第677話 令和3年3月13日(土)「春の嵐」日々木実花子
入院中は世間から切り離された別世界に居るように感じてしまう。
この病院は人里離れた山奥に立地しているから尚更だ。
久しぶりに外界との繋がりを気づかされたのは夜半からの激しい雷雨によってだった。
病室まで届く轟音に、自分のことよりも遠くの家族のことが心配だった。
幸い朝には娘たちから私を気遣う連絡が届き、胸をなで下ろす。
姉の華菜は家の様子を写真に撮って送ってくれた。
一方、妹の陽稲からはアルバイトが延期になったという嘆きを面白おかしく綴ったメールが届いた。
私が居なくてもふたりは元気に過ごしているようだ。
年末の押し迫った時期に私は倒れ、入院を余儀なくされた。
若い頃は仕事や遊びに全力投球をしていた。
寝る時間を削ることも多かった。
とにかくガムシャラで、結構無茶もした。
そのツケが回ってきたのだろう。
昔は健康に気遣うなんてバカバカしいと思っていた。
どうせいつかは死ぬ。
だったら人生を楽しまないと。
若者にありがちなそんな考え方で好きなものを好きなだけ食べていた。
しかし、当然のことながら元気な状態と死の間には衰えや病といったものが存在する。
少しずつ健康に気を使うようになったが、それでも自分は大丈夫という思いがあった。
それがいかに甘い考えだったのか。
人は体験しないと分からないものだ。
私の母のように娘ふたりが独立したあと元気なうちに交通事故で亡くなるというのは、それはそれでありかもしれない。
苦しまずに、子どもの世話にならずに逝くのは。
いや、元気だった母のことだ。
まだまだやりたいことがあったのではないか。
いまとなっては分からないことが入院中の私の頭に何度も過ぎった。
私はまだ死にたくはない。
せめて娘たちが独り立ちするまでは……。
入院後の経過は良好だと言われている。
こうしてベッドの上で過ごす分には元気な頃と変わらないくらいだ。
問題は身体を動かした時だ。
すぐに息切れする。
少し無理をすると動悸が収まらなくなる。
ほんのそこまで歩くことが大変だった。
病院内での移動は車椅子に頼らざるを得ない。
健康であることがいかに大切か。
日常生活に支障をきたして初めて思い知った。
特に風呂やトイレの大変さは想像以上だ。
まだ若いと思っているのに介護がないとできないことが精神的に堪えた。
心臓に負担を掛けない形でのリハビリも始まった。
その苦しさに何度も音を上げそうになった。
担当医が、桜が咲く頃にお家に帰ろうと目標を掲げてくださり、その希望だけが心の支えだった。
今年は春の到来が早いらしい。
病院の中に居ると外界のことはさっぱり分からない。
今日の雨は春の嵐といったところか。
私はスマートフォンに送られてきた写真を眺めて、陽稲の卒業式がこの嵐と重ならなくて良かったと心から安堵した。
制服姿で友だちと撮った数々の写真に混ざって、袴姿で可恋ちゃんと並んだ写真もあった。
わざわざ着替えて学校の正門前で撮ったもののようだ。
制服の上にコート姿の可恋ちゃんはちょっと苦笑しているように見える。
一昨日は麗らかな春の陽差しが降り注いでいて、まるで幸せに包まれているようだ。
「……陽稲も少しは背が伸びているのかしら」
面会が許可されていないので子どもたちと2ヶ月半ほど会っていない。
陽稲は1年前から家を出て可恋ちゃんと暮らしている。
とはいえ朝のジョギングの時は家に寄ることも多く、月に何度かは家に泊まっていた。
これほど長く顔を合わせないと、子どもは平気でも親は寂しい気持ちを拭い切れないものだ。
身長はともかく、おそらく精神面はかなり成長しているだろう。
もともと出来過ぎと言えるような子だったが、この1年の成長には目を見張るものがあった。
中学生のうちに親元を離れることをとやかく言う人もいるに違いない。
だが、彼女は特別な才能「ギフト」を授かった子だ。
常識に囚われていてはその才能を生かし切れないのではという葛藤が私には常にあった。
可恋ちゃんと一緒に暮らすことは一種の賭けだった。
いまのところその賭けはうまくいっている。
その可恋ちゃんからもメールが届いている。
陽稲や華菜もまめに連絡をくれるが、可恋ちゃんも毎日のようにメールを送ってくれる。
陽稲の様子については私が倒れる前から頻繁に教えてくれていた。
いまはそれに加えて入院生活のあれこれが書かれている。
彼女は中学を卒業したばかりだが、悲しいことに入院の経験に豊富だ。
大人でも彼女を上回る人はそうはいない。
それだけに彼女の言葉には重みがある。
たとえば記録をつけるというアドバイス。
単調な入院生活の中で何をしたかという記録は1日1日の生きた証のようなものだ。
その時の気持ちを書けば客観的な捉え方ができるし、読み返すたびに決意のようなものが湧いてくる。
ほかにも些細な不安でも専門家に相談することや周囲とのコミュニケーションのコツなど、なぜそれが必要かから実に丁寧に教えてくれる。
明日からでも社会人として通用するレベルだ。
すでに彼女はNPO法人の代表を務めているが、それがお飾りではなく普通に実務を担当していると聞いても納得できるものだ。
いますぐうちの会社に欲しい人材と言ってもいい。
私が倒れたあと意識を取り戻して、最初に頭に浮かんだのは仕事のことだった。
その少し前から自分の体調が良くないという認識はあった。
しかし、年末の大事な時期だけに正月休みになるまで何とか乗り切ると考えていた。
結果、忙しい最中に倒れて多くの人に迷惑を掛けてしまった。
私が務める百貨店業界はこのパンデミック以前から危機的状況にあった。
そして、コロナ禍により存亡の機に立たされている。
昨年春の緊急事態宣言では長期休業となり大打撃を受けた。
私はその間に英語の勉強をして独立も視野に入れるようになった。
休業が開けたあとは忙しさに追われてその準備は滞っていた。
今回倒れたのを機に退職を決意した。
復帰できるのがいつになるか分からないし、責任を取る意味でもそれしか選択肢がないと思った。
にもかかわらず、すんなりと辞めさせてはくれなかった。
入院中なのでまだ正式な話はできていないが、上司にその旨を伝えたところ思いのほか強く引き留められた。
英語を勉強する傍ら、仕事として行ったインターネット販売に関する提案が上層部の目に留まったらしい。
どの百貨店もインターネットを利用しているが、百貨店の強みを生かしているとは言い難い。
知名度や信頼で一日の長があるとはいえ、それだけで百貨店が生き残れるほど甘くはない。
そこで私が考えたのは強みを生かすことだ。
私は長く衣料品の接客を担当してきた。
ファッションについて学び、お客様に最適な服装をアドバイスできるノウハウを身につけた。
こうした接客が苦手なお客様が相当数いらっしゃることは理解している。
しかし、私たちはプロだ。
TPOやこういう感じの服が着たいというお客様の希望に添った最善の選択を提供できると自負している。
現在の技術ならインターネット上でもそれができるのではないか。
プロの仕事を売りにすることでほかと差別化できるのではないか。
そういった提案だった。
人は服に関して保守的になりやすいので、自分を変えるための第一歩として活用してもらいたいという思いがある。
これはきっと陽稲のファッションに対する考え方に影響を受けている。
陽稲も私のファッション観を受け継いでいるので、親子で刺激し合って到達したアイディアかもしれない。
社運を賭けるなんて言われて私は辞めるに辞められなくなった。
やるからには絶対に百貨店の名前や信用に傷をつけてはならない。
それだけに有能な人材は喉から手が出るほど欲しいところだが、娘の友だちに頼っていては母親失格だ。
……彼女ほど時間の大切さを切実に感じて生きている人はいないのだから。
私は手にしていたスマートフォンを枕元に置き、その横から1冊の本を手に取る。
休憩は終わり。
身体を動かすことが困難でも勉強はできる。
インターネットで何ができるのか、そのリスクや限界は何か、改めて一から学び直している。
カラーコーディネイトもちょっとした光の加減で最適のものを選べなくなる。
文字だけのコミュニケーションだとどんな問題が起きやすいのか。
そうした様々な課題を乗り越え、革新的なサービスを作り上げる。
平均寿命から言えばまだ半分を折り返した辺りだ。
私には挑戦したいことがたくさんある。
死ぬ訳にはいかない。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木実花子・・・心不全と診断され現在入院中。退院後は自宅療養の予定だが早期の仕事復帰も検討している。
日々木華菜・・・高校2年生。長女。料理が趣味で栄養学についても学び、母親帰宅後の献立についていまから頭を悩ませている。
日々木陽稲・・・中学3年生。次女。ファッションデザイナーを目指している。類い希な容姿を持ち、祖父の財力によって数多くの衣服を所有している。彼女も他人の服装のコーディネイトが好きだが、奇抜すぎてビジネスとしては……。
日野可恋・・・中学3年生。生まれつき免疫系の障害があり、入退院を繰り返す生活を続けていた。体力がつき入院する機会は減ったが、新型コロナウイルスの影響により今年度は登校を控えるという判断を下した。
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