第35話 令和元年6月10日(月)「学校」渡瀬ひかり

 わたしは学校に行くことを決めた。

 親からは転校してもいいと言われた。

 でも、先生のいない学校ならどこだって一緒だ。


 補導された日、車で警察署に連れて行かれた。

 夜遅いからと話を聞かれることもなく、お巡りさんが泊まる部屋だというところでひとりで眠った。

 親も駆けつけたけど、家には帰してもらえなかった。


 翌日は朝から話を聞かれた。

 先生のことは話したくなかったのに、なぜかいろいろ喋っていた。

 かばいたいという気持ちを利用されたのかもしれないと気付いたのはかなり後になってのことだ。

 加害者というより被害者として扱われている感じがした。

 そして、夕方には家に帰った。


 家族はわたしを腫れ物に触るように扱った。

 元々、父親や兄とはほとんど会話がなかった。

 母親とは小学生の頃まではとても仲が良かった。

 それが中学生になってから鬱陶しく思うようになった。

 怒られることはなく、変に気を遣われ、それなら放っておいて欲しいと感じた。

 家にいる方が苦痛に思えた。


 金曜日、学校の校長先生と担任の先生が家に来た。

 謝られたけど、別に謝ってもらうようなことはないと思った。

 クラスメイトが待ってるって言われたけど、それもどうでもよかった。


 土日は昼間警察署に行き話を聞かれ、夜は家で暇を持て余した。

 スマホを返してもらえなかったし、新しいものを買ってもらうこともできない。

 仕方ないと分かっていても、スマホ中心の生活をしていたから本当に困る。

 自分の部屋にはテレビもパソコンもない。

 親と顔を合わせたくないので、居間のテレビを見る気にもならない。

 パートの仕事をしていた母親が今回のことで仕事を辞めると言い出して、ますます家に居づらく感じられた。


 日曜の夜に「明日から学校に行くから」と家族に告げた。

 父親は「そうか」とだけ言った。

 母親は「もっと落ち着いてからの方が……」と心配していたけど、落ち着いたらどうなるのかなんて分からない。

 学校は先生と泊里がすべてだった。

 他はどうでもよかった。


 朝、冷たい雨の中を歩く。

 通学路の途中に泊里との待ち合わせ場所がある。

 あれから一度も泊里と連絡を取っていない。

 スマホがないからというだけでなく、何を話していいのか分からなかったから。

 そこに泊里はいない。

 わたしは歩みを止めることなく学校へ向かった。


 いつもより少しだけ早く着いた教室。

 何人かがわたしを見ている。

 視線を無視して自分の席に行こうとしたら、音もなく日野さんが近付いてきた。


「おはよう」


 わたしはかすかに頭を下げた。

 自分の席に着く。

 日野さんがついてきた。


「今回の件、谷先生とのこと、クラスの女子にはすべて話しているから」


 わたしの耳元で囁いた。

 あの場には何人ものクラスメイトがいた。

 噂として広まるのは分かり切ったことだった。


「男子や他のクラスの人には話さないように釘は刺してる」


 わたしは日野さんを見た。

 その顔に同情や哀れみが浮かんでいたら、怒鳴っていたかもしれない。

 しかし、彼女の表情はいつも通りで、そこから彼女の感情を読み取ることはできなかった。

 彼女は誰かを見つけたようで、その相手に目配せして去って行く。

 去り際に、「何かあったら教えてね」と言葉を残して。


 入れ違いにやってきたのは松田さんだった。


「おはようございます」


 1年の時から同じクラスだったのに、ここ1年ほど挨拶すら交わしてなかった相手だ。


「……おはよう」


 挨拶を返さないといつまでもわたしの側に立ってそうだったので、仕方なく口を開いた。

 松田さんはにっこりと微笑んだ。

 彼女は深呼吸をして口を真一文字に結ぶ。

 それからチラッと廊下側に目をやった。

 視線の先には日野さんと日々木さんがいて、こちらを見ていた。


「渡瀬さん。しばらくの間だけでも、わたしたちのグループに入りませんか?」


 意外な申し出だった。




 小学生の頃わたしはクラスの中心にいた。

 望んでというより、自然とそうなっていた。

 それが当たり前で、中学生になってもそれが変わるなんて想像もしていなかった。

 実際、中学でもわたしの周りに人が集まり、楽しく過ごしていけそうだった。


 それが一変したのは、笠井さんが松田さんと手を組み、クラスメイトにわたしか松田さんかどちらにつくか迫ってからだ。

 わたしは松田さんや笠井さんとも仲良くやっていけると思っていたのに、それは許されなかった。

 グループ作りなんて意識してやったことがなかったので、気が付けば周りに人がいなくなっていた。


 その時に合唱部に誘ってくれたのが泊里だ。

 どうしていいか分からなかったわたしは、ただ泊里の言葉に従うだけだった。

 クラスでは泊里以外とは喋らず、いつもふたりで行動した。

 合唱部では谷先生に気に入ってもらえて、常に特別扱いをされた。

 他の部員からは妬まれたりしたけど、泊里と谷先生が守ってくれた。




 こんな時はいつも泊里が決めてくれたのに、いま彼女はいない。


 どうしようと悩んでいると、笠井さんがやって来た。

 その背後に田辺さんと須賀さんを引き連れて。

 笠井さんは明らかに怒っているように見えた。

 また反対されるんだろうとわたしは思った。


「美咲とアタシに謝って。ちゃんとよ。それが条件」


 わたしは驚いた。

 彼女が怒るのは当然だった。

 彼女は盗撮した写真を見ている。

 下着が写った写真はそれほど多くなかったけど、その大半は笠井さんを撮ったものだった。

 彼女が撮りやすい服装や仕草をしていたからだったけど、彼女のことを嫌っているから平気で撮影できたという理由もあった。


 補導されてから今まで、わたしは誰にも謝っていなかった。

 謝れとも言われなかった。

 警察で注意はされたけど、それだけだった。


 わたしは松田さんと笠井さんの顔を見る。

 松田さんは優しく頷いた。

 笠井さんは横を向いているけど、こちらを見ていた。


「……盗撮してごめんなさい。本当にごめんさない」


 わたしは思い切り頭を下げる。

 突然涙が零れ、どうしていいか分からなくなった。


「もういいから、頭を上げて」と松田さんが言ってくれた。

 わたしが顔を上げると、すぐにハンカチを貸してくれる。


「これで水に流しましょう。いいわね、優奈」


 笠井さんは相変わらず横を向いたままだったけど、黙って頷いた。


「渡瀬さんとは前からゆっくりお話ししたかったの。そうだ、わたしのことは美咲でいいからね」


「じゃあ、わたしも、ひかりで」


「よろしくね、ひかり」


 その言葉にわたしは心臓が止まるような気持ちになった。

 頭に血が上り、顔が赤くなる。


「……よろしく、美咲」


「私も綾乃でいい」


「あ、わたしも彩花って呼んでくれていいから」


 田辺さんと須賀さんがそう言ってくれた。


「ありがとう。ひかりって呼んでね」と素直に言葉が出た。


 笠井さんだけが黙ったまま横を向いている。


「えーっと、優奈って呼んでいいかな?」と訊くと、「好きに呼べば」と答えてくれた。


「優奈は照れてるのね」と美咲が笑う。


「バカ、違うわよ」と優奈が顔をしかめる。


 わたしは自分が微笑んでいることに気付いた。


 笑ったのなんていつ以来だろう。

 合唱部でだって最近は笑った記憶がない。

 泊里とこそこそ笑い合っていたのは誰かの悪口を言ってだった。

 こんな風に普通に笑うことを忘れていたなんて。


 なんだか心の中が上書きされていくように感じる。


 泊里、ごめん。


 合唱部はもういいや。


 わたし、いまとても楽しい。

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