時間オーバーしてしまいギリギリとなってしまった。

 丁寧に指導してもらえるのはありがたいが、こんな時に限ってという気持ちは湧いてしまう。


「偉いのね」と日々木さんは褒めてくれるが、単に小心なだけだ。


「それで、えーっと……」とあたしは目の前に並ぶ日野さんと日々木さんの顔を交互に見る。


 日野さんには用件を伝えてOKしてもらっているが、この様子だと日々木さんは用件を知らないだろう。

 あたしから言った方がいいのか、日野さんが言ってくれるのか……と思っていると、日野さんから視線で言葉の続きを促された。


「今日はおふたりをモデルにデッサンをしたいと思っています。日野さんには1時間くらいならと聞き入れてもらいましたが、日々木さんもよろしいでしょうか?」


 あたしは座ったまま日々木さんに向かって頭を下げる。

 すると、間髪入れずに「ヌード?」と日々木さんから問い返された。

 横目で日野さんの表情をうかがうと、睨むようにスッと目が細められた。


「いえ、そんな。着衣でお願いします」


 1年以上前にふたりのヌードデッサンを行った。

 いまにして思えば大それたお願いを聞いてもらえたものだ。

 あの時の強烈な記憶はいまも脳裏に焼き付いている。


「えー!」と不満そうな声を上げたのは日々木さんだ。


 下手をしたらデッサンに協力してくれないと言い出しかねない勢いだ。

 あたしはあたふたと自分の思いを言葉にする。


「最近、十分に絵に向き合えていないと思っているんです。惰性で描いているみたいな気がして。昨年の文化祭であたしはおふたりの絵を描きました。自分の中の最高傑作が描けたと思いました。でも、それで満足したみたいになっちゃって、それ以降は……」


 日野さんと日々木さん。

 ふたりは最高のモチーフだ。

 腕に自信があったあたしでも頭の中のイメージをキャンパスに落とし込むのに苦労した。

 悪戦苦闘して必死になって完成させたのが文化祭で飾られたあの1枚だった。


 だが、その後のあたしは停滞している。

 マンガの作画やイラストでもそうだ。

 それなりの絵を描いて、それで満足してしまっている。

 ソシャゲにハマったのも絵に対する情熱が薄れてしまったせいだろう。

 もっと上手くなりたいという熱意が明らかに減っていた。


 夏に予備校に通うようになって、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 ただ、それで急に変われたかというと無理だった。

 一度失ってしまった熱意は取り戻せないのかと焦るばかりで、何を描いても中途半端に感じている。

 今年の文化祭に出展する絵を描き上げてから昨年の絵と見比べてみた。

 あたしの目には成長のあとは見えず、思い入れが足りない分だけ今年の絵は魅力がないような気がした。


 そこで、初心に戻るためにふたりのデッサンをしたいと思い至った。

 日々木さんにお願いした方が承諾してもらいやすいだろう。

 だが、あえて日野さんにお伺いを立てた。

 思いの丈を伝えると、あっさりと認めてもらった。

 忙しい日野さんの日程を調整した結果、今日の夕方に描かせてもらえることになったのだ。


 あたしの話をじっくり聞いた日々木さんは「やっぱりヌードの方が良くない?」とこちらを見る。

 そりゃあヌードの方が嬉しいけど、日野さんの視線が怖くてとても首を縦に振ることなんてできない。


「何を着るかはひぃなに任せるってことでどう? ヌードはなしで」と日野さんが提案してようやく日々木さんは納得してくれた。


 日野さんは部屋着という感じのスウェット姿だが、日々木さんはなぜか黒一色で、フード付きの貫頭衣のようなものを着ている。

 あれだ。

 死神が着ているような服だ。

 大きな鎌でも持つとピッタリだ。

 妖精や天使に喩えられる日々木さんは完璧な顔の造型ゆえに人間離れした存在に見えることがある。

 愛らしい笑顔を消すと死神に見えなくもない。

 身体のサイズを考慮しなければ、だけど。


 あたしが日々木さんの服装を眺めている間、頬に手を当てて考え込んでいた日々木さんは「まずはお風呂にしましょう」と顔を上げた。

 日野さんは「ヌードはなしだよ」と念を押すが、「分かっているよ。でも、モデルをするならピカピカに磨いてからじゃないと」と日々木さんは反論した。


 写真じゃなくて絵なのだからと口を開きかけたが、日々木さんが真剣な気持ちでモデル役に取り組んでくれるというのが分かったので、あたしは何も言わなかった。

 日野さんも日々木さんの主張を受け入れたようだし。


「夕食を用意するよ。終了時間がオーバーするけどいいよね? 帰りは送っていくから」


 日野さんにそう言われて、あたしは「ありがとうございます」と礼を言う。

 それからお母さんに許可を求める電話を掛ける。

 日々木さんはそそくさと浴室に行き、日野さんはキッチンに向かった。


『あ、お母さん。これからあたしの人生を左右する経験ができそうなの。帰りが遅くなるし、ご飯もいらない。え? 初体験? 初めてじゃないよ。もー、何を言っているのよ』




††††† 登場人物紹介 †††††


高木すみれ・・・3年2組。美術科高校進学を目指している。絵画でもマンガの作画でもかなりの腕を誇り、技術力は非常に高い。一方で、予備校に通うほかの生徒を見て独創性やテーマ性などが足りないと感じている。


日野可恋・・・3年1組。真面目で技術があって言うことを聞いてくれる子には親切。「手駒? 互いにとってウィンウィンの関係になれれば問題ないでしょ」


日々木陽稲・・・3年1組。昨日可恋とお洋服を買いに行く予定だったのに、寒いから嫌だ、雨が降っているから嫌だと予定がキャンセルされてお冠。今日はファッションショーの準備があって行けなかったし……。

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