第402話 令和2年6月11日(木)「綾乃」須賀彩花

『何があっても綾乃の味方だからね』


 わたしがそう告げたのは月曜日の夜のことだった。

 学校が再開され1週間が経とうというのに綾乃は登校してこなかった。

 休校になってから3ヶ月、彼女はほとんど家から出ていない。

 連絡こそ毎日取り合っているが、いまだに外出を許されずにいた。


 詳しい理由は教えてもらえなかった。

 言葉の端々から親――特に母親――が原因であることはうかがえたが、元々自分のことを話そうとしない綾乃は事情を説明しようとはしなかった。

 わたしは休校が終わったら彼女が元気に学校に戻ってくると信じて待った。

 しかし、6月に入っても状況は変わらず、ついに綾乃が打ち明けてくれたのだ。


『あのね、お母さんがね……』


 それはショッキングな内容だった。

 綾乃の母親は以前から新興宗教のようなものにハマっていたらしい。

 それが今回の新型コロナウイルスの騒ぎでより熱を入れ始めた。

 予言していた教祖だか何だかの教えに従って、同じ信者以外とは関わらない生活をしているらしい。

 綾乃とお姉さんは外出を許されず、少しでも逆らうとお母さんは狂ったようにわめき散らすと教えてくれた。

 仕事が忙しいお父さんはそんな家の状態を避けるようになり、理由をつけて家に帰ることが減ったそうだ。


『言えなくて、ごめんね』と綾乃は謝った。


『ううん。謝らないで。綾乃は全然悪くないんだから。わたしこそ……』


 綾乃がダンス部の部長である優奈には理由を教えていたことに対して、わたしの中にもやもやした思いがあったのは事実だ。

 本当に仲が良い友だちだったのに、どうしてわたしには教えてくれないの、と。

 言えない事情があると分かっていても、心の片隅にそんな気持ちが存在していた。

 わたしじゃ頼りにならないのかなとか、水くさいよねとか……。


 だけど、綾乃の話を聞いて言いたくない彼女の思いが痛いほど理解できた。

 仲が良いからこそ言えないこともある。

 言いたくないこともある。

 特にこんな身内の恥のようなことは。


『先生にも相談したけど、難しいって話で……』


 通常であれば学校に行かせないというのは虐待に当たるそうだ。

 しかし、いまはまだ非常時のようなもので、新型コロナウイルスに不安を感じる保護者は少なくない。

 綾乃のお母さんは感染者が減っていることを陰謀だの情報操作だの言っているらしいが、時間を掛けて説得するしかないそうだ。


 綾乃は感情を表に出す方ではない。

 相手の話には親身になって耳を傾けるが、自分のことは口を閉ざす。

 いまだって事実を淡々と話すだけで、どれだけ苦しい思いをしているのか一切見せようとしない。

 冬頃は切なそうな雰囲気の綾乃をよくハグしてあげた。

 そうすると彼女は安心した顔つきになった。

 いろいろな不安を抱えていたんだろう。

 わたしは何も気づいてあげられなかった。


 いまもわたしは彼女のためにしてあげられることがほとんどない。

 ただ言葉で励ますくらいだ。

 せめてその小さな手を握ってあげることができたら……。


『……日野さんに相談していい?』


『……うん』


 学校の先生すら頼りならない状況で、すがる藁があるとすれば日野さんだろう。

 同じ中学生とは思えない大人びた判断力と行動力を持っている。

 綾乃がわたしに理由を告げたのも、わたしから日野さんに助けを求めることを期待したからかもしれない。

 わたしは急ぎ日野さんに事情を伝え、それから3日が経った。


「綾乃!」


 わたしはさしていた傘を放り出して綾乃に抱きついた。

 彼女に触れるのはいつ以来だろう。

 小柄な綾乃は以前より痩せ細っているように感じた。


「……彩花」


 わたしが抱きついたせいで綾乃も傘をさせなくなった。

 ふたりの上に雨が降る。

 わたしは力の限り綾乃を抱き締め、その温もりを身体全体で確かめた。

 言葉は出て来ない。

 ただただ彼女の名前を呼び続ける。


「風邪を引くから」と日野さんに諭されるまでわたしは綾乃を離そうとしなかった。


 日々木さんからタオルを借りて、わたしと綾乃は頭を拭く。

 全身ずぶ濡れだから小さなタオルでは焼け石に水だ。

 日野さんと日々木さん、綾乃と綾乃のお姉さん、そしてわたしの5人が向かったのは綾乃の家から少し離れたところにあるウィークリーマンションだった。


 夕方、わたしは日野さんから呼び出された。

 急いで駆けつけると綾乃が救出されていた。

 そこから彼女と手を繋いだままここまで歩いて来た。


 案内された部屋に入るなり、「風邪を引くからふたりでお風呂に入ってきて」と日野さんに言われ狭いユニットバスに放り込まれた。

 いまだに綾乃と何を話していいか分からない。

 彼女が服を脱ぎ、その不健康な青白い肌にわたしは言葉を失ってしまう。

 わたしも手早く服を脱ぎ、綾乃のあとを追って浴室に入る。


「前もこうして一緒にお風呂に入ったね」


 その時に入った我が家の風呂よりもここは狭い。

 シャワーを浴びるだけだから問題ないと思っていたけど、ふたりで立っているだけでも身体を寄せ合わないといけない感じだ。

 シャワーを浴びていると、綾乃がわたしの胸に顔を埋めるようにしがみついてきた。

 さすがに裸同士なのでちょっと恥ずかしいが、背中に手を回し彼女の細い身体を抱きとめてあげる。

 しばらくして顔を上げた綾乃はようやく血が通ったかのように赤い顔をしていた。


「のぼせた? 気分は大丈夫? ちゃんと言わなきゃダメだよ」


 彼女の額に手を当てる。

 少し熱っぽい気がする。


「出よう」と声を掛けると、嫌がるように綾乃は首を振った。


「いつでもこうしてあげるから」とギュッとハグすると、「……うん」と素直になってくれた。


 当座の着替えとして準備してあった綾乃のお姉さんの肌着や服を借り、わたしはサッパリした気分で浴室を出た。

 綾乃とお姉さんは鞄に詰め込めるだけの荷物を持って家を出たそうだ。

 足りない分は日野さんが用意し、しばらくここで暮らすと教えてくれた。


「もう少し時間が掛かると思ってたのだけど、小野田先生があっさり話をつけてくれたのよ」


 日野さんによると、小野田先生が綾乃のお父さんと話し合ってこのウィークリーマンションを準備してくれたらしい。

 そして、今日ふたりを母親の元から連れ出した。

 母親が追って来れないようにキャシーが見張りとして残ったそうだ。


「根本的な解決じゃなく、母親やその仲間が何らかの行動を起こす可能性もあるから気をつけてね」


 日野さんの言葉にわたしは険しい顔で頷いた。

 綾乃とお姉さんは悲しげな気配を漂わせて顔を伏せている。

 その胸中は複雑だろう。

 問題があるとはいえ実の母親だ。


 宅配のピザをみんなで食べ、他愛ないお喋りをして場が和んだところで帰ることになった。

 後ろ髪を引かれる思いだが、明日も学校がある。


「明日、行けたら行くね」と言う綾乃に「行くなら連絡して。迎えに来るから」とわたしは答えた。


 分散登校でわたしは綾乃とは別のグループになっている。

 一緒に授業は受けられないが、登下校は一緒にして守ってあげたいと思った。


 日野さんと日々木さんに送ってもらい、わたしは自宅に帰り着いた。

 その道すがら何度も何度も感謝の言葉を伝えた。

 小野田先生に相談しただけだからと日野さんは謙遜するが、それができるだけでも凄いことだ。

 それに今日も日野さんがいたからスムーズに救出できたのだろう。


「須賀さんの思いが可恋や小野田先生を動かしたのよ。だから、これからも田辺さんをその思いで支えてあげてね」


 別れ際に日々木さんがそう言ってくれた。

 わたしは力強く「うん」と頷き、ふたりの姿が見えなくなるまで玄関に立って頭を下げていた。




††††† 登場人物紹介 †††††


須賀彩花・・・3年3組。ダンス部副部長。綾乃とは昨年夏から急速に仲良くなった。


田辺綾乃・・・3年3組。ダンス部マネージャー。両親、高校生の姉と4人暮らし。


日野可恋・・・3年1組。彩花たちの2年生の時のクラスメイト。彩花が頼りにする存在。


日々木陽稲・・・3年1組。彩花たちの2年生の時のクラスメイト。


小野田真由美・・・彩花たちの元担任。4月に教職を辞しNPO活動に従事している。

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