第401話 令和2年6月10日(水)「初めての朝稽古」保科美空
朝5時。
目覚まし時計の大きな音が部屋に鳴り響き、あたしは布団から飛び起きた。
いつもは朝が苦手でなかなか起きられない。
それに昨日の夜はドキドキして寝つけなかった。
あたしは時計を止め、とりあえず布団から抜け出す。
ここで油断したら二度寝してしまいかねない。
なんといっても今日は特別な日だ。
寝坊なんてことになったら死んでも死に切れない。
布団を押し入れにしまい込むと、気合を入れるために両頬をパンと音を立てて叩いた。
寝間着のままトイレを済ませ、顔を洗って部屋に戻るともう出発の時間まであとわずかだった。
支度は昨夜のうちに整えてある。
スポーツブラにTシャツ、ハーフパンツを着込み、道着の入ったリュックを背負って部屋を出ようとする。
「おっと。これこれ」と中学生になってから伸ばし始めた髪をゴムで留める。
小学生の頃は男の子と見間違われてばかりだった。
オシャレなんて背中がこそばゆい感じもするけど、中学生なんだから少しはね。
台所の冷蔵庫から牛乳を取り出しグラスに注ぐ。
牛乳を戻す時に冷蔵庫にたくさん入っているプロテインバーをひとつ手に取り素早く封を切る。
それを牛乳で流し込むように食べる。
口元を手で拭い、玄関へ駆け出す。
「行って来ます!」
大声でまだ寝ているであろう家族に言って家を出た。
玄関先に駐めてある自転車に乗り込み、あたしは朝の街に飛び出した。
道場の朝の稽古は選ばれた人しか参加が許されていない。
夏休みなどはそれとは別に朝稽古が行われたりするけど、この道場に所属する者にとって朝稽古といえばこの毎朝の特別な稽古のことだった。
先週、夕方の稽古が終わって師範代からみんなの前で「10日から朝稽古に来なさい」と伝えられた。
あたしは天にも昇るような心地になった。
どれだけ嬉しかったのか言葉にできないほどだ。
その時は喜びを態度に出さずにただ「はい!」と答えたが、できることなら飛び上がって全身で気持ちを爆発させたいくらいだった。
現在朝稽古に参加が許されている中学生はひとりだけだと聞いている。
その人は夕方の稽古に参加しないので面識はほとんどない。
キャシーさんですら許されていないのだから、あたしはまだまだ先のことだと思っていた。
それが他の子たちを差し置いての抜擢だ。
「この休校中にコツコツ頑張っていましたから、更なる飛躍を期待します」と師範代は仰った。
学校が休校になり、小学6年生だったあたしは友だちとの最後の時間を共にできなかった。
心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。
道場も学生の参加は禁止され、非常事態宣言が出てからは大人の稽古も中止になった。
卒業式や入学式は行われたものの授業はまったくなくなり、あたしは時間を持て余していた。
友だちと遊ぶことができず、家族旅行なんてもってのほか。
もちろん空手の稽古や勉強をすればいいと頭では分かっていても、ついダラダラと過ごしてしまう。
そんな矢先に両親がスマホをプレゼントしてくれた。
放っておくとあたしがうろちょろ外出しそうだったので、先手を打ったのだろう。
使用時間の制限などのルールを決めて使うことを許された。
そして、ちょうどそのタイミングで師範代からトレーニング動画の充実したサイトを教えてもらった。
女子学生向けに特化したもので、とても分かりやすくてメニューの組み方などの情報も豊富だった。
あたしは空手が好きで、組み手の稽古なら立てなくなるまで頑張れる根性があると思っている。
でも、基礎の稽古や筋トレといった地味な練習は大嫌いだった。
だって、つまんないし。
師範代からは「騙されたと思って1週間頑張ってみたら」とそのサイトを教わった時にアドバイスしてもらった。
ひとりじゃ組み手の稽古ができないし、ほかにやりたいこともないので師範代の言う通りにやってみた。
1週間くらいで結果が出るなんて思ってもみなかった。
なのに、少しだけど筋肉が付き、効果が実感できたのだ。
成長期のタイミングと合っていたのかもしれない。
あたしは夢中になってトレーニングに励み、その成果が出ては喜んだ。
稽古が再開され、組み手ですぐに結果が出た訳ではないが、それでも強くなった手応えがあった。
そして、この朝稽古解禁である。
晴れ渡った空の下、自転車はぐんぐん加速する。
朝早いので人通りは少ないが、ジョギングする人はちらほら見かけるので飛ばしすぎには注意が必要だ。
風を切っていくことで気持ちが高まり、隣町にある道場に着いた頃にはかなりの躁状態になっていた。
人の姿を見かけると、「おはようございます!」と叫ぶように挨拶する。
感染症対策でいつもの更衣室ではなく母屋の部屋のひとつに向かい、パパッと着替えを済ます。
いまなら高校生は無理だとしても夕方に一緒に稽古をしている小中学生のメンバーになら負ける気がしない。
……キャシーさんは別だけど。
気持ちは頂点に達し、怒鳴るように思いを挨拶にぶつけて道場に足を踏み入れる。
その瞬間、それまでの高揚感が消え去った。
半数以上がおじさん、おじいさんで、三分の一くらいが女性だった。
あたしのように気負っている人はいない。
軽く身体を動かしている人、瞑想している人それぞれだ。
ただ張り詰めた緊張感だけは痛いほど感じた。
「
「三谷先生、おはようございます」とあたしは金縛りが解かれたようにホッとして師範代に挨拶する。
師範代が手招きしたので、壁際を通って駆け寄った。
近づいて改めて一礼し顔を上げると、「今日はここから見学ね」と言われてしまった。
表情に出さないように気をつけていてもがっかりした思いは伝わったのだろう。
師範代から「自分がこの中に入ってどう動けばいいのか想像しながら見ていなさい」と指示された。
あたしはこれまでも何度か朝稽古を見学したことはあった。
その時は凄いなあと思うだけで終わりだった。
あたしがこの中に加わるなんて思っていなかった。
今日だって具体的なイメージをしてここに来た訳じゃない。
これまでと違った見方をした朝稽古は凄まじいの一語に尽きた。
たぶん、あたしが参加していても右往左往するだけで何もできなかっただろう。
参加している人たちはまるで綿密な打ち合わせでもしたかのように次々と動いていく。
基本的な稽古の流れは当然あたしの頭の中にも入っている。
しかし、普段の稽古ならひとつが終われば次へ気持ちを切り替える時間がある。
そうした時間がなくドンドンと稽古は進んでいき、誰もが高い集中力を保って行動していた。
こうして見ていると自分がここに加われるのか心配になってしまう。
「まだ時間あるよね。このあとはキャシーの稽古だけど、あなたも一緒に稽古をつけてもらうといいわ」
学校は再開されたが、分散登校なので今日は午後からだった。
あたしは「はい!」と返事をする。
朝稽古の参加者がササッと道場から姿を消し、代わって現れたのがキャシーさんだ。
見上げるほど大柄で、道着の上からでも筋肉の塊だと分かる。
並んで入って来たのは高校生くらいの黒髪の女性だった。
「可恋ちゃん、この子は中学生になったばかりの保科
師範代はそう言うと、「あとはよろしくね」と道場から出て行った。
あたしは名前を耳にして、この女の人が自分と同じ中学生だと分かった。
あたしより頭ひとつ近く長身で、落ち着いた雰囲気がある。
形の選手だと聞いている。
朝稽古に参加できるほどの実力の持ち主らしいが、その実力をハッキリと目にしたことはなかった。
「よろしくお願いします」と挨拶すると、あたしを一瞥して「よろしくお願いします。朝稽古と同じ流れでやりましょう」と言って稽古の段取りを丁寧に説明してくれた。
……見た目はキツそうだけど、優しいお姉さんなのかな。
そんな感想がわずか1時間で吹き飛ぶことをこの時のあたしはまだ知らない。
††††† 登場人物紹介 †††††
保科
三谷早紀子・・・この空手道場の師範代。女性に対する指導に定評がある。
キャシー・フランクリン・・・G8。来日して間もなく1年となる黒人少女。母国アメリカではレスリングを学んでいた。
日野可恋・・・中学3年生。中学1年生の冬に関西から転校してきた。それ以来この道場に通っているが基本朝稽古のみ参加している。空手歴は長い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます